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形あるものは壊れるからこそ教養をやる価値があるんだろう

私は大学で音楽をやっている。音楽は教養だ、決してすぐに社会で役に立ったりはしない。
私はこの19歳から22歳の時期に、わざわざ通学し身に着ける必要のある教養が身につけたくてピアノ専攻に入った。しかし、教養は価値あるよ!と手放しに言えていた高校生のころと違い、教養ど真ん中を専攻していると教養の価値とは…?となってくるものだ。

そんなこともあり、教養の価値について最近ずっと考えていた。よく語られる教養の価値は、物語がもっと楽しめるだとか雑談の引き出しが増えるだとか、わかりやすく役に立つ話に持っていかれがちだが、なんだか教養が役に立つという文脈に持っていかれることに違和感があった。
役に立たなくたって立派に価値があるじゃないか、雑談の引き出しになるから価値になるって言ったって、雑談の中で使われなかった教養は価値なくなるんですか?と屁理屈みたいなことを思ってしまう。

でも、2月くらいにピアノの先生の言葉で1つモヤが晴れるものがあった
以下、ピアノの先生の言葉を引用

新年早々起った大きな地震で、形あるものは壊れるのだと実感しました。
音楽は絶対に壊れない、私たちがやっていることは、1000年以上壊れず聴き続けられている音楽を、後世に残していくことです。

ピアノの先生が発表会で言ってた

これに尽きるなと腑に落ちた。
教養って、形のないものをこれからに残していくためのすごく高尚な試みだ。教養は何かにぶつかって壊れたり、天災や戦争で壊れたりもしない。何もなくなった場所でも文明があれば生き続ける資産という意味では価値のあるものだと思う。
そして、形があるものは壊れるという言葉は壊れるから直るとも解釈できる。形のないものは壊れない代わりに人間の認識から消えてしまったらずっと直らないし帰ってこない。私たちが学んで解釈して残していくしかない。

ライフステージによって仕事頑張るのも子育て頑張るのもその時々でやっていけばいいが、一生続けるものや一生かけてやることを考えたとき、壊れないし突き詰めても終わらない教養にこそ価値があると思う。

ゴチャゴチャ書いたが要は大学生活を勉強せず飲みやら恋愛やらにフルベットしてるカス大学生は勉強してください

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