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鈴木ユーリ「ニュートーキョー百景」#2 新宿二丁目「LGBTタウン」って呼び方、しゃらくせえな(前編)

 甲州街道を歩いてると、太宗寺で盆おどりをやっていた。

 夏のはじめ、陽が落ちても空はまだ青く、浴衣すがたの踊り手もまばら。宵がふかまると、近所の住人や子どもだけでなく、祭り囃子につられてカップルや外国人観光客も境内につどってくる。高まる太鼓のひびきに、やぐらをかこむ人の輪が二重、三重にふくれていく。

 ラスト二曲は『マツケンサンバ』と、氷川きよしの『チャンチキおけさ』だった。

 セレクターの趣味なのか、ほかに理由があるのか。おかまいなしに手をひるがえし、行燈の下でみんな楽しそうに踊ってる。

 太宗寺は新宿二丁目のはずれにある。古くは「お閻魔さま」と呼ばれ、内藤新宿のシンボルだったという。江戸後期、あたりは「飯盛女」がおとこたちを接待する非合法の宿場となった。明治期には妓楼がならぶ公認の遊郭となり、大正時代には縁日やカフェーがたちならび、戦後の赤線時代までわいざつな色街として知られた。それが一掃された跡地に、世界的にも特殊なゲイタウンがかたちづくられたのは、1958年の売春防止法施行後のことだと歴史の本にはある。

 はじめは二丁目が嫌いだった。

 先輩に連れてかれるのはきまって老舗のゲイバーで、席につくと額に鉢巻きをしめたママが、挨拶がわりに「いらっしゃ〜い」と股間をさわってくる。ママが嫌だったのではなく、カウンターにならぶ顔ぶれはゴールデン街とかわらず、業界人ぶった訳知り顔が鼻持ちならなかった。

 好きになったのは友達のせいだ。


「何してんの今夜? 踊り行こうよ」

 あの時も夏だった。

 七夕祭り、平塚にヤンキーを撮りに行った帰りだった。「モデルの子も来るよ」と言われ、釣られて見ると、たしかにその子は美人だったけど、横にはUくんもいた。歌舞伎町生まれの有名な新宿の不良だ。しかもモデルの子はすぐ帰った。男3人で今はもうない地下のクラブに行くと、当時むやみに流行っていた泡パーティをやってた。DJが両手をつきあげるたび、ステージからはゴーストバスターズみたいなマシンから泡が噴射されて、最前列では上半身裸のマッチョたちがモッシュしていた。マッチョ軍団を蹴ちらすような、夜なのに濃いサングラスをかけたUくんのステップは、氷室京介みたいでイカしていた。

 まだ二丁目公園もリニューアル前だったとおもう。ローソンでビールを買っては路上でもよく飲んだ。背後でふたつの黒いシルエットがトイレに吸いこまれていく。売り専のメッカだとはなんとなくは知ってたようにおもう。

 やがて行きつけの飲み屋もできた。

 いわゆるミックスバーに属する。ぜんぜんノンケも歓迎してくれるけど、そのぶん自衛しなければならない。となりに座ったゲイどもは老舗バー以上にがっついてくる。「さわんなよブス」と、股間に伸びてくる手を払いのけても、「やだ。そんなオラオラぶっちゃって」とめげる様子はない。吐息まじりに黒人のゲイが、「ユーアーソルジャー?」と耳もとで連呼してくる。知ってる英単語は「テイクイットイージー」しかなく、しかたなくそこだけ白い手のひらに乳首をなでられながら、ハイボールの割りがひたすら硬くなってく夜もある。

 でもノンケはむしろ、男より女のほうが格段に多い。観光バーには好奇心旺盛な若い子が、終電後に奇声を上げながらボーイズバーに繰りだすのは、たいがい営業明けの歌舞伎のキャバ嬢。

 ひとりで訪れるのはどうみても訳ありの年増か、『明日、私は誰かのカノジョ』の萌みたいな悲しい子にかぎられる。バイトの若い店員の頬はまだおぼこく、バサやんのようにまだゲイとバイの間で揺れうごいてるセンシティブなクイアが多い。アスカノはいつだって正しい。

【著者プロフィール】
鈴木ユーリ
ライター。「実話ナックルズ』にて連載『ゲトーの国からこんにちは』など