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【鈴木智彦】シリーズ昭和不良伝「真説・万年東一」愚連隊の神様と呼ばれた男【第6回】

不良のカリスマとしていまなお強く支持される万年東一。愚連隊の元祖、あるいは神様とさえ呼ばれた男は、77年の人生で何を語り、何を残したのか。誰も描かなかった素顔に迫る。
(取材・文=鈴木智彦/協力=万年蘭)

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戦前戦後の東京に暴力伝説の数々を残した「愚連隊の元祖」万年東一

遊郭の街、新宿へ

 1933年(昭和8年)、万年一派はたまり場だった小池農夫雄夫妻の住むアパートから巣立ち、中目黒から新宿へと移り住んだ。
 借りたのは文化ハウスというアパートの2階にある一室で、間取りは六畳一間風呂なし、トイレは共同という格安物件だ。山平重樹の『愚連隊の元祖 万年東一』には六間道路から四谷方向に入り、洗濯屋の角から2軒目にあったと書かれている。当時、まだ存命だった舎弟から直接訊いたと推測され、他の書籍には具体的な記述がない。
 六間道路は今でいう日本一のゲイタウン・新宿2丁目の目抜き通りである。一間は六尺で、181・818センチメートルだから、六間はざっと10メートルと9センチになる計算だ。実測して裏取りはしていないが、たしかにあの通りの車幅もこの程度だろう。
 当時、一帯は新宿遊郭だった。
「新宿遊廓は東京市四谷區新宿二丁目に在つて、市電は新宿三丁目下車省線なら新宿驛の表口から東北へ約三丁の處である。大正二三年頃迄は、市電通りの甲州街道に沿って娼樓が散在したものであるが、大正五六年頃に今の遊廓に移轉して一廓を爲したものである。品川、千住、板橋等と略同様な經路を辿って発達して来たもので、甲州靑梅兩街道關門の宿場女郎であった。寶暦年間頃から發達した遊里が、享保年間に一時中止を命ぜられた。然し安永の初めに再び飯盛女として許可されたので、宿場女郎として大いに發展しつゝ明治に至つたものである。目下貸座敷は五十三軒あつて、娼妓約五百六十人居る。福島縣、宮城縣等の女が多い」(『全國遊郭案内』昭和五年初版)
 全国的にみれば高めの遊郭だったが、美人が多く人気があった。時間をずらせば格安で泊まることもできたらしい。当時、こうした遊郭の周辺には、「飲む(酒)、打つ(博奕)、買う(女)」の店が蝟集し、大人のワンダーランドを作り上げていた。万年を見込んだ小金井一家新宿の当代である平松兼三郎の事務所もここにあった。
 いまでいう用心棒代は、遊郭から定期的に平松の元に運ばれていた。現代暴力団が売春産業に寄生するのは、本番行為を行う性風俗産業が、実際には違法な管理売春でありながらも極めてアクロバティックな法解釈で、合法を装っているためだ。つまり暴力団は警察に駆け込めない弱みにつけ込んでいる。が、売春が合法だった時代であっても、新宿遊郭のように遊郭と博徒が共生関係にあったのはおもしろい。もっとも平松のシノギはあくまで博奕であり、遊郭の付け届け程度は、賭場の上がりに比べれば微々たるものだったろう。

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