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仏のいえ(2024年4月)

今年の仁科桜は4月10日頃に咲き始め、14日頃に満開となりました。仁科桜が散り始めると、陽光桜や片丘桜、しで桜、御衣黄などの山桜が咲き、足もとにも雪割草、タツタソウ、カタクリ、水仙、シラネアオイ、、、と山野草が次から次へと境内を華やかに彩ってくれました。山鳩、イカル、鶯、蛙と鳥や小さな動物たちも歌い始めました。その中で、畑をすることは至極幸せなこととしてあります。

4月16日 満開の陽光桜と耕した畑


4月1日から梵鐘の時間が、6時から5時に変わりました。現在、毎日の梵鐘や除夜の鐘としてついているものは、平成18年の現住職の晋山式に併せて、ご寄付によって作られました。その鐘とは別に、江戸時代の1724年、ちょうど300年前に作られた半鐘があります。無量寺の寺宝であり、塩尻市の有形文化財にも指定されています。当時の住職であった第五世随誉聖順和尚様が、松本の鋳物師浜伊右衛門に依頼し、自己の所持金と信徒の浄財により鋳造されたもの。当時、隠居さんの身であった第四世直西和尚様が、釣鐘に金が含まれると良い音がでるという謂れから、松本まで出向いて所持金全部の小判を鋳金のなかに投入したと言い伝えられています。「直西(ジキセイ、リキセイ)の鐘」と呼ばれ、この南内田の村民から大切にされてきました。

「直西の鐘」

時は太平洋戦争。真珠湾攻撃が始まる4カ月前の1941(昭和16)年8月。国家総動員法に基づき、全国の金属類回収令が公布されました。これによって強制的に金属製品が回収され、寺院の鐘も次々に回収されていきました。戦前には国内に5万個もあったとされる寺院の半鐘も、戦後3000個にまで減ったそう。
当時のご住職であった周山様も「国の言うことだから仕方ないか」と思っておりました。しかし、南内田の村民は「絶対に外に出したくない。この大切な半鐘が、人を殺すための武器になっては困る。俺たちに任せてほしい」と願い出て、内田地区の火の見櫓にあった鐘とすり替えたことで回収から免れ、戦争後、無量寺に戻されました。まさに村の人たちによって守られたのです。
今のように時計が当たり前のようになかった時代、鐘の音は時計の役目を果たしていました。田んぼの水路が整備されていない中、梵鐘の音を頼りに水路の蓋を開け閉めすることで、村民全ての田んぼに平等に水が行き渡るように工夫をしていました。
また、鐘の音は仏様の声であり、その音を聴いた人がこの世の一切の悲しみから解放されるように、願いを込めて鐘はつかれていました。鐘の音を聴いて心が安らぐのは、このことがあるからなのかもしれません。

宗門では梵鐘を打つときにお唱えする「鳴鐘偈」というお経があります。今のお寺では9回。鐘を一つつく毎に、五体投地をしながらこのお経を唱えます。

三途八難 (さんずーはーなん)
息苦停酸 (そっくじょうさん)
法界衆生 (ほっかいしゅじょう)
聞声悟道 (もんしょうごどう)

(意訳)もろもろの悪趣の世界の苦悩や辛酸は終わりをつげ、生きとし生けるものの全ては、鐘の音を聞いて正しい道を悟ります。

今月は、片丘小学校6年生24名が先生とご一緒に、平和学習でお寺を訪ねてくださり、この「直西の鐘」について学んで下さいました。仏様の声である鐘の音が、二度と殺す武器に変わらぬよう、子どもたちを通して語り継いでもらいたい、心から願うばかりです。

半鐘を打つ小学生

この半鐘は300年、境内の桜は400年という長い年月、村の人に愛されて守られてきた土地と人々の結びつきに愛しさを感じるばかりでした。聖順和尚様、直西和尚様の願いが永劫に響き渡り、人々の安寧を願えるよう私も努めたいと願います。


4月17日は、住職と副住職と一緒に、鬼頭春光先生にお会いしに行ってきました。今年2月に99歳になられた先生。お目にかかるなり「難値難遇ですね」と手を合わせて下さいました。杖は持っておられましたが、耳もよく聞こえ、99歳とは思えないほどお元気なお姿。ある方に長生きの秘訣を訪ねられると「よく歩くこと、なんでもありがたく頂くこと、布団を敷いてただ寝るのではなく、感謝をして手を合わせてから眠ること。人間に生まれたのだからね。」とお答えになられたそうです。それだけ、と思いそうなことですが、出来ているか自問しても自信がない三つのこと。最近少々落ち込んでいたけれど、先生に元気を頂きました。
私と住職、副住職と三人とも尼僧堂で修行した時代は違うものの、同じ先生に習った経験はとても貴重なものとしてあります。まだまだお元気で、わたしたちを引っ張って頂きたい、そんな甘えの気持ちでおります。

44歳の私と99歳の鬼頭先生

あまり長居しては先生がお疲れになるだろうと、約3時間でお別れし、帰路につきました。その日のお礼をお伝えに電話をすると、副住職である先輩が「先生はあの後、散歩をして、晩課(夕方のお経)もされていましたよ。いつも、晩課が終わって戻ってこない時は、坐禅もしているんです。」と教えてくださいました。怠癖のある私は恥ずかしいばかりでした。

良寛さまは、わが家に来られて二晩かそれ以上、泊まっていかれた。そんな時は、何となく 家中が和やかになり良寛さまが帰られたあとも、数日間は、家の者はみな明るく打ちとけてい た。良寛さまと一晩でも一緒にいると、心が洗われて澄みわたっていくように思われた・・・。」

良寛禅師奇話

そんな逸話が江戸時代の曹洞宗僧侶、良寛さんにある。鬼頭先生にお会いした後、私たち三人はまさに同じ心持ちであった。そして、背筋が伸びる想いを頂いたのでした。

「花無心招蝶」良寛作 書松原泰道老師

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