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自分のセクシュアリティについて



ひょんな会話から

この間、パートナーとのたわいもない会話の中で、
「自分が持つコンプレックスは何か?」
という話になった。

この話は以前にも彼としたことがあったのだが、
改めて考えてみても、
答えは前と大きく変わらなかった。

それは、
「女性性を表現するのが苦手」
だということ。

どういうことかというと、
私をよく知る身近な人たちがどう思うかは
一旦置いておいて、
「女性らしさ」を前面に出すファッションを
着ることに抵抗があったり

内面的なものに関しても
特に、男性を相手に
女性らしく振る舞うことが苦手
だった。

具体的に言うと
・男性に奢られるのが苦手
→その人と対等に話せなくなる気がしてしまう
 「払ってあげてる」「払ってもらってる」という
 見えない上下関係ができるような気がする

・合コンやマッチングアプリが苦手
→「男」と「女」として知り合うことが勿体無いと感じる
 もっとフラットに出会えたらなぁと常々思う

・「モテる女のさしすせそ」なるものに強く不快感がある
→なんで女性だけこれをする必要がある???と単純に思う

さ:「さすが」

し:「知らなかった」

す:「すごい」

せ:「センスいい」

そ:「そうなんだ」

婚活あるある

人間関係の作り方においても、
この「女性性を強く押し出さない」特性は
大きく影響してきたように思う。

自分の交友関係を覗いてみると、
身体的男性/女性の比率は同じくらいで、
「この人は男の人だから仲良し」
「この人は女の人だから仲良し」
という感覚もあまりない。

生まれてきた性別やセクシュアリティが
どうであるかはあまり重要ではなく、
常に人間関係を繋ぐモチベーションは
「人として好きかどうか」
ただそれだけだった。

だからこそ、
これはエゴに過ぎないので
押し付けるつもりはないが、
他人が、自分との交友関係を作っていくときも、
できることなら、
魅力を感じてもらうポイントが
「女性として」だけではなく、
「人として」も強く持ってくれたら嬉しいな、と思う。

自分自身女性性が0なわけではないと自覚しているので、
女性として魅力を感じてもらうことも、
嬉しさが全くないわけではもちろんない。

ただ、「女である私のことが好き」という表現をされると、
受け取るまでに時間がかかる。

特に今までこの感覚でいて
大きな不便があったことはないが、
SNSなどを見ていると、
明らかに自分が持ち得ないものを持つ人たちが
たくさんいて、感覚的に
私は"一般的な女性"(何を一般というかはさておき)とは
何か違うものを持つんだろうなと
思っていた。

彼との"コンプレックストーク"の中で
いろいろと深掘りながら会話をしていた時に、急に
「自分のセクシュアリティは
 100%の女性ではないのかもしれないなぁ」

そんな仮説が湧いてきたのだった。

そうして、流れで、軽い気持ちで、
「セクシュアリティ診断」なるものを試してみた。

そうして出てきた結果が、こちら。

セクシュアリティ診断の結果

(その時のスクショそのまま)

まんまこれやんけーーーー!!!!となった。
そう、私、多分ノンバイナリーだったのです。

ネット上で調べたノンバイナリーはこちら。

ノンバイナリーとは、(身体的性に関係なく)自身の性自認・性表現に「男性」「女性」といった枠組みをあてはめようとしないセクシュアリティです。

JobRainbow

ノンバイナリーは、性自認や性表現において
「男性」「女性」を当てはめようとしない特性があるようだが、
私の場合、今のところ、性自認は女性で、
性表現に関して、若干ノンバイナリー的な要素があるなぁ
といった認識でいる。

ここから、ノンバイナリーや、地球上に存在する
数えきれないセクシュアリティについて、
初めて「当事者かもしれない」という視点を持ちながら
ネット上の情報を読み始めた。

その中で、私もこのタイミングで知ったのだが
私も大好きな宇多田ヒカルさんが、
2021年に自身がノンバイナリーであると公言した時の
記事が出てきた。

宇多田ヒカルさんは、
自身がノンバイナリーであることを知った時、
ずっと疑問を抱いていたことに対して答えを提示してくれる、
やっと出会えた言葉だった、
と思ったそうだ。

自分は、診断が出てきた時、最初は
正直そんなに安心感を覚えたような感覚ではなかった。
どちらかといえば、
よくわからないグレーゾーンでいる方が
心が楽だなとすら思った。

話は少し変わるが、
私は大学生活の4年間を台湾で過ごしていた。
台湾は、2019年に正式に同性婚が認められた
アジアで初めての国であり、
台湾に来たての私自身も初めは戸惑ったほどに
周りに自分のセクシュアリティを公言している人が多かった。

また、卒業して日本に帰国してからも、
性自認/性的表現/性的指向が
完全に男性か女性どちらかに寄っているわけではない、
と教えてくれた友人もちらほらいて、
自分自身そういったセクシュアリティに関して
人から何かを告げられたところで、
大きく見方が変わるとか、
そういった意識を持っている自覚はなかった。

ただ、「ノンバイナリーかもよ、あなた」という
診断が自分に向けて差し出された時、
少なからず戸惑いがあった。
というか、初めの10分間は、かなり戸惑った。

具体的にはわからないけれど、
何かが大きく変わっていってしまうような気がした。

けれど、びっくりしたのは
パートナーの反応。

彼は診断の過程も結果もその時一緒に見ていたのだが、
「ん?だから何?」というようなリアクションだった。

彼いわく、
今までの私の行動や聞いてきた考え方が今回の診断と
ほとんどズレなく一致している、
それにただ名前が付いただけで、
ギャップを感じる必要性が無いよね、
ということだった。

私は私のことをどう頑張っても
客観視することはできないので、
自分の性はどこを切り取っても女性だと思っていたし、
たまに湧いてくる「女性性」についての
コンプレックスや悩みも、
特にセクシュアリティとは紐付けていなかった。

だからこそ、名前が付いたときに戸惑いがあったが、
今は戸惑いの代わりに大切な感情とともに
いることができている。

自分のセクシュアリティの名前を知って、今

パパママお姉ちゃん、まじありがと🎶

まずは、自分がノンバイナリーであるのには
何かしらの因果関係があるのではないか?と思い
家庭環境を遡ってみた。

私の家庭は、父、母、姉、私の4人家族なのだが、

  • 父性の強くないラブリーな父親。
    基本定時で帰ってきてくれる。おしゃれ好き。料理担当。

  • お仕事忙しめの母親。
    基本ショートヘアでメイクはしない。優しくて母性があるが漢気もある。

  • 2個上で超自然体の姉。
    キラキラスマート系JK出身だが大学以降人間としてのスケールが地球規模に。

こんな感じで、
昔のドラマで出てくるような"ザ・日本の家庭"とは
少し離れているかもしれない。

父親のことを男らしいなと思ったことも
母親のことを女性らしいなと思ったことも
多分ほとんどないし、
父親の威厳的なものを見せつけられたこともなければ、
母親が感情的になって人に当たるようなことも
見たことがない(ドラえもんの映画のCMとかでは泣くけどね)。

この家庭で生まれ育った私は、思い返せば
「女の子なんだから〜しなさい」的な教育はなく、
「性別」というものを家庭内で
強く意識させられたことがなかった。

「性」に関することに限った話ではないが、
何事も自由にやらせてもらえたり、
自由な価値観を持たせてくれるような環境だったからこそ
私は私を「女性として」ではなく
「1人の人としてどうあるか」を突き詰めてこれたのだと思う。

そう思ったら、「ノンバイナリー」である自分を
自然に受け止めることができた
し、
なんなら両親に向けて、まじでありがとね?!?!という
食い気味な感謝の気持ちも湧いてきている。

おわりに

今回の記事は、個人的に
カミングアウト的な大々的な意味を持つものとして
捉えていないし、
ここからも何かのイデオロギーを
強く主張していきたい、という気持ちも今は特にない。

ただ、これまでの人生で
学問や普段の生活の中でも何度も通り過ぎてきた
「セクシュアリティ」に関して、
「当事者」として自分の現在地を知れたことは
自分にとっては大きく意味のあることだった。

そういう意味で、書き残してみました。
何か感じることがあったら、ぜひコメントくださいませ🫶






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