温泉旅行恐怖の連続殺人 後編

高瀬 甚太

 

        5
 「それにしても被害者はなぜ東藍子の持ち物を所持していたのだろうか」
 安置室から署内のロビーに戻った藤堂院長は、井森に対して素朴な疑問を口にした。
 東藍子の安否は依然つかめていない。
 井森は、原野警部と木下刑事の二人に、白浜にいるはずの東藍子の行方を探ってもらうよう依頼し、ホテルへ戻った。
 ホテルに戻るとロビーで下條とみどりが待っていた。
 「先生、藍子は?」
 と下條が藤堂に聞いた。
 藤堂は下條の肩をやさしく抱くと、
 「大丈夫だ。遺体は東くんのものではなかった。ただ、被害者はなぜか東くんの持ち物を所有していた……、そのことについては不明だが」
 ロビーには、青山昭彦がいた。下條が青山を指さして説明をする。
 「青山さんは田辺市に古くからの友人がいるということで、ロビーで待ち合わせをしていたようです。外には出ないよう言っていますので大丈夫です。他のみんなもそれぞれ部屋で休んでいます」
 下條の説明を聞き、藤堂は安堵の表情で胸をなで下ろした。
 「きみも部屋へ戻って休みなさい。私も部屋に帰る」
 藤堂の言葉に下條は大きく頷き、上階に向かうエレベータのボタンを押した。
 二十五階建ての豪壮なホテルである。そのホテルの最上階に藤堂医院の一行は部屋を取っていた。エレベータを降り、藤堂や井森、みどりと別れ、部屋に入ろうとした時、下條の携帯が突然、鳴った。
 携帯の着信を見た下條の顔色が急に変わった。
 「院長!」
 部屋のドアを開けようとした藤堂は、立ち止まり下條を見た。井森もみどりも共に下條を見る。
 「東さんから電話がかかっています」
 「早く出ろ!」
 藤堂が叫ぶと同時に下條が電話に出た。
 ――もしもし、藍子ちゃん?
 下條が電話の相手を呼んだ。
 ――……。
 しかし、応答がない。
 ――もしもし! 藍子ちゃんでしょ。
 電話の向こうは無言のままだ。何も返答がない。
 ――もしもし!
 下條が何度か相手の名前を呼んだ時、
 ――下條さん……。
 かぼそいが藍子の声がした。下條が叫んだ。
 ――藍子ちゃん、どうしたの? どこにいるの?
 携帯を握りしめて下條が叫ぶ。
 しかし、すぐに電話は切れた。
 「東くんだったのか?」
 藤堂の質問に下條は首を大きく振って応えた。
 「間違いなく東さんでした」
 「そうか。東さんはやっぱり生きていたのか」
 井森の言葉に驚いた下條が、井森に聞いた。
 「やっぱりって……。どういうことですか?」
 井森はそれには応えず、静かにドアを開けると、自分の部屋の中へと入って行った。

  翌朝、ホテル内のレストランに全員が集合し、食事をすることになっていた。時間は午前8時。前もって下條が全員に伝えてあった。真っ先に現れたのは清水と広島だった。その次に坂本が現れ、後を追うようにして但馬が現れた。みどりと下條、山本がその次で、林が少し遅れて現れた。水田と佐藤はホテルの浴衣を着たまま現れ、藤堂と井森を除いて笠井、青山、三田の三人は時間を過ぎても現れなかった。
 バイキング形式の豪華なメニューをそれぞれ皿に盛ってテーブルに運ぶ。10分ほど経った頃、バタバタと足音がして三田が現れた。
 「遅いわね。笠井さんと青山さん」
 30分が経ち、ほとんどの者が朝食を終えた時間になっても、二人は現れなかった。
 「もう、まだ、寝ているのかしら」
 怒り心頭の下條が二人の部屋に電話をかけた。だが、誰も出なかった。
 「ほんとに、もう!」
 しびれを切らした下條が
 「私、起こして来ます」
 と言ってエレベータに向かった。
 「ちょっと待って、私も行く」
 みどりが下條を追いかける。
 二人の部屋は最上階の南端にあった。下條がドアをノックするが返事がない。
 「笠井さん、青山さん」
 下條の声に部屋の中からの応答がまるでなかった。
 「おかしいわ」
 不審に思ったみどりがホテルのフロントに電話をかけ、部屋の鍵を開けてくれるよう依頼した。
 少しの間を置いてフロントの係が鍵を持ってやって来た。
 その時、通路の端のドアが開いて藤堂と井森が顔を覗かせた。
 「どうしたんだ?」
 「先生、笠井さんと青山さんが朝食の時間になっても降りて来ないので起こしに来たのですが、応答がなくて……」
 下條が説明する間に係がドアを開けた。
 部屋は暗く、カーテンが閉まったままだった。ツインベッドの二人は横たわったままの姿でいる。
 「まだ寝てるわ。こんなに騒いでいるのに」
 下條がベッドに横たわる二人の布団を剥ごうとして、「キャーッ」と叫んだ。

      6

  パトカーのサイレン音がけたたましく鳴り、白浜署の宮本刑事と共に原野警部と木下刑事がやって来た。ホテルの支配人がそれを出迎え、捜査に入った。事件の少ないこの町に起きた希有な事件である。署員、ホテルマンは、全員、強い緊張の中にあった。
 昨日夜、身元不明の死体が発見され、今朝また、旅行客二人が変死を遂げた。続けて起きた三つの事件が連鎖するかどうか、それさえもわかっていない。わかっていることは、どれもが殺人事件であったことだ。
 青山昭彦が最後に目撃されたのは午後11時、ホテルのフロントが友人と話し終えてロビーを去る青山を目撃している。特に変わった様子はなかったという。
 笠井清は食事を終えた後、ホテルのラウンジに出かけたようだが、以後、彼を見た者はいない。二人の部屋に出入りした者もおらず、部屋には鍵がかけられていたこともあり、事件は密室殺人の様相を呈していた。
 死因は解剖を待たなければならなかったが、遺体の状況から毒性のものを口にしている可能性が高かった。二人の遺体には目立った外傷はなかった。
 犯人の目的もわからなければ、なぜ彼等が狙われたかすら、わからなかった。しかも今回は密室である。原野警部は混乱した頭をかきむしった。
 藤堂も井森も同様に頭を抱えていた。藤堂に挑戦状を叩きつけてきた男、いや、男らしき人物は藤堂のスタッフを次々殺害すると藤堂に予告して来た。実際、遠藤が狙われ、東が行方不明になり、今また笠井と青山が殺害されている。
 何事か思案していた井森は、みどりを呼ぶと何やら耳打ちをした。井森に指示を受けたみどりは、慌ただしくホテルを出て行った。それを見た木下刑事が井森に苦情を言った。
 「江西さんはどちらに行かれたのですか? 事件の重要参考人の一人ですから勝手なことをされても困ります」
 井森は、木下刑事の苦情に応えるように説明した。
 「木下刑事、この事件にはいくつか特徴があります。一つは藤堂歯科医院のスタッフが狙われていること。もう一つは毒が用いられていること。ここに事件を解く鍵があります」
 「それと江西みどりさんが何の関係があるのだ?」
 原野警部が口を挟んだ。
 井森は原野警部をなだめるようにして言った。
 「彼女には大阪へ戻ってあることを調べてもらうよう依頼しました。少し気になることがあるので確かめたいのです。そうしなければ事件はまだまだ起きます。それでもいいのですか?」
 と言い、不審な表情を隠さない木下刑事と原野警部を無理矢理納得させた。
 しばらく時を置いて原野警部の元に報告があった。昨夜の殺人事件の被害者女性の身元が判明したのだ。歯の治療跡からわかった被害者の身元は、井森や藤堂の推理したものとほとんど違わなかった。
 被害者は斉藤浅子、二五歳、北新地で働くホステスだった。
 周辺の聞き込み調査によると、彼女は二、三日前から白浜へ旅行に出かけると口にしていたと言う。しかも単独の旅行ではなかったことが判明した。しかし、同行者が一人であるか数人であるか、誰と行ったかまではわかっていない。
 もう一つ、彼女が最近トラブルを抱え、悩んでいたことも判明した。だが、詳しい内容までは、これもまた誰も知ってはいなかった。
 報告を受けて、ひとまず原野警部は帰阪することになった。井森の言う、殺害された被害者の周辺に大阪、白浜を結ぶ連続殺人を解く鍵があると思ったからだ。
 みどりを大阪へ帰した井森は、全員をロビーに集めて今回の一連の事件について説明した。
 「青山さんと笠井さんの命が奪われ、東さんの行方もまだわかりません。遠藤さんは一命こそとりとめましたがまだ重症です。今回の事件は明らかに意図的に仕組まれたもので、そこに藤堂歯科医院に対する激しい憎悪を感じます。また、藤堂院長に対する憎しみも強く感じます。だが、藤堂院長にはこれと言った心当たりがないと院長からお聞きしています。このまま事件が終息するとは思えませんし、これからもまだまだ起きる可能性が非常に高い。皆さんに注意したいことは単独行動を慎んでほしいということです。非常に危険な状況であると言うことを理解しておいてください」
 井森の話を神妙に聞いていた下條が藤堂に質問をした。
 「院長先生、今日の予定はどうしましょう?」
 ホテルを出るのが午前10時、白浜アドベンチャーワールドで午後3時まで過ごし、午後4時の便で帰阪する。それがこの日のスケジュールだった。藤堂に代わって井森が答えた。
 「予定通り行ってほしい。ただし、先程も言いましたが、くれぐれも単独行動は慎むようにしてください」
 井森だけはホテルに残り、笠井と青山の検死報告を待つことにした。

 秋の陽だまりの中で井森は事件を反芻していた。ガラス張りのロビーの向こう側に南紀の青い海が見える。穏やかな海面だ。秋空と白い雲、平穏な日常がそこにあった。だが、現実はどうだ。わずかな間に四人が襲われ、一人は重症、一人は行方不明、二人が亡くなっている。どうしてこんなことが起きるのだろうか。井森は考えた。藤堂院長に恨みを持つものの仕業としたら、一体それは誰なのだろうか。
 人は気付かぬうちに大罪を犯している場合がある。善意が悪意に取って代わることもままあった。相手の気持ちに気付かぬまま、傷つけていることもよくあることだ。だが、それにしても誰だ。誰が藤堂院長を……。
 恨みを受けるとしたら、藤堂の歯科医としての医療行為から来るものだろうか。しかし、藤堂は歯科医として治療に失敗したことなどこれまで一度だってなかったはずだ。だが、失敗はしなかったとしても人を傷つけたことがなかったと言いきれるだろうか。
 井森は、藤堂にこれまでのことを聞いてみなければと思った。
 藤堂に連絡を取ると、藤堂はすぐに電話に出た。井森が、話を聞きたいことがあると告げると、藤堂は、わかりました、と言って電話を切った。藤堂も井森と同じことを考えていたようだ。

        7

  ホテルに戻って来る藤堂を井森はホテルのロビーで待った。藤堂も井森と同様にこれまでのことを考えていた。
 ――事件の謎を解く鍵は、藤堂の過去の中にある。
 井森に会った藤堂は、井森の問いかけに、ゆっくりとした口調で過去を語り始めた。

  藤堂は大学院で歯科治療の研究を行っていた。ゆくゆくは大学に残り、教授になることを目指していたが、いざ、この世界に入ると、思ってもみない猥雑なことが多すぎた。派閥、足の引っ張り合い、そのことだけで藤堂は疲労困憊してしまった。研究を続けることが虚しくなった藤堂は、研究室を離れ,放浪の旅に出た。
 その間、藤堂は各国でボランティアをしながら歯科治療に励んだ。
 子どもの成長に歯が及ぼす影響の大きさを藤堂はボランティア体験の中で学んだ。藤堂はこのまま、発展途上国の歯科医師として生きていくつもりだった。
 そんなある日、藤堂は日本にいる母から連絡を受け、父親が危篤だということを知らされる。帰国した藤堂は、危篤の父に面会した。
 藤堂の父は、藤堂が訪れたことに気付くと意識不明の状態から奇跡的に目を覚まし、藤堂に「後を頼む」と言い残して息を引き取った。
 藤堂の父、藤堂三郎の名声は、歯科医師界において知らぬものがいないほど高名だった。歯科医療発展のために尽くした藤堂三郎の実績は、膨大な遺産となって歯科医師界に残されていた。同時に、藤堂三郎の歯科医師としての力量も優れたものがあった。しかし、藤堂はそんな父の遺産が重荷だった。もっと自由に、もっと自分らしく生きたいと願っていた。そのため研究に没頭したのだが、挫折し、海外ボランティア活動に活路を見出そうとした矢先の父の死であった。
 結局、藤堂は父の意志を継ぎ、母の願いを叶えるために日本へ戻り、歯科医師として働くことになった。
 父の後を継ぐに当たって、藤堂は母親に一つの条件を出した。父の作った藤堂歯科医院は父の代で潰し、新しく藤堂歯科医院を発足させることにしたいと。当然、母親は、せっかく築いた名声と、建物、あり余るほどの顧客を無駄にするのかと反対した。
 結局、父の遺産は父の弟の息子である藤堂隆一が継ぐことになった。隆一は藤堂より三歳年下で、彼もまた歯科医としての資格を持っていた。だが彼は、放蕩が激しく、夜遊びやギャンブルが過ぎるため、隆一の父親から一時期勘当を受けていた。
 藤堂切人は、父の意志だけを受け継ぎ、茶屋町に新しく「藤堂歯科医院」を創設、隆一とは一線を画した。
 その後、母親から連絡を受けた藤堂は、父の名跡と医院を継いだ隆一のだらしない日常を目の当たりにする。隆一は一向に改まっていなかった。父親の目を気にしない分、以前よりさらにひどくなっていた。そんな隆一に藤堂は二度ほど忠告をしたことがある。しかし、彼は素直に聞き入れるような男ではなかった。
 脅迫状を受け取った時、藤堂は、もしかしたら犯人は、藤堂違いをしたのではないかと、疑ったことがある。どちらも同じ藤堂歯科医院だ。間違ったとしても決して不思議ではない。
 温泉旅行に出て、事件が起きてすぐに藤堂は母親に連絡を取った。隆一の医院は、隆一が代表であったけれど、母親も共同代表で名を連ねていた。
 二度の呼び出しで母親は電話に出た。
 ――切人です。お変わりありませんか?
 母親は電話の向こうでため息を一つついた。
 ――切人かい。お前こそ元気にしているかい?
 心なしか元気がなかった。母親の様子が気になった藤堂は、単刀直入に訊ねた。
 ――おかあさん。そちらで何か問題が起きていませんか?
 母親はしばらく黙っていたが、そのうち、
 ――実はね……。
 と切り出した。
 ――インプラントの手術で隆一がミスを犯してね。患者の動脈を深く傷つけたらしくて出血多量で患者さんが亡くなってしまったんだよ。
 ――それは何時のことですか?
 ――半年前のことだよ。大問題になってね。ただ、隆一は完全否定して、裁判でも一貫してそれを通して……、隆一曰く出血多量で亡くなったのは、患者側の問題だというんだよ。
 ――患者側の問題?
 ――ああ、手術で傷を付けたのではなくて、患者の持病の問題だと言うんだよ。
 ――患者に持病があったんですか?
 ――ああ、それがあったんだよ。肝臓のところに動脈瘤が出来ていて、それが何かの拍子に破裂したのではないかと……。でもね。手術中にミスをしてそのショックで破裂したとも考えられるのでね。法廷で争って、結局、和解ということで片がついたけれど、先方の親族は怒り心頭で、本当に大変だったのだよ。
 ――その遺族の方のお名前は?
 ――えーと……。そうそう三浦と言ったかな。ああ、間違いないよ、三浦さんだよ。
 藤堂は母親にその患者のカルテと住所一式をホテルの方へFAXで送ってくれるよう依頼した。それが昨日の夜のことだ。FAXはまだ送られてきていない。

  井森と藤堂の元に、白浜署の木下刑事から、青山と笠井の検視結果が知らされた。それによると二人の死亡推定時刻は昨夜の午前0時から1時。死亡原因は青酸カリによる毒死であることがわかった。それを裏付けるように、部屋の中の二つのガラスコップにうっすらと毒が盛られていたのが発見された。
 遠藤に続く毒を使った殺人事件に、関西からも新聞社、テレビ局などが大挙して押し寄せた。井森と藤堂は、藤堂の母親から届けられたFAXを手に、騒動を避けるようにしてタクシーに乗車し、医院のスタッフたちのいる白浜アドベンチャーワールドへ向かった。
 途中、井森は、みどりに連絡をした。みどりはすでに大阪に帰っており、井森から指示された調査をすすめていた。
 井森は、藤堂から受け取ったカルテを手に、藤堂から聞いた隆一の手術ミスのことを話し、三浦という患者について詳しく調べるよう依頼した。
  白浜アドベンチャーワールドに到着すると、藤堂はすぐに下條に連絡を取った。どうやら今のところ変わったことはないらしい。
 井森は、藤堂やスタッフを狙う犯人は、必ずこの白浜アドベンチャーワールドに来ているはずだと確信していた。
 そのためにも犯人の顔がわからないといけない。みどりからの連絡を待った。

  その頃、原野警部は白浜円月島で殺害された被害者、斉藤浅子の身辺を調査し、その周囲の人物の洗い出しにかかっていた。
 斉藤浅子は、大阪天満宮に近いマンションに一人で住んでいた。十畳ほどのワンルームはきちんと整理され、被害者の几帳面な性格を物語っていた。部屋の中には、事件に関連するようなものはなく、付き合っていた男もいないように感じられた。隣近所の住人に聞いても詳しいことは何一つわからなかったが、勤めていた店の情報で、斉藤浅子の生活の一端を垣間見ることが出来た。
 斉藤浅子は、高級クラブが居並ぶ北新地界隈でも指折りの『サロン縁』に勤めていた。その店で斉藤浅子は「雪」という源氏名で呼ばれ、ナンバー2の人気を誇っていた。
 ホステス仲間に浅子の様子を聞くと誰からも優等生的な答えしか返って来なかった。悪口を言う者などほとんどいなかった。それだけに彼女の死は誰にとってもショックだったようだ。浅子を贔屓にしていた客を調べると、数人の客がリストアップされた。当然のことながら、会社社長や医師が多かった。中でも浅子に執心だった客が医師の藤堂隆一と実業家の山根弘であることがわかった。
 原野警部は、この二人について内密に調査を行った。同時にこれまで浅子と同様の方法で殺害された連続殺人事件の被害者三人と浅子との関係も洗った。
 すると意外なことがわかった。
 三カ月前、連続殺人の発端になった女性は今東陽子といい、本町にある中堅の商事会社に勤務していた。同僚に、もうすぐ結婚すると話していたが、相手のことはあまり喋っていなかった。ただ、相手はかなり裕福な家のようで、そのことをことあるごとに自慢していたようだ。
 一緒に働いていた同僚に妄想じゃないかと疑われるほど秘密にしていたが、殺害される数日前、妊娠したと一番仲のよかった会社の同僚に漏らしている。殺害された後、一人暮らしの彼女の部屋を捜索したが、男の影はどこにも見あたらなかった。
 携帯の着信も、よほど相手が気にしていたのか、呼び名でしか確認出来なかった。その呼び名が「いっちゃん」だった。
 しかし、彼女の周辺には「いっちゃん」と呼ばれる男性は存在しなかった。だが、彼女は「いっちゃん」と呼ばれる男性と付き合っていたことは明白であった。メールの内容にそれがよく現れていた。電話局に掛け合って、男を突き止めようとしたが、よほど警戒していたとみえて、メールアドレスからは割り出すことが出来なかった。なぜか、そのメールは、明らかに他人とわかる人間の所有物になっていた。
 だが、一つだけ有力な情報があった。彼女は実家の母だけには正直に打ち明けていた。生まれて来る子どもの相手が医師であること、もうすぐ結婚の予定だということ、そして幸せになると母親に告白していた。
 しかし、陽子は母親に告白した三日後、ミナミのラブホテルで首をロープで絞められた姿で発見された。
 二番目の犠牲者は宮崎博子で、ミナミの喫茶店でウエイトレスをしていた。十八歳と年も若く、最初の犠牲者と同様にラブホテルで首をロープで絞められ殺害されている。
 この時も周辺に事情調査を行っているが怪しい人物は見あたらず、唯一、わかったのは、この女性が売春組織に入っていたということだった。この日の夜、彼女は売春相手と会い、そのまま殺害されたようだ。ただ、流しの犯行と思えなかったのは、その殺害方法にあった。変質者の犯行とは思えず、また、狂気の殺人とも思えなかった。鑑識官の意見だが、何か因縁を感じさせる殺害であったということが報告されている。
 三番目の犠牲者は横山明日香、二三歳。看護師として大学病院で働いていた。彼女は、夜勤の帰り、背後からロープで襲われて命をなくしている。
 当初、流しの犯行と見られ、二つの事件とは別の扱いだったが、殺害方法が同様で、同じロープが使われていたことから後に同一人の犯行と断定された。
 犯人の特定が出来ないまま、この三カ月、三人の殺害事件の捜査は難航していた。

  白浜アドベンチャーワールドは休日とあって人で賑わっていた。親子連れが多く、後は団体、カップルが中心だった。
 井森は着信を気にしながら歩いていた。みどりから画像が送られてくれば少なくともこれからの犯罪は防げるはずだ。
 下條から藤堂の元に度々電話が入り、白浜アドベンチャーワールドでの様子は掴めていた。今のところは何の事件も起きていない。井森は藤堂に、できるだけみんなの近くにいないようにと告げ、近くにいるかも知れない犯人を捜していた。犯人は藤堂の命を狙っている。最大のチャンスが白浜アドベンチャーワールドだと思う。今、この瞬間も犯人は藤堂を虎視眈々と狙っているに違いなかった。

          8

  大阪に戻ったみどりは、井森に言われた通り、東藍子について調査を開始していた。
 履歴書によると、東藍子は徳島県の出身で、高校を卒業した後、歯科医に勤務している。箕面の藤堂歯科医院だ。みどりはこの時、箕面に同姓同名の歯科医があることを初めて知った。東藍子はそこで二年働いた後、一身上の都合で茶屋町の藤堂歯科医院へやって来た。藤堂はこのことを知っているのだろうか。知っていて雇ったのだろうか。みどりの脳裏に藤堂の意味深な言葉が甦ってきた。
 東藍子は藤堂のところへ来てまだ半年足らずにしかならない。その間、スタッフのみんなと打ち解けず、一人自分の殻に閉じこもって働いて来た。仕事ぶりは決して悪くないし、患者の受けが悪いわけではない。だが、東藍子には陰があった。
 井森は、東藍子の最近の素行調査をしてほしいと言った。しかし、東藍子に男がいるとは思えなかった。地味で目立たず、どちらかといえば暗い性格の女性だ。それでもみどりは、無駄とは思いながらも調べてみようと思った。
 それともう一つ、井森に依頼されたことがあった。インターネットを通じて半年前のニュースを拾うことだった。箕面の藤堂歯科医院が起こしたインプラントによる手術ミスの事件。井森は、患者の名前と写真を送信してくれと言った。
 インターネットを開き、事件のキーワードを打つと、すぐに見つかった。患者の名前は三浦和子、六八歳。インプラントの手術ミスによる出血多量死と訴えるが、患者の側に重大な欠陥があったということで、訴えを却下されている。ネット上に、その息子と娘の写真が掲載されていた。どこかで見たような、一瞬、みどりはそう思ったが、急いでいたのでそのまま、井森に転送した。

  白浜アドベンチャーワールドの午後は、秋風がそよいでとても過ごしやすい。井森は藤堂と共に広場にいて、先程から頻りに携帯をチェックしていた。みどりからの連絡はまだ来ない。
 広場の人盛りは午後1時を過ぎて、少なくなった。下條から藤堂に頻繁にメールが届くがそれによると今のところ無事のようだ。どうやら犯人は、藤堂だけを狙っているようだ。
 メールの着信音が響いた。井森が携帯を見るとみどりからのものであることがわかった。
 画像ファイルを開くと、男と女の顔が現れた。井森は思わず、
 「あっ」
 と声を上げた。

  下條たち一行は、藤堂の言いつけを守って団体で白浜アドベンチャーワールドを巡っていた。
 午後1時半、藤堂から連絡が入った。至急、出口付近に来てくれと言う。まだ、完全に回りきれていなかったが、下條は、みんなを促して出口に向かった。
 出口に着くと、藤堂と井森が待っていた。
 「院長、どうかしたのですか?」
 下條が聞いた。退出の予定時間までまだ充分時間があったからだ。団体行動がよほど性に合わなかったのか、ほとんどの者が疲れた顔をしていた。
 「みんな、もう大丈夫だ。犯人が見つかった」
 藤堂の言葉に全員が一斉に声を上げて驚いた。
 藤堂の隣にいた井森が佐藤に言った。
 「佐藤さん。あなたに訊きたいことがある」
 佐藤は、驚いた表情で井森を見た。
 「きみの本当の名前を教えてくれないか?」
 佐藤は、なぜ? という顔をして井森を見た。
 「佐藤稔ですが……」
 と答えた。
 「そうですか? じゃあ、水田さん、きみは佐藤さんとはどんな知り合いなのかね」
 水田はキョトンとした顔で
 「仕事仲間ですが」
 と言い、佐藤が井森を見て、
 「ライバル会社の仕事仲間です」
 と、答え直した。
 「二人はこれまで会ったことがありましたか」
 「いえ、今回がはじめてですが」
 と水田が答えると、井森が確認するように聞いた。
 「そうですか。では、今回、はじめて会ったわけですね」
 水田は大きく頷いた。
 「どうだ、佐藤さん。きみの意見は?」
 佐藤は、少しずつ後ずさりをすると、いきなり駆けだした。
 「水田さん、佐藤くんを捕まえてくれ」
 井森の言葉に頷いて水田が走り、100メートルほど走ったところで佐藤を捕まえた。
 井森の前に連れられてきた佐藤は、観念したのか、井森と藤堂の前にひれ伏した。

  原野警部から井森が事件の終息を聞いたのはそれから二週間後のことだ。
 その後、遠藤静子は無事回復し、以前と変わらずリーダーとして頑張っている。幸い、毒による後遺症はみられず、新しい愛を獲得するために、現在は婚活に励んでいるということだ。
 青山昭彦と笠井清の葬儀は、白浜から帰ってすぐに合同葬儀として行われ、東藍子はあの後、すぐに見つかった。
 東藍子は、白浜の貸別荘で発見され、無事保護された後、しばらく病院に入院していたが、回復後、故郷の徳島へ帰ることになり、藤堂歯科医院を退職した。
 箕面の藤堂歯科医院は主を失って医院を閉鎖した。藤堂の母もそれを契機に第一線から退いた。今は、藤堂の元で悠々自適の生活を送っている。
 井森の事務所に原野警部が現れた二週間後のその日、原野警部は井森に礼を言うと、事件について語った。

        9

  大阪で三件連続、白浜で一件、連続して起こった殺人事件は警察が睨んだ通り同一犯の犯行だった。
 当初、警察によって犯人と特定されたのは藤堂切人の従兄、藤堂隆一だった。だが、状況証拠と心証はクロに近かったが、隆一を犯人とするには無理があった。
 彼には確たるアリバイがあったからだ。
 井森は最初から隆一を疑ってはいなかった。井森が疑ったのは、隆一によって母を殺されたと信じる三浦和子の息子と娘だった。
 みどりから三浦の息子と娘の写真が送られて来た時、姿、形こそ違っていたが、井森は佐藤稔が三浦の息子だと見破った。三浦は薬問屋の経理を担当していた。当初、営業マンが出席する予定だったが、都合が悪くなって出席出来なくなった。それを聞いた三浦は、代理出席を希望した。営業マンでもないのにと最初は却下されたが、他の営業マンも都合がつかなくなって幸運にも三浦が参加出来ることになった。藤堂が母を殺した医師と信じていた三浦は、この機会を利用して、佐藤稔の偽名を使い、藤堂歯科医院の旅行に出席し、藤堂院長殺害の計画を練った。
 だが、井森の中で、一つ疑問が生じた。三浦はなぜ藤堂切人と隆一を間違ったのかということだ。後にわかったことだが、隆一は、姑息にも三浦の家族の前には一度も姿を見せていない。すべて弁護士を通しての対応に終始していた。そのため、三浦は藤堂切人と隆一の区別がついていなかった。そのため三浦は切人を隆一と勘違いした。藤堂などと言う名前がそうあるはずがないと思ったからだ。
 そのため、箕面と梅田の茶屋町、両方が藤堂の経営と信じて疑わなかった。周到に計画を練った三浦の狙いは当然、藤堂を抹殺することにあったが、それだけでは気が済まなかった。一度として遺族に詫びず、弁護士を使って自らの罪を回避した藤堂を苦しめるだけ苦しめて殺そうと決意した。
 最初に狙ったのは弁当による毒殺だった。三浦は、用意した弁当の一つに、箸に毒を塗り、それを配った。脅しであったから青酸カリの量そのものは少なかった。それを遠藤が食べた。彼女はすぐに苦しみはじめ、病院に直行した。計画は成功した。
 白浜駅に降りたところで、トイレに駆け込むふりをして声を変質させる装置を使い、藤堂院長に電話をかけた。それを偶然、トイレにやって来た東藍子に聞かれてしまった。
 慌てた三浦は東藍子をトイレに押し込み、猿ぐつわをして閉じこめた。観光めぐりを終え、ホテルに帰って自由行動になったところで、三浦は駅に取って返し、トイレに閉じこめていた東藍子を脅してタクシーに乗せ、予め用意していた貸別荘に閉じこめた。
 食事を控えた時間にタクシーを使って貸別荘に戻った三浦は、そこで妹の早苗と合流した。早苗もまた兄の計画に加担し、復讐のために白浜へ来ていた。
 三浦早苗は、兄の稔よりも三歳下で勝ち気な女性だった。今回の復讐も、どちらかといえば妹の早苗が兄を煽ったようなところがあった。
 早苗は計画を知られてしまった東藍子を殺害しようとしたが、三浦は反対した。なぜ、三浦が東藍子を殺さなかったのか、まだ二十歳と若い東藍子を殺すに忍びなかったこともあるが、脅かすことが目的で、藤堂以外の人間に対しては出来るだけ無益な殺生はしたくないと思っていた。
 早苗は怒り心頭に達し、藍子の荷物と身の回り品を手に持つと、さっさと一人で出て行った。早苗には早苗の計画があったのだ。
 三浦は、藍子に必ず逃がしてあげるから、ここでじっとしているようにと声をかけ、出て行こうとした。その時、藍子が何かを訴えた。猿ぐつわを解くと、藍子は、下條に連絡をしたいと言う。だが、三浦はそれを許さなかった。三浦が去った後、一人になった藍子は縛られた両手を使い、どうにか上着のポケットに隠していた携帯電話を手に持つことが出来た。番号をプッシュし、運よく下條につながったが、電池切れで、捕らえられている場所を伝えることができなかった。
 その頃、早苗は円月島を眺める浜で斉藤浅子と会っていた。彼女は愛人と共に白浜へ来ていた。早苗は、兄の復讐の手伝いもあったが、それ以上に浅子を追いかけて来たようなところがあった。
 浅子と早苗は、女性同士、長い間、愛し合ってきた。二人の関係は高校時代からのもので、永遠の愛を誓い合った仲だった。しかし、浅子は心変わりをした。歯科医と結婚するのだという。早苗にとって到底承知出来るものではなかった。早苗は、歯科医と共に白浜へ来ていた浅子を呼び出した。
 最初から浅子を殺害するつもりでいた早苗は、円月島の対岸で早苗を待っている浅子の背後にそっと近づくと、いきなり浅子の首にロープをかけ、背負うような感じで力一杯引っ張った。こうすると非力な女性の腕でも簡単に殺すことが出来る。早苗にとってすでに実証済みのことだった。
 浅子を殺害した早苗は、事件を今回の藤堂歯科医院のものと関連づけ、混乱させるために東藍子の持ち物を浅子のものと見間違うように置いた。
 食事前にホテルに戻った三浦は、ホテルから外へ出ていたことを青山に目撃されたと勘違いした。青山は、ロビーで友人を待っていただけだったが、三浦はそうは思わなかった。猜疑心にかられた三浦は、午前0時を回った時間、青山の所在を確かめると、誰にも見つからないように、差し入れと称して、青山と笠井に酒を差し入れた。何も知らない青山は、毒を塗ったグラスと共に受け取り、二人とも翌朝、死体となって発見された。ドアは、外に出ると自然にロックされる、オートロック施錠のものだった。
 逮捕された時、三浦は藤堂院長を刺し殺すために用意したナイフを隠し持っていた。警察の取り調べの中で、藤堂違いであったことを知らされた後も、三浦は安易にそれを信じようとはしなかった。
 白浜の殺人は早苗の犯罪と知れたが、大阪の連続殺人は杳としてわからなかった。
 だが、それもしばらくして解決した。井森が原野警部にヒントを与えたことが役立ったようだ。
 やがて三件の殺人も早苗の犯行と判明した。女性による殺人、稀代の悪女として三浦早苗の名前は一時期世間を席巻した。
 井森は原野警部に、
 「早苗はレズだ。自分が好きになった女性を独占しようという思いが強い。こうした女性は嫉妬深いし、執念深い」
 と話し、暗に早苗が犯人であるような口振りで話した。
 原野警部も同じ思いだった。だが、どうしても動機が見えず、迷っていた。早苗に問いつめても、浅子を殺したことは白状するが、それ以外は無関係だと言い張って埒があかない。そこで、殺された三人の周辺を徹底的に洗い出すことにした。その結果、三人の周辺に早苗の存在があったことが発覚した。
 これまでずっと男の線を洗っていた捜査本部に、まさか女がという思いがあったことは間違いない。それが盲点になってこれまで早苗を探り出すことができなかった。
 状況証拠を突きつけると、あれほど強く否定していた早苗が呆気なく自供した。
 最初に殺された今東陽子とも早苗は関係があった。今東陽子もまた浅子と同様に、結婚を控え、婚約者の子を宿していた。その事実に早苗は異様に嫉妬し、逆上のあまり殺害した。
 二番目の宮崎博子は、早苗が妹のように可愛がっていた女性だが、その博子がお金のために男に抱かれていることを知り、何とかやめさせようともみ合いになるうちに、早苗の中に激しい殺意が生じ、殺害に至った。
 三番目の横山明日香は病院の看護師である。早苗は、この頃、強い精神疾患を患っていて、治療のために病院へ通院していた。明日香は早苗の担当看護師であったが、早苗は、明日香が、自分を馬鹿にしていると妄想を抱き、明日香の帰りを待ち伏せして殺害している。

  事件が解決した後、三浦兄妹の事件と共に、それまで隠蔽していた藤堂隆一の事件も明るみに出、格好のスキャンダルとなって多方面のマスコミに取り上げられた。このことによって多大な打撃を受け、患者を失った隆一は、やがて医師を廃業し、藤堂の家から離れ、いずこともなく姿を消した。
 井森は、今も変わらず藤堂歯科医院で歯の治療を行っている。江西みどりを雇って以来、体調の不調が続き、虫歯も多くなっている。ずっと一人でやって来た井森であったから、年が離れているとはいえ、女性がそばにいるというのは窮屈なものであった。パート期間が過ぎても居座るみどりを、何とかして追い出そうと画策したが、今はあきらめに似た気持ちでいる。今回の事件もみどりがいたおかげで解決したようなところがあったし、役に立たないわけではなかったからだ。
 みどりがなぜ、極楽出版のような零細出版社にこだわるのか、その目的が何か、一切わからなかったが、みどりに何か別の目的があるようだということは、井森も薄々感じていた。しかし、それが何であるかは、さすがの井森にもわかっていなかった。ともかくしばらくの間、様子をみることにしよう。井森はそう達観して、
 「おーい、江西くん」
 と、みどりの名を呼んだ。
 〈了〉

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