愛犬ゴンと家族の物語その三

高瀬 甚太

    十

 聡子の住まいから線路を隔てて海が見える。中学生になった忠は、聡子が家を出る時間より少し遅く起床すると、ゴンを伴って新聞配達に出かけ、配達を終えた後、砂浜に寝ころがってぼんやりと海を眺めることが多くなっていた。昔から海は、忠の持つさまざまな悩みに応えてくれた。海に向かうことで、心が自然に解放され、すべてが雲散霧消した。それにしても、以前は多かった水平線に見える漁船の数も、ここ数年でその数は大きく減少した。以前は入り江を占領していた漁船の数も今は数えるほどしかない。年々少なくなっていく漁船の数は、この町の漁業の衰退を如実に表していた。
 忠は、この時期、中学卒業後の進路を一人思い悩んでいた。中学生になった当初は、高校進学を念頭に頑張っていたが、二年から三年になろうとしている今、進学を断念する気持ちに大きく傾いていた。成績は学年でもトップクラスであったから何の問題もなかったが、年々苦しくなる家計と母親のことを考えると、社会に出て働いた方がいいのではと、真剣に考えるようになっていた。
 母親の聡子は、忠の就職希望に反対し、高校へ行くようにと忠に告げた。学年の七割以上が進学希望の時代である。就職する者は、学力に問題がある者か、家庭に問題のある者に限られていた。
 「高校ぐらい出ていないと、後で苦労するよ」
 聡子の口癖であった。担任の教師からも進学するようにと強く勧められていた。だが、忠は、三年になってすぐの時期、進路希望の欄に「就職」と書いて教師に届け出た。
 「お前の成績ならいい高校へ進学できる。奨学金を受けるなど、方法は先生の方でも考えてやる。だから進学しろ」
 担任の教師は、そう言って忠を励ましたが、忠は頑なに就職にこだわった。一日も早く社会に出て母親を少しでも楽にさせてやりたかったのだ。
忠が就職希望の届け出をしたことを知った聡子は、忠を叱った。
 「家のことなら心配せんでもええ。うちはお前に勉強させたいんや。就職するのは勿体ないと先生も言っていたやろ」
 大人しくて何事にも従順だった忠が、この時、母親に初めて反発した。
「ぼくは就職して大阪へ出る。卒業してすぐは無理だけど、働き始めて仕事に慣れたら自分で学校を探して高校へ行くつもりや。お母ちゃんにこれ以上、負担をかけたくない。仕送りもできるだけする。これからは、誰にも頼らないで自分の力で生きてみたいんや」
 聡子は、忠のしっかりした物言いに驚きを隠せなかった。子供だとばかり思っていた忠がこんなにもしっかりした受け答えができるなんて――。
 「お母ちゃん、ぼくは就職はするけれど、勉強はやめない。中学もトップランクで卒業してみせるよ。そして一年後に大阪で夜間高校へ進学する」
 忠の決意を聞いて聡子の目から涙がこぼれ出た。お父ちゃんさえ、アホなことをしなかったら、忠は悩むことなく進学できたものを――、やせっぽちの忠が中学を出て大阪で働かなければならないなんて――、その苦労が目に浮かぶだけに、何とかしなければと焦るのだが、限られた聡子の稼ぎでは、忠を高校に通わせることはやはり難しかった。忠は、聡子の負担を軽減させるために就職を選び、大阪へ出ようとしているのだ。その気持を考えると、聡子は、今さらながら別れた夫を憎まずにはいられなかった。
 大阪で離婚証書に印を押した後、聡子は一度も秀忠に会っていない。その消息を時折、耳にすることもあったが、わざと無関心を装って聞かないふりをしてきた。秀忠が早苗と一緒にいることで幸せであるなら、許せない気持ちがふつふつと沸き起こってくるが、病気であったり、不幸であるなら、逆に心配になってくる。他人になってしまった夫のことなど今さら考える必要などないのに、聡子は憎みながらもその一方で、つい秀忠のことを考えてしまう。だから聡子は、秀忠の噂には固く耳を塞いできた。
 聡子は常に寂しい思いでいた。秀忠と別れてからずっとそうだ。何をしても張り合いがなく、空虚な思いに駆られ、このまま死んでしまいたい、そんな気持ちになって、何度、手首を切ろうとおもったか――、だが、寸でのところでその気持を押しとどめてくれたのは子供たちの存在であった。
 自分は女である前に母親だ。子供たちのことを第一に考えなければならない。特に今は、忠のことをもっと考えなくてはいけないはずなのに、寂しいとか愛しいといった、女の感情が顔を出して思考を停止させる。別れた秀忠のことなど考えている暇などない。それなのに、自分でも物足りなく思えるほど、子供たちへの思いに徹し切れていない自分を顧みて、聡子は愕然とする。
 仕事を終えて帰宅した時など、なおさらそうだ。最近では、ゴンの癒しも効き目が薄くなっている。布団に入ると秀忠のことが思い浮かび、秀忠の夢を見ることが度々だった。
 秀忠を愛していたんだなあと、聡子はつくづく思う。好きな男に振られた女ほどみじめなものはない。聡子は仲居の仕事で荒れた手指を眺めながらしみじみと思った。

    十一

 二メートル近いブロック塀を飛び越えて、ゴンが家の外に出るのを目撃した近所の人たちが、苦情を言うために聡子の元へやって来た。仕事で留守にしている聡子に変わって市江が苦情を受けた。
 「あんな大きな犬が塀を飛び越えて出て来たら何をされるかわかったものやない。ちゃんと鎖で縛っておいてくれんと保健所に連絡するよ」
 近所の住人は口々にゴンを縛り付けておくようにと市江に言い、市江は、そのたびに深く頭を下げて謝った。だが、どうしていいものか、市江には見当が付かなかった。どれだけ頑丈な鎖を付けても、ゴンはそれを取り外し、首輪さえも役に立たず、簡単に取り外してしまうのだ。

 中学三年生になって、一メートル七〇センチに近づいた忠と同様に、ゴンも逞しく成長し、聡子が拾ってきた時から考えると、想像もつかないほど図体がでかくなっていた。
聡子は、そんなゴンを見て、忠や敦と共に部屋の中を駆け巡り、忠の布団の中に潜り込んでいた時のことを時々、懐かしく思い出す。だが、大きくなった今でも、聡子にとって可愛い犬であることには変わりがなかった。ゴンは聡子を見ると常にすり寄って甘えてくる。その動作は、大きくなった今でも子犬の時のままだ。
 敦はゴンと遊ばなくなっていたが、忠は常にゴンと共にいた。その関係は、子犬の時から変わりなく、ゴンが忠を従えている、そんな状態がずっと続いていた。
 一二月になって大阪へ単身出向き、就職先の面接を受けた忠は、初めての大阪への一人旅であったにも関わらず、気後れすることなく面接試験と簡単な筆記試験を受け、その日のうちに帰って来た。
 「忠、試験はどうだった?」
 帰って来た忠に聡子が聞くと、忠は平然として、
 「多分、合格するよ」
 と言ってのけた。忠の話によれば低賃金で雇える中卒は、どの工場でも引っ張りだこで、試験を受けに行った時も、これ以上ない扱いをしてくれたと言う。その証拠に忠は、受験した会社から手渡された土産物を紙袋に詰めて家に持ち帰った。
 合否の返事は一週間後に学校に届き、就職担当の教師から忠は合格を告げられ、書類一式を手渡された。
 書類には、入社日は四月一日と記されていたが、卒業と同時に寮へ入り、事前に職場体験をしていただきたいと、先方の希望が添えられていた。中学校の卒業式は三月十六日であったから、忠は、翌日、大阪へ向かう旨の返事を就職担当の教師に伝えた。
 新聞配達で家を出る少し前、聡子の起床に併せて起きた忠は、早速、その話を聡子に告げた。聡子は、喜ぶどころか気落ちした表情で、
 「あと三カ月半ほどしか、忠はこの家にいないのか」
 と言って嘆いてみせた。
 聡子を見送り、新聞配達に出かけるために家の外へ出た忠は、庭で待ち受けるゴンと共に陽の昇る前の暗い夜道に出た。ゴンははしゃぎながら忠の自転車を追った。
 「ゴンと一緒におれるのもあと三カ月半や。寂しいなあ」
 ペダルを漕ぎながら忠がゴンを見つめて言うと、ゴンは、忠の言葉がわかったとでもいうかのように、ワンワンと鳴いて、ペダルを踏む忠の足に噛みつく動作をした。
 大阪へ出て、面接の際に、工場見学をしたことで、忠の中に働くことへの実感が湧いていた。作業服を着て、朝から晩まで働く、決して嫌なことではなかったが、果たして勉強ができるかどうか、それを心配した。会社の中に鉄筋の二階建ての寮があった。一階が社員食堂で二階が新入社員用の寮になっている。一部屋四人、二段ベッドが両方の壁に設置され、部屋の真ん中に申し訳程度の机と椅子が置いてあった。とても勉強ができるような環境ではないと思ったが、一年後、高校へ進学したい旨の話は、面接の際も工場や寮を案内される時もあえて話題にはしなかった。

    十二

 「忠、ゴンの首輪と鎖のことやけど――」
 と祖母の市江に相談を受けた忠は、
 「ゴンに言い聞かせてみる」
 と市江に約束をし、庭で昼寝をしていたゴンを起こし、外された鎖と首輪を持って、ゴンの首に取り付けようとした。ゴンは、首輪や鎖を付けることを極端に嫌がる。その時も、忠に抵抗して付けさせようとしなかった。
 「ゴン、首輪と鎖を付けないと、お前は保健所に連れて行かれ、薬殺されてしまう。近所の人が騒いでいるし、保健所に告げ口している人もいるかも知れない。そうなったらどうしようもない。ぼくは、もうすぐこの家を出る。ぼくの代わりにお前にこの家を守ってほしいと思っている。それなのにお前が勝手気ままに鎖を外し、首輪を外していたらどうなる。お前が保健所に連れて行かれたら、ぼくの代わりに家を、お母さんやおばあちゃんを誰が守ってくれるんや。首輪と鎖を外さないで、ぼくの代わりに家を守ってくれ。お願いや」
 忠の言葉をゴンが理解できたとは思えなかった。だが、ゴンと忠の間には独特のコミュニケーションがあるようで、その後、ゴンは素直に首輪を付けさせ、鎖につながれ、二度とそれを外そうとはしなかった。
 小学生高学年になっていた敦は、学校から帰るとすぐに外に出て、友だちと一緒に遊び、暗くなるまで戻らなかった。勉強が苦手な敦は、その分、スポーツの才能に長けていた。夏は海で、その他の季節は学校のグラウンドで野球やサッカーに興じ、ゴンと遊ぶことは少なかった。だが、忠の就職が決まり、家を出る日が決まる頃から、敦は、忠に代わってゴンを散歩に連れ出そうとするようになった。
 ゴンは敦を苦手にしていて、初めのうち、敦と共に外へ出ようとはしなかった。子犬の頃から敦は、ゴンに悪戯をしてゴンを困らせることが多かった。そのトラウマのせいか、ゴンは敦と一緒に散歩に出ることを拒み、敦をてこずらせた。だが、敦はそれでも根気よくゴンを散歩に連れ出そうとした。
 「敦、無理しなくていいぞ」
 忠の言葉に敦が反論した。
 「兄ちゃんが家を出たら、ゴンを散歩に連れて出るのはぼくの役目になる。今の間に慣れておかないと、困るのはゴンの方や」
 敦の言葉に忠は胸が痛んだ。
 「じゃあ、ゴンが慣れるまで、兄ちゃんと一緒にゴンと散歩しよう」
 忠が外へ出ると、敦の時と違って、ゴンはピョンピョン飛び跳ねながらついてきた。
 「ぼくの時は嫌がってついてこないのに……」
 敦がゴンを睨みつける。
 「大丈夫。すぐに慣れて、ゴンは敦についてくるようになる」
 忠と並んで敦が歩き、二人の真ん中をゴンが歩く。浜辺に出ると、ゴンはいつものように砂浜を駆け巡り、波打ち際で波と格闘し始める。
 「ごきげんだね、ゴンは」
 駆け巡るゴンを見て敦が言う。
 「ゴンは海が大好きなんだ。ああやって波と遊ばせているとご機嫌なんだよ」
 「じゃあ、ぼくもゴンをここへ連れてくる。そして波と遊ばせる」
 「ああ、そうしてくれ。ゴンは敦が嫌いなわけじゃない。ただ、敦が苦手なだけなんだ。しばらくこうして一緒に散歩しているうちに、ゴンはきっと敦に慣れる。ゴンをぼくに代わって可愛がってやってくれ。頼んだぞ」
 忠の言葉に敦が元気よく「うん!」と答える。水平線にゆっくりと朝日が顔を出すと空の色も海の色も変化を見せる。忠は、そんな光景の中に身を置いて、静かに目を閉じる。大阪へ行けば、こんな感覚は二度と得られないだろう。目を閉じて砂浜に横たわる忠の頬をゴンが舌で撫でる。くすぐったくて目を覚ますと、ゴンが忠の服の裾を引っ張って一緒に走ろうと促す。それを見て、同じように寝ころがっていた敦がゴンに、ぼくも同じようにしてくれとねだると、しばらく躊躇した後、ゴンは敦の顔を舌で撫で、忠の時と同様に敦の服の裾を引っ張った。
 ゆっくりと起き上がった忠と敦は、先を走るゴンを追いかけて走る。ゴンは時々立ち止まり、二人が追いかけてくるのを見定めて、再び走り出す。砂が運動靴の中に入り、足が砂に取られ、倒れそうになるが、それでも堪えてゴンを追いかける。朝日はいつの間にか水平線を離れ、海の上に円形の姿をくっきりと見せていた。

    十二

 聡子は、滅多に休みを取らなかった。仲居の中でもとりわけ信頼されているようで、聡子が休みを取ると、困るようなことをホテルの主任に言われていた。そのおかげで給料は少し上がったけれど、疲れて仕方がないと聡子は始終ぼやくようになった。
 一時に比べると、聡子は元気になったように見えた。しかし、秀忠のことをすっかり忘れたかと言えばそうでもないようで、いつか秀忠が戻ってくると信じているようなところがあった。
忠はいつも眠る前に玄関の鍵をかけて寝る。仕事から帰って来た聡子がその鍵を開けて家の中に入る。当然のことながら鍵を閉めて眠るはず、忠はそう思っていた。ところがある時、忠がトイレに行くため、夜中に起きた時、何気なく玄関を見ると鍵がかかっていなかった。忠が慌てて鍵をかけようとすると、寝ていたはずの聡子が、
 「忠、鍵をかけたらあかんよ」
 と寝床の中で言う。
 「だって鍵をしておかないと不用心だよ」
 「かまへん。そのままにしておきなさい。今までもずっとそうしてきたんや」
 「えっ、ずっと玄関の鍵を閉めてないの?」
 「そうや。お父ちゃんが帰って来た時、鍵がかかっていて入れなかったらかわいそうやろ」
 忠は二の句が告げず、鍵をそのままにして布団の中に潜り込んだ。母が、父親が帰ってくると信じていることが不思議でならなかった。家を捨て、子供を捨てて、女に走った父親が戻ってくるはずがない。しかも、もう何年も音沙汰がない。今さら帰ってくることなどあり得ない。それなのに母は――。
 忠は母を哀れに思い、父親をその時、初めて憎く思った。

 中学校の卒業式を終え、家に戻った忠は、近所の人にもらった黒のボストンバッグに必要なものを詰めた。着替えの下着数枚と歯ブラシ、タオルなどを詰めるとそれ以上、詰めるものがなくなった。学生服と白のカッターシャツは明日、着て行く。着替えは一枚しか持っていない。母親にもらった千円札三枚が唯一の財産で、会社が嫌になって帰ろうと思っても帰ることすらできない。大阪行きの切符は会社から送付されてきていたので会社までの道のりは確保できていたが、途中、汽車の中でジュースを買いたいと思っても思案しなければならないほど貧しかった。
それでも忠は構わないと思っていた。大阪へ出て、働いて必要なものを購入すればいい。これからは自分の力で生きてやる。そう誓いを立てていた。
 大阪へ向かう前夜、忠は深夜遅くに帰ってくる母親を待っていた。今日、会っておかなければ当分、少なくとも半年か一年は、会うことができない。敦はすでに眠っている。市江も眠っていた。ラジオを小さく付けて深夜放送に耳を傾け、眠気と戦いながら母親の帰りを待った。
 庭で眠っているはずのゴンの鳴き声が聞こえてきた。ウォ~ンと切ない鳴き声が静寂に満ちた空気を打ち破って聞こえてきた。
 ぼくが明日、この家を出ることを知って、泣いてくれているのかな、と忠はその声を聴いて思った。ゴンの鳴き声は、しばらく鳴り止まなかった。
 母親が帰って来る前に、忠は不覚にも眠りに就いてしまい、目を覚ますと、すでに母は出かけた後だった。卓袱台の上に書置きが遺されていた。母の文字だった。
 <忠、元気で頑張るのよ。くれぐれも無理はしないように。嫌になったらいつでも帰って来なさい。お母さんは、明日、仕事を休めなくて、見送りに行けません。ごめんなさいね>
 忠はチラシの裏に書かれたその手紙を丁寧に畳むと、カバンの中に仕舞い込んだ。出発の時間は午後一時の列車、まだ時間は充分にあった。
 敦はすでに家を出ていた。市江は老人が集まって散策をする会に出ていて留守にしている。朝食を食べていると、庭でゴンの声がした。散歩に連れて行けという鳴き声だ。忠は急いでご飯を掻き込むと、食器を洗って、庭に出た。ゴンは忠を見ると飛び上がって抱きついてきた。自転車に乗り、ゴンと一緒に走る。ゴンが息せき切って駆けてくる。
 いつものように浜へ出て、いつものようにゴンと共に過ごす。何気ない時間なのにこの日の忠にはそれが何よりも貴重な時間のように思えた。
 体中に自然の空気を感じながら、忠は大きく深呼吸をした。視線の先にはゴンがいる。ゴンは押し寄せる波と格闘し、前進したり後退したりを繰り返している。この日はもう帰らない。明日から新しい毎日が始まる。忠はそれを実感していた。
 家を出たのは午前十一時過ぎだった。定刻の時間より少し遅れて到着したバスに乗り、駅に向かった。一時間少し前に駅に到着した忠は、駅構内に、忠を見送るために集まってくれたクラスメートを見て驚く。十五人はいただろうか。何の連絡もしていなかったのに、どうして――。男子が七人、女子が八人いた。クラスメートたちは、忠が駅構内に入って来るのを見て、駆け寄って来た。
 「三益くん、頑張ってね」
 クラスメートの浜田理子が真っ先に近寄ってきて、忠にリボンの架かった袋を手渡した。手渡された袋を見て、忠が戸惑っていると、
 「私も今月末に大阪へ行く。袋の中に連絡先を書いて置いたから、電話をしてね。向こうで会おうよ」
 と言った。浜田は、家庭の事情で家を離れ、大阪の親戚の家に住んで、そこから高校へ行くと聞いていた。だが、忠は浜田とそれほど仲が良かったわけではない。せいぜい世間話程度の話をするだけの仲だった。
 「三益、浜田はお前に気があるんだぞ」
 横田の声に驚いて、忠はあわてて浜田を見なおした。浜田は顔を赤くして俯いている。忠は、浜田にもらった袋を抱いて言った。
 「ありがとう浜田。大阪へ着いて落ち着いたら電話をする。大阪で会おう。楽しみにしているよ」
 顔を赤くした浜田は、ショートカットの髪を揺らして、忠に向かって笑顔を見せた。左頬のえくぼが、忠にはいつになく可愛く、魅力的に見えた。
集まったクラスメート一人ひとりと話を交わしているうちに出発の時間がやって来た。
 到着した列車に乗車し、窓際の席に座ると、見送りにやって来たクラスメートがその場所に集まって来た。忠が窓を開けると、クラスメートが口々に叫ぶ。
 「元気でね!」
 そのたびに忠は、「ありがとう」を繰り返し、握手をした。
 発車のベルが鳴り響き、見送りにやって来たクラスメートの声が一段と高くなった時、忠は、少し離れた場所に母がいることに初めて気が付いた。
 母は仲居の恰好で、先ほどから少し離れた場所に立ち、ずっと忠を見ていたようで、忠と目が合うと、母の目が涙でかすんでいるのが見えた。それまで明るく振舞っていた忠だったが、母の涙を見た瞬間、堪えきれずに泣いた。
 「三益くん! 頑張ってね」
 大勢の人の声に交じって、浜田の甲高い声が耳に届いた。列車はいつの間にか駅のホームを離れ、スピードをアップさせている。席に座り直した忠は、バッグの中に仕舞い込んでいたタオルを取り出し、思い切り涙を拭った。
 列車は駅を過ぎてしばらく町中を走り、忠がゴンと遊んだ海の見える場所を過ぎて行く。砂浜の見える場所までやって来た、その瞬間、忠は思わず目を見張った。
 ゴンが砂浜にいて、まるで列車に乗っている忠に別れを告げんばかりにピョンピョン飛び跳ねているのだ。見間違いではないかとみなおしたが、列車は一瞬の間をおいて、トンネルの中へと吸い込まれて行った。
<了>


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