なくて七癖殺人事件

高瀬甚太

 人にはそれぞれ癖がある。かくいうにも私にも癖がある。私の癖はあまりいい癖とはいえないようだ。どんなものでも気になるとすぐに匂いを嗅いでしまう、それが癖で、食べ物にしても匂いが悪ければ、どんなに美味しそうにみえる料理であっても食べる気が失せる。逆に不味そうにみえる料理でも匂いさえ良ければ食欲が湧く。
 人の匂いにもひどく敏感で、髪の毛の匂い、肌の匂い、歯の匂い、靴下の匂い――と、あらゆる匂いが気になって仕方がない
 好きな匂いの場合はいいのだが、嫌な臭いに出くわすと途端に表情に現れる。それが時によって相手を傷つけてしまう場合がある。困った癖だといつも思っている。
 私の会社に出入りするライターの一人に貴志隆弘という無精髭を生やした男がいる。年齢は三二歳と若く、フットワークが軽く、書くのが早いので重宝しているのだが、ところがその男に難点が一つだけある。臭気がひどいのだ。貴志が事務所に入ってくると、髪の毛、肌、足、さまざまな臭いが部屋の中に充満する。とても我慢のできるような臭いではなかったから、私はいつも彼を事務所には呼ばず、会う時はいつも喫茶店で会うようにしている。それでも、たとえどんな場所にいようとも二人で向かい合って座ると自然に臭いが漂ってくる。風呂に入っているのかと聞くと、貴志は、週間に一度ぐらいは入っています、と胸を張る。貴志は、風呂に入るのが大嫌いな男だった。
 新企画の『関西社長列伝』の取材を依頼するにあたって貴志に一つだけ条件を付けた。
 「取材の前に必ず風呂に入るようにしろ」、それが貴志に付けた条件だったが、貴志は嫌がることなくこれを受けた。仕事をもらいたいという意識もあったのだろうが、この時、貴志は臭いが原因で手ひどい失恋をしていたようで、多分にそれが影響したようだ。
 『関西社長列伝』の第一回目の社長に選んだのは、山田尚史という、大阪でも有名な和菓子の三代目経営者で、七八歳と高齢だったが元気な人だった。最初の取材ということもあって私も貴志に同行することにした。幸い、貴志は言いつけ通り風呂に入ってから来たようで、臭気はほとんど感じなかった。
 予めアポを取っていたので、取材はスムーズに運んだ。社長の山田は饒舌な人で、聞きもしないことまで丁寧に話してくれ、取材は成功したと思われた。
 しかし、インタビューを終えようとしたところで思ってもみない問題が発生した。社長の山田が、突然、難色を示し始めたのだ。
 インタビューを終えた貴志が、出された和菓子を手に取って食べようとした。そこまではよかったのだが、その和菓子を口に入れる前に貴志は、どういうわけか鼻の近くまで持ってきて和菓子の臭いを嗅いだ。それが山田社長の気に障った。
 「うちの和菓子は腐ってないぞ!」
 それまで穏やかだった山田社長が、立腹した様子で貴志に言った。
 「申し訳ありません。私、食べる時、匂いを嗅ぐのが癖になっていまして……」
 平身低頭、貴志が謝ったおかげでどうにかその場はとりなしたが、もう少しで企画がキャンセルになるところだった。
 しかし、なくて七癖というが、自分の癖となると案外気付かない場合が多い。食べ物の匂いを嗅ぐ癖は、私の場合、人前ではできるだけしないように気を付けているが、それ以外にもいくつか癖があった。よく指摘されるのが気に入った人の肩をやたらと叩く癖だ。会話途中に特にそれが多いという。もちろん目上には意識してそれをしないように気を付けているが、同輩や下の者と話す時、目立ってそれが多くなるようだ。
 私のそんな癖を、親しみを覚えると喜んでくれる人もいるが、嫌だと思う人の方が圧倒的に多かった。特に女性はそうだ。気の強い女性には、「セクハラですよ」と怒られるし、時によっては、手を振り払って「やめてください!」と叱りつける者もいた。やめなければいけないと思いながらもついやってしまう。それが癖だとは思うのだが、人に嫌がられる癖はやはり避けなければならないと自身を戒めている。
 癖とは、一般的に人が無意識のうちに行う習慣的な行動であると定義されている。手や足、体の動かし方、話し方などで無意識に自動的に繰り返される癖、多くの人は自身の癖に気付いていないことが多いようだ。
 欲求不満が癖になって現れるという人もいる。舌打ちや指の爪を噛む、貧乏ゆすり、髪を撫ぜる、唇を尖らす、がその代表的なものだろう。
 また、片っ端から物を収集する収集癖や見え透いた嘘を繰り返す虚言癖、何事も完璧を期さないと我慢できない完全癖、自分の裸体や性行為を人に見せたがる露出癖、自覚があるのに盗みや万引きを繰り返す窃盗癖、火つけがやめられない放火癖などの性癖もある。
 このように癖というのは多彩な面を持っているが、癖が犯罪を引き起こす場合もたまにあり、過去に私の周辺で起きた事件もそんな癖が引き金になっていた。

 伊崎直子という女性がいた。三二歳で独身、職業はカメラマンだ。明るくて茶目っ気のある彼女は、仕事場でも人気があって、撮影する写真の評価も高かった。
 商品写真を主とする広告関係の撮影が多かったが、たまに出版関係の撮影を手伝ってもらうことがあり、そんな時でも伊崎は難なくこなし、私たちを喜ばせる出来栄えをみせた。
 伊崎には和田清人という恋人がいて、長い期間、同棲関係にあった。一度、心配のあまり、結婚しないのかと、さしでがましい質問をしたことがあったが、彼女は、七年も同棲していると、なかなか結婚のきっかけを掴めないでいると嘆いた。
 和田の職業はフランス料理のコックだったが、伊崎に言わせると、腕は確かなのだが、気が短くてすぐに職場で問題を起こし、職場を転々としていると語り、その時も職場のチーフと問題を起こして、騒動の真っ最中だった。
伊崎の同棲相手、和田の勤務するフランス料理の店は大阪ミナミの日本橋にあり、隠れた名店として評判の店だった。
 私も一度だけ行ったことがあるが、雑居ビルの立ち並ぶ怪しげな場所のビルの地下にその店があり、有名人がお忍びで通う店としてもよく知られるように、その入口と内観は、重厚で名店と呼ばれるのに相応しいものがあった。また、料理もスタッフの対応も申し分なく、私は十二分に満足して帰った記憶がある。
 フランス料理は一六世紀にフランスのトスカーナ地方の料理の影響を受け、フランス王国の宮廷料理として発達した献立を総称して呼んだもので、ソースの体系が高度に発達しているところに大きな特徴があった。各国で外交儀礼時の正餐として採用されることが多いのもフランス料理ならではのものだ。そうした料理であるからこそ、伊崎の恋人、和田の料理人としての腕も、相当格式が高いのではと考えられた。
 その和田に、伊崎に紹介されて一度だけ会ったことがある。気が短くて怒りっぽいということだったが、実際に会ってみると大人しい、ごく普通の青年に思われた。礼儀正しく、また、はきはきした態度にも好感が持てた。こんな男がどうして職場で問題を起こすのだろうかと不思議に思ったほどだ。
伊崎の話によると、料理人にはそれぞれ身に付いた癖というものがあり、その癖が災いしてトラブルになることが多いのだという。和田の癖はいったいどんな癖なのか、興味を持ったが、その時は何も聞かなかった。
 和田が職場でトラブルを起こし、殺人の容疑で逮捕されたと、伊崎から電話をもらったのは、ちょうどそんな時だった。
 「和田は無実だと訴えています。編集長、助けてください。清人は短気ですが、間違っても人を殺せるような人間ではありません」
 憔悴し、泣き叫ぶ伊崎をなだめて、事件のあらましを聞いた。

 ――厨房には常にチーフと二人のコックがいて、コックの一人が和田だった。その日、一人のコックが風邪で休み、厨房の中にはチーフと和田しかいなかった。
 料理中はそうでもなかったが、最後の料理を終えたところで、チーフが和田に文句を言い、和田も言い返した。その現場を店の支配人やボーイ二人が目撃している。
 閉店し、店を片づけ、厨房の掃除をしている最中に、再びチーフと和田の言い争いが始まった。別に珍しいことではなかったので、二人を残して全員、店を出た。
 翌朝、出勤してきた支配人が、厨房で血まみれになって倒れているチーフを発見し、警察に電話をした。警察が駆けつけ、失血死での死亡が確認された。警察が第一発見者である支配人を事情聴取したところ、前夜、刺殺されたチーフが和田と烈しく言い争っていたと告げた。支配人の証言に基づき、部屋で就寝中だった和田が重要参考人として逮捕された――。

 これが事件のあらましだと、伊崎は語り、前夜、帰宅した和田に人を殺害したような動揺は一切見られなかったと伊崎は説明をした。
 警察関係者ではない、一介の編集長の私に何ができるというわけでもなかったが、伊崎の言葉に真実を感じた私は、何とかして和田の無実を証明することができないかと思い、思考を巡らした。
 まず考えたことは、二人の言い争いの内容だ。どんな理由で二人は言い争ったのか、それを知りたいと思った。
 伊崎を呼び、店で働く人の中で知っている者はいないか尋ねてみた。伊崎は、一人だけ和田が家に連れてきた男がいると言い、名前を木下道夫であると言った。その男に連絡を取ることができるかどうか尋ねると、伊崎は、和田の携帯を開いて、アドレスの中から木下道夫を拾い出し、私に連絡先の電話番号を教えてくれた。
 早速、木下道夫に連絡を取ってみた。木下は電話に出ると、
 「……」
 無言で何も話さなかった。知らないアドレスなので警戒しているようだ。
 「木下さんですか。私、伊崎さんの仕事関係の友人で井森と申します。和田さんの事件で、少しお伺いしたいことがあるのですが、会っていただけませんでしょうか」
 木下は、私からの電話を警察関係か新聞記者からのものと勘違いしたようだ。声を荒げて叫ぶようにして言った。
 「凶器の包丁に和田さんの指紋がついていたと警察は言っていますが、あれは和田さんの包丁ですから、指紋がついていて当然のことなんです。和田さんは犯人じゃありませんよ。絶対に!」
 「私もそう思っています。和田さんを助けるためにお話を聞きたいのです」
 和田を助けるためと言ったのが功を奏したのか、木下の口調は突然、変わった。
 「どこへ行けばいいのですか?」
 木下に聞かれた私は、道頓堀にある喫茶店を指定し、できれば今日、今すぐにでも会いたいと言うと、木下は快くそれに応じてくれた。
 道頓堀の喫茶店へ伊崎と共に向かった。今日の夕刊に記事が掲載されるだろう、なるだけ早く動く必要があった。遅くなればなるほど不利になる。
 モーニングタイムの過ぎた時間帯とあって喫茶店は比較的空いていた。入口に近い席に座り、コーヒーを注文して木下の到着を待った。
 「警察の話では、和田が犯人と断定したような口ぶりでした。何とかしないと和田が犯人にされてしまいます。編集長、よろしくお願いします」
 木下が来るまでの間、伊崎はその言葉を何度か繰り返した。和田とチーフの言い争いの原因が何であったか知ることができれば、事件解決の糸口も見えて来るし、真犯人を割り出すことも可能になる、私はそう確信していた。
木下がやって来た。彼は伊崎を見つけると軽く手を挙げ、私を見て軽く頭を下げた。
 私と伊崎の前に座った木下に、コーヒーを注文させ、挨拶もそこそこに早速、聞いた。
 「和田さんとチーフがよく言い争っていたと聞いたのですが、言い争いの原因は何だったのですか?」
 木下は、二十代半ばの色白の男性で、全体に清潔な印象を受けた。
 「つまらないことですよ。目くじら立てて怒るようなことでもなかったのに、チーフが口うるさく言うもので、和田さんも言い返していたのです。料理のことでの注意だったら和田さんも言い返したり、言い争いはしなかったと思います」
 と木下は前置きをして、本題に入った。
 「チーフは神経質な人で、人の動作をやたらと気にする人なんです。特に厨房の中ではそれがひどくて、他の人の動作や癖にやたらと文句を言います。僕もよく怒られましたが、和田さんに対する攻撃が特にひどかったですね」
 「和田さんはどんなことでチーフに怒られていたんですか?」
 私が尋ねると、木下は「聞いたら笑いますよ」と断って、説明をした。
 「包丁で野菜や肉などを切っている時、和田さんは、それが癖なんでしょうね。足でタップを踏む癖があるんです。タップを踏むといってもほとんどわからないぐらいで、音さえしませんから。けれど、チーフはそれが気になって仕方がないようで、ことあるごとに和田さんに注意するんです。タップを踏む音がやかましかったり、動作が大きいと気になるかも知れませんが、注意してみないとわからないほどの癖なんです。それなのにチーフは目ざとく見つけてそのたびに注意するんです。和田さんも最初は気を付けてタップを踏まないようにしていたんですが、癖って、無意識のうちに出てしまうでしょ。それを見つけて、チーフがまた怒るわけです。和田さんも我慢に我慢を重ねていたと思うんですが、元々、気の短いところのある人でしたから、たまらなくなって言い返すわけですね。そこでまた口げんかが始まる、いつもそのパターンでした。でも、殺人にまでエスカレートするようなものではありませんでした」
 「チーフが殺害された夜も二人は口げんかをしていたわけですね」
 「ええ、忙しい日でしたから客の入っているうちはそんなこともなかったのですが、客が帰って、店を閉める頃に、またぞろチーフが和田さんに、いい加減にその癖をやめろって怒り出して。僕もそうでしたが、店のみんなも、また始まったぐらいにしか思ってなくて、二人を置いてさっさと店を出ました」
 「口げんかをした二人は、いつもどんなふうに仲直りをするのですか?」
 「仲直りはしませんよ。言い合った後、興奮が冷めるまでお互いに相手を無視して仕事を始めたり、片づけたりして自分の用に没頭しますが、興奮が冷めて一段落したら何でもなかったような顔をして普通に話す、それがいつものことでした」
 「チーフが癖のことで文句を言うのは和田さんだけじゃなかったんですよね」
 「ええ、そうです。僕もよく怒られました。僕、いつもバケツなど少し重たい荷物を持つ時、『よっこいしょ』と言ってしまう癖があるんです。チーフはそれが嫌いで、年より臭いといって、私がその言葉を口にするたびに僕を叱りました」
 「厨房の人間だけじゃなくて、店の人たちにも怒ることがありましたか?」
 木下は少し考えた後、「あります、あります」と答えた。
 「厨房の中ではチーフが責任者でしたが、店全体の責任者は支配人です。その支配人に対して、チーフが怒鳴ることがありました。その言葉、何とかしろって」
 「言葉?」
 「ええ、支配人は島根県の出身で、長い間大阪に住んでいますが、時折、何かの拍子に方言が口をついて出ることがありました。島根県の一部の地方では語尾に『~ぺ』と付ける方言があるようで、支配人も、方言というかそれが癖になっていて、たまに、『今日は客が仰山入ってよかったっぺ』などと口にすることがあったんです。それをそのまま聞き流しておけばよかったのに、チーフがそれを聞いて『フランス料理の店の支配人がよかったっぺか、クソ田舎の店のように思われるぞ』と支配人に対して怒ることがありました。普段は温厚な支配人でしたが、その時は我慢できなかったのでしょう。『わしの田舎の方言を馬鹿にするな!』と言ってあわや乱闘ということもあって……、本当にチーフは人騒がせな店の和を乱す人でした。他にも、ボーイやウエイトレスなどチーフに癖を見つけられて煩く言われた者は数知れません」
 「そうですか……。昨夜はどうでした? チーフともめたのは和田さんだけでしたか」
 「昨夜……ですか。閉店間際、支配人に何か文句を言っていたようですが、僕は聞いていません。その後、すぐに和田さんと言い争いになりましたから」
 ひと通り話を聞き終えた私は、木下にお礼を言って、
 「ありがとうございました。支配人は今、どちらに?」
 と聞いた。
 「支配人は朝からずっと警察にいます。何しろ第一発見者ですから」
 正午を過ぎて、店が混雑してきたのを機に、私たちは店を出た。
 「編集長、今の話を聞いて何か参考になりました?」
 伊崎が心配げな様子で私に聞いた。その華奢な肩に手を置いて私は言った。
 「大丈夫だよ。きみの恋人は明日にでも釈放される」

 大阪府警の原野警部に連絡を取った私は、昨夜、日本橋で起きた「フランス料理店チーフ殺人事件」について、ぜひとも伝えたいことがあると申し出た。
 原野警部は最初、気のりしない様子だったが、私の推理を話すと、俄然興味を持ち、
 「早速、当たってみる。参考意見をありがとう」
 と言って電話を切った。
事 件はその日のうちに解決し、和田は釈放された。伊崎の喜びはひとしおで、今回の事件を契機に和田との結婚を真剣に考えたいと私に言った。
原野警部から電話があったのは、その日の夜半だった。
 「編集長の推理を参考にして、支配人を追及してみたんだ。最初は、喧嘩している二人に付き合うのがしんどいから帰ったと供述して、疑うなら家の者に聞いてくれといって聞かなかった。裏付けを取るために家の者に帰宅時間を聞くと、間違いなく帰宅していることがわかった。支配人の家には奥さんがいたが、その奥さんも体調を悪くして眠っていたので、帰宅したことだけはわかったが、時間までははっきり把握していなかった。それでもいつも同じ時間に帰ってくるので、多分、その日も同じ時間だったと思うと証言した。しかし、捜査をしているうちに、帰宅途中の支配人を目撃した人物が現れた。支配人が時折、立ち寄る居酒屋の主人で、店を閉めて帰る途中、車に乗って帰宅途中の支配人を目撃して、今日はえらく帰りが遅いなあと思ったと証言したんだ。その証言を支配人に突きつけ、そんな時間帯まで何をしていたと追及すると、ようやく『私がやりました』と白状した」
 チーフを殺害した犯人は私が推測した通り、支配人だった。木下に話を聞いているうちに、チーフの言動に疑問を感じた。神経質な面があるとしても、あまりにも態度が高圧すぎる。まるで自分が店の全責任者であるかのような振る舞いは普通ではなかった。厨房を任されているといっても、単なる料理長でしかないわけだ。それなのに支配人のちょっとした癖にまで難癖をつけるのは異常としか言いようがない。
 何かそこには隠された事情がある。そう思って原野警部に打診した。警察が店の帳簿、売り上げなど細部にわたって調べると、支配人が売り上げや仕入れの金額をごまかしていたことがわかり、ここ三年で一千万円強の金額を支配人が不正蓄積していたことがわかった。殺人の動機は、チーフがそのことを知り、支配人を揺すったことにあったのだろう。支配人の弱みを握っていなければ、通常、厨房の人間が、店を任された支配人を怒鳴ったり、口汚く罵ったりすることはできないはずだ。
 オーナーに告げられたら困る支配人は、前夜、チーフと和田が閉店間際になって喧嘩をしていることを目撃し、チャンスと思ったに違いない。店を出るふりをして、和田が店を出ると同時に再び店内に戻り、チーフを殺害した。そして何食わぬ顔で車を運転し、帰宅した。ただ、運の悪いことに遅い時間に帰宅するチーフを目撃したものがいた。そうでなければ、間違いなく和田が犯人にされたことだろう。
 凶器の包丁は、普段、和田が使用していたもので、支配人はわざわざその包丁を使い、手袋をしてチーフを刺している。

 事件後、オーナーは、フランス料理店を廃業することを真剣に考えたようだが、客の猛反対にあって撤回し、今まで通り、店を営業していくことになった。和田が厨房の新チーフを任され、木下がその下に就いた。懸案の支配人には、フランスに留学して、経営の勉強をしていたオーナーの次男が就任し、飛躍的に売り上げがアップしたようだと伊崎に聞いた。
 和田は、事件以来、料理中にタップを踏む癖を改めるよう心がけていると私に語った。事件から三カ月後、同棲生活を解消した和田は伊崎とめでたく結婚式を挙げた。
〈了〉

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