出禁の佐竹さん

高瀬 甚太

 えびす亭の中で客同士が諍いを起こすことなど滅多になかった。和気藹々がこの店の特徴で、笑顔がこの店のモットーだった。えびす亭の名前の所以もそこにあった。
 ところが中には酒癖のよくない人間もいる。酔うと暴力的な行為をする者や暴言を吐いて相手を怒らせる者がたまにいた。ただ、そうした行為が甚だしい人はマスターから出入り禁止を通達され、以後、えびす亭で酒を呑むことはかなわなかった。
 かつてえびす亭の常連に佐竹博康という人物がいた。稀代の堅物で、ニックネームで呼ばれることをとことん嫌う人だった。いつも背筋をピンと伸ばして、姿勢を正して酒を呑む姿が印象的で、笑顔を見せることなど滅多になかった。
 焼酎が好きで、しかも麦焼酎にこだわって呑む佐竹は、グラス一杯の焼酎を毎回七杯飲み干して店を出る。酒の肴はもっぱらおでんで、サービス品のおでん盛りを注文すると酒の肴はそれで終わり、支払いは常に二千円まででそれ以上お金を使うことはない。えびす亭に滞在する時間は常に一時間半、滞在時間が過ぎることなど滅多になかった。
 えびす亭にとって佐竹のような客は歓迎こそすれ、敬遠する客ではなかったはずだ。それがある日を境にして、佐竹はマスターから突然、出入り禁止を言い渡された。

 その日の夜、えびす亭は今まで以上に混んでいた。立ち呑みの店だから入れ替わりが激しくて当然なのだが、その夜に限ってほとんどの客が長居をした。
 それには理由があった。午後七時から始まった日本シリーズの中継が九時になっても終了せず、テレビの放映時間が長引いて、贔屓のチームを応援する客たちは帰ろうにも帰ることができなくなった。
 佐竹はいつも七時半に入店するのが常だった。黒いスーツに紺のネクタイ、きちんとした身だしなみの佐竹は、ラフな服装の多いえびす亭では異色の存在と言えた。
 佐竹が七時半に入店した時、店はまだ混雑途上で隙間があった。佐竹はいつものように隙間に体を滑り込ませると、背筋をピンと伸ばして麦焼酎とおでん盛りを注文した。
 テレビで放映中の日本シリーズの実況中継は佳境に入っていた。息詰まるシーソーゲームを展開し、中盤の攻防を迎えていたその時、熱狂した一人の客が、興奮のあまり佐竹のスーツをビールで濡らした。この時、この男が佐竹に謝っておれば何も問題を起こすことはなかったのだが、熱狂した男は、野球中継に夢中になるあまり、そのことに気付かなかった。
 佐竹は憤慨した表情でスーツにビールをかけた男を睨んだ。だが、男はそれに気づかず、再び、手に持ったグラスを揺らし、今度は佐竹のスーツの胸の部分とネクタイを濡らした。この時になって初めて男は、佐竹にビールをかけ、スーツを汚したことを知った。丁寧に申し訳ないと詫びればよかったのだが、酩酊していた客は適当な謝り方しかせず、再びテレビに目を向け、野球放送に夢中になった。
 そんな男に佐竹の怒りが爆発した。佐竹は、手に持っていた焼酎の入ったグラスを男の頭にぶっかけた。それだけでは収まらなかったのだろう、続いてコップの水を男の顔にぶちまけたのだ。
 意外な佐竹の行動に、テレビに夢中になっていた店内の客は一瞬凍りついた。
 ビールを頭からかけられ、水を顔面にぶちまけられた男は、
 「何するんじゃ、われ!」
 と烈しい形相で佐竹に噛みついた。
 二人の争いで、えびす亭はかつてなかった混乱に陥った。二人は殴り合い寸前のところを店の客によって分けられ、どちらも怪我することなく終わったが、遺恨は残った。
 事態を重くみたマスターは、その場で佐竹に出入り禁止を通達し、佐竹に焼酎をかけられ、水をぶっかけられた男をおとがめなしとした。
 佐竹は何の反論もせず、マスターに非礼を詫びてえびす亭を去った。

 マスターも店の客たちも、いつしか佐竹のことを思い出すことなく忘れ去った。印象深い人間ではあったが、客とのつながりが一切なかったため、噂をする者など誰もいなかった。
 二年ほど経った金曜日の夜のことだ。えびす亭は相変わらず混雑していた。満員で入れない人が続出するほどの混みようで、マスターも店の人間も客の注文に忙殺されていた。
 その時、カウンターで酒を呑んでいた一人の客が大声を上げた。
 「アホンダラァー! 気を付けんかい!」
 男は濡れたシャツを拭いながら隣の男を罵倒した。どうやら、隣の男が呑みかけのビールを男にかけたらしい。
 「すんまへん」
 ビールをかけた男は素直に謝ったが、それが笑いながらのものだったので、かけられた男はまた怒った。
 「なめてんのか! こら!」
 怒声が響き渡ると、一変して店内の空気が険悪なものになった。
 「あんた、出て行ってんか! うちの店に来てもらわんでもええわ」
 マスターは客同士の諍いをなだめながら、怒声を浴びせた男に宣告した。すると男は、今度はマスターに突っかかっていった。マスターも口では負けていない。しっかりと応戦する。店内はてんやわんやの大騒動になった。
 そんな喧騒を打ち破った一人の客がいた。
 「すみません、ちょっとよろしいか」
 なおも怒声を浴びせ続ける男とマスターの間に一人の男が割って入り、突然、マスターに尋ねた。
 「出入り禁止の期間というのはどの程度でしたか?」
 「は……?」
マスターがキョトンをした顔をして間に立った男をポカンと眺める。出入り禁止を宣告された怒声の男も同様にポカンとしていた。何やねん、この男は? そんな感じだった。
 空気の読めない男の登場で、マスターはあっさり白旗を上げた。
 「あんた、さっき出入り禁止て言うたけど、イエローカードにしとく。今度から気を付けてや。他のお客さんの迷惑になるから」
 マスターがそう言うと、怒声の男も頭を掻きながら、「申し訳なかった」と素直に詫びた。
 「ところで、あんた何やったっけ?」
 マスターが間に入った男に聞いた。この男、どっかで見たことあるなあ、そう思いながら……。
 「前に出入り禁止された者ですが、この店の出入り禁止期間を教えてほしいと思いまして」
 黒のスーツに紺のネクタイ、背筋をピンと伸ばしたその姿に見覚えがあった。マスターは思わず、
 「あ、あんたは!」
 と声を上げた。二年前に問題を起こして出入り禁止にした男だ、とマスターは思い出した。
 「私、しばらく仕事で大阪を離れていましたが、久しぶりに大阪へ帰って来て、この店の前を通りかかったら急に懐かしくなって……」
 二年前にえびす亭を出入り禁止になった佐竹は、その後、他の店をいくつか転々としたが馴染むことができず、そのうち仕事で東京へ転勤になった。大阪へは今回、出張で帰阪したが、懐かしさのあまり店の前まで来て、トラブルを起こしている客を見つけ、思わず二人の中へ分け入った、というわけだ。
 マスターは再び厨房に戻ると、カウンターに立つ佐竹に向かって、
 「別に決めてないけど、あんたは二年や。二年経ったかいな?」
 と言った。
 「ええ、二年は充分経ちました」
 と佐竹が答えると、
 「ほな、オーケーや。麦焼酎か?」
 とマスターは佐竹に注文を聞いた。
 「ええ、麦焼酎でお願いします」
 と笑顔で注文した。
 隣に立つ怒声を飛ばした男が佐竹の耳元で囁いた。
 「あんた、大人しゅう見えるのに、出入り禁止になってたんかいな」
 麦焼酎の入ったグラスを傾けながら佐竹が答えた。
 「ええ、二年前に。でもようやく今日、解除されました」
 「何をやって出入り禁止になったんでっか?」
 男は自分の名前を田中弘と名乗り、佐竹に親しみを感じたのか、盛んに話しかけてきた。
 佐竹は酒を呑む時、一人で呑むのが好きな性質で、人と話すことはあまり好きではなかった。一人でじっくり酒を味わう。酔っぱらった客との会話など無意味だし、酒の味を壊すだけだと思っていた。しかし、聞かれて知らぬふりをしているわけにもいかず、二年前のことを話して聞かせた。すると田中は、
 「そらあんた、あんたは悪うないで。誰かて怒るがな」
 と憤慨し、佐竹を支持した。田中は、酒をぶっかけてろくに謝らない相手の男が悪いと、しきりに言い、少しほろ酔い気分の佐竹を喜ばせた。
 「そう思ってくれますか? 嬉しいなあ」
 と田中に握手を求め、マスターに、「マスター、この方にビール一本差し上げてください」と大きな声で言った。
 すると、今度は田中とは別に佐竹の左側に立っていた男が口を出した。
 「わいもあんたは悪うないと思う。相手がちゃんと謝っていたら終わっていたことや。それをせえへん相手が悪い」
 と田中に同調するように佐竹を支持した。
 「いやぁ、今日は嬉しいなあ、マスター、この方にもビール一本差し上げてください」
 左隣の男は、橋本栄一と言い、この店では「栄ちゃん」と呼ばれているので、そう呼んでください、と佐竹に言い、佐竹にもらったビールを「おおきに」と断って空のグラスに注いで呑んだ。
 田中と栄ちゃんだけではなかった。周りにいた数人の客がみな佐竹を支持し、原因を探らなかった、あるいは探ろうとしなかったマスターを「すべてマスターが悪い」と言って罵倒した。
 佐竹はその夜、生まれて初めてといっていいほど羽目を外して呑んだ。周囲の客たちに大瓶のビールを合計一ダース近く振舞い、和気藹々とした気分で、呑んで呑んで呑みまくった。
 大阪で一週間滞在し、東京へ帰る予定だった佐竹は、翌日もえびす亭に向かった。いつものように午後七時半にえびす亭に入ると、麦焼酎を頼み、おでん盛りを頼んで、背筋をピンと伸ばして静かに呑んだ。今まではそれでよかった。だが、昨夜のことがあったせいか、それでは物足りなくなり、周りを見渡した。すると、佐竹を見つけた一人の客が、
 「まいど、佐竹さん」
 と佐竹の名を呼んだ。昨日、一緒に呑んだ中の一人が厨房を挟んで向かいにいた。
 「やあ……」
 佐竹が片手を挙げて挨拶すると、新しく入って来た客が佐竹を見つけて近づいてきた。
 「佐竹さん、昨日はどうも」
 栄ちゃんだった。それにしてもいつの間に自分は名前を公表したのだろうか、酒場で名前を名乗ったことなどかつてなかった佐竹は、佐竹さんと呼ばれて面食らった。
 「佐竹さん、昨日はごちそうさま」
 また一人、新しい客が入って来て佐竹の名前を呼んだ。佐竹は名前を呼ばれるたびに今までしたことのない愛想笑いを浮かべて挨拶をした。しかし、それが迷惑だとは思わなかった。むしろ嬉しかった。
 厳格で人に対して常に厳しい態度を取る佐竹は、会社でも堅物で通っていて、部下に対しても名前ではなく、役職名で呼ばせていた。営業部長か部長、そう呼ばせ、垣根を作って悦に入っていた。部下と共に呑んだことなど一度もなく、同僚ともそうだった。
 高学歴の佐竹は、入社当時から一目置かれた存在で、エリートコースをひた走り、他の者の追随を許さない早さで出世コースを歩んできた。四十八歳という若さで重役を目前にした部長職に就いているから大したものだ。
 会社の名前をいえば誰もが知っている大企業の会社である。名刺を出せば、水戸黄門の印籠ではないが、たいていの人が恭しく頭を下げた。しかし、ここでは気軽に名前を呼ばれ、土建屋のおっちゃんや八百屋のおっさんに、佐竹さんと気軽に名前を呼ばれ、肩を叩かれている。
 隣の客が佐竹に尋ねた。
 「あんた、見たところ仕立てのいい服着てるし、どっかのえらいさんみたいやけど、何でこんな店で呑みますのや」
 佐竹はその問いに一瞬口ごもった。そういえば自分はなぜ、この店に来てるのだろうか。自問自答したが、隣の客を満足させるような回答はできそうになかった。
 「いやあ、自分でもよくわからないのですよ。気が付いたらこの店に来ている、そんな感じですかね」
 佐竹がそう答えると、隣の客は、
 「一緒ですわ」
 と言ってニッコリ笑った。
 「佐竹さん、呑んでまっか」
 八十歳は超えているだろうと思われる老人が、厨房を挟んだカウンターの前に立ち、佐竹に向かって、乾杯でもするかのようにグラスを挙げた。
 佐竹もその老人に向かってグラスを掲げた。向こうは自分の名前を憶えてくれているのに、自分は田中さんと栄ちゃん以外、名前を知らない。その老人に向かって、佐竹さんは「すみません。お名前教えてください」と声をかけた。すると、その老人が発するより早く、隣の男が「常さんですわ。大工の棟梁で今でも現役です」と説明してくれた。佐竹は、大工の棟梁、常さんに向かって、
 「常さん、呑んでますかぁ」
 と叫ぶようにして言うと、常さんは、刃こぼれが目立つ歯をむき出しにして、
 「呑んでまんがな、へへへへ」
 と言って、皺だらけの顔をくしゃくしゃにして笑った。
 佐竹が今まで味わったことない小さな平和がえびす亭にあった。常に上昇志向で来た佐竹の人生に、えびす亭は一服の休憩を与えてくれる、えびす亭はそんな店だった。

 最近の部長は笑顔を覗かせることが多くなった。常に厳しく、人に接し、部下に接し、妥協を一切許さない佐竹部長が何だか変わったような気がする――。
 社内でそんな噂が広がったのも、二年の出入り禁止を経てえびす亭に通い始めてからのことだ。
 「おい、おまえたち、今晩、暇なやつはついて来い。おれがいい店、連れて行ってやる」
 大阪での最後の日、佐竹は営業所の面々に声をかけた。営業所の面々は天と地がひっくり返ったような驚きをみせて佐竹の言葉を受け止め、行くべきか行かざるべきか、逡巡した。
 「なあに大した店じゃない。立ち呑みの店だ」
 逡巡する部下たちにそう言うと、部下たちは、
 「部長が立ち呑みですかぁ」
 と腰を抜かさんばかりに驚いた。
 堅苦しい店に行くのだとばかり思っていた営業所の面々は、佐竹が立ち呑みの店に行くと言うと、急に態度を変え、僕、行きます、私も行きますと手を挙げた。
 結局、営業所の人間すべてが参加することになった。しかし、総勢三〇人も連れて行くのは難しい。せいぜい五、六人がいいところだ。しかし、声をかけた手前、連れて行かないわけにもいかない。考えた末に時間を分けて連れていくことにした。第一陣は五時半から六時半、第二陣は六時半から七時半、第三陣は七時半から八時半、第四陣は八時半から九時半、そうやって、第五陣までチームを組んでえびす亭に向かった。
 「何だかお祭りに行くような気分です」
 営業所の一人が胸をワクワクさせながら佐竹に言った。佐竹もそれに応えて言った。
 「今日はお祭りだ。楽しんでくれ」
 佐竹の言葉を受けて、営業所の面々は「はーい!」とこれまで聞いたことのないような大きな声で返事をした。
<了>

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