ヤクザな男の真実の愛

高瀬 甚太

 目つきが悪いその初老の男が私の前に立った時、私は一瞬、身震いした。「恋愛」をテーマにした今回の取材の対象者としては、明らかに人選ミスではないかと、その時、思った。
 女性週刊誌が特集する「私の恋、愛、体験記」で、編集部が厳選して取材対象者を選び出したと聞いていたが、時には、こうしたミスを犯すのだなと思いながらも取材しないわけにはいかなかった。

 ――八幡信吉です。
 ドスの利いた声で八幡は、私を見つめて言った。鋭い目つきだったが、不思議とその目に剣はなかった。
 ――俺は、子供の頃からずいぶんやんちゃで、かなりの問題児でした。学校なんてろくに行ってないし、読み書きすらろくにできないまま、極道の世界に飛び込みました。どこへ行っても喧嘩ばかりする俺に、極道の世界は性に合っていたと思います。
 十六の時に、抗争で相手の幹部を半殺しにして少年院に入って以来、年少を出たり入ったりしているうちに、十九歳になりました。ヤクザの世界ではそれなりに名前が売れましたが、年少暮らしが長かったせいか、女にはからっきし縁がありませんでした。いつまでも童貞では恰好が付かない。親分にそう言われて兄弟分の早田卓に連れられて飛田新地に行きました。
 飛田新地は、「ちょんの間」と呼ばれる女の子と本番エッチができる風俗街です。小さな民家が数十軒並んでいて、女の子がそれぞれの家に一人座っています。
 「呼び込みのおばちゃんと一緒に玄関に座ることができるのは一人だけやが、十分間隔で女の子が入れ替わる」
 飛田新地に詳しい早田が解説してくれました。
飛田新地は半径三〇〇メートルぐらいの面積の遊郭です。その遊郭の中に、妖怪通りと呼ばれる通りと、青春通りと呼ばれる通りがあります。青春通りには一〇代から二〇代の若い女の子が集まり、別名熟女通りとも呼ばれている妖怪通りには、三〇代以降の女性が多く集まっています。驚いたのはどちらも美人が多いことでした。
 「八幡の兄弟、年から言ったら若い子がいいやろけど、最初は年増がええと思う。いろいろ教えてくれる」
 早田は、そう言って、俺を妖怪通りの料亭に連れて行きました。
呼び込みの婆さんに、三千円で三時間、布団付きでと交渉をして、二階に上がりました。
 昭和三〇年代のことです。大卒の初任給が一万円代でしたから、三千円は決して安い金額ではありません。基本は一〇分ぐらいからで、二〇分あれば充分だと呼び込みの婆さんは言いましたが、俺は、時間をかけてセックスについて教えてもらいたかったし、通常は座布団を敷いて、そこでやるのだが、俺は布団を希望しました。
 二階へ上がると小さな部屋がいくつかあり、婆さんはそのうちの一つの部屋に俺を案内しました。四畳ぐらいの部屋に入ると、布団と机だけが置いてあり、すぐに女性が入って来て、「いらっしゃい」と言って笑顔で迎えてくれました。俺は女を見て、少しホッとした。妖怪通りと言うから、もっと年増の熟女が来るかと思っていたのですが、二十代と言ってもおかしくないほど可愛いくてきれいな女でした。
 「私、恵子と言います。よろしくね」
 恵子は、俺の上着を脱がせながら挨拶をしました。俺は名前を名乗りませんでした。どうせ遊びです。名乗ったところで仕方がないと思ったからです。
 「三時間て、あんた奮発したね。見たところ十代のように見えるけど、金持ちなんだね」
 俺は、恵子に言いました。
 「俺、初めてなんや。いろいろ教えてほしい」
 恵子は、ニッコリ笑うと、俺の服を脱がせ、布団に誘います。恵子はやさしい女でした。母親を幼い頃に失っていた俺は、恵子のやさしさにまず感動しました。セックスは恵子の導きもあってスムーズに行きました。俺は、何度も恵子の中で果てたのです。
 「俺、もっとセックスのことを知りたい。近いうちにまた来るからよろしく頼む」
 帰り際に恵子に言うと、恵子は、俺の肩をポンと叩き、
 「無理したらだめよ」
 と言って笑いました。
 その後、俺は、一週間に一度、恵子を訪ねて飛田に行くようになりました。恵子はそのたびに俺をやさしく迎えてくれ、俺たちは一カ月も経たないうちにお互いのことを何でも語れるようになっていました。
 恵子が在日韓国人で釜山の出身だということをその時、知り、俺より十一歳上の三〇歳だということも知りました。妹が一人いて、同じ在日の同朋と結婚をして、子供が二人いることも話してくれました。
 恵子が妹と一緒に日本へやって来たのは、二〇歳の時で、
「 伯父が働いている泉州のタオル工場でしばらく働いていたが、朝鮮人を蔑視する主任に我慢ができなくて、そこを飛び出し、難波の韓国クラブで働くようになった」
 と、恵子は俺に語りました。
 俺はそこまで詳しく聞くつもりはありませんでしたが、恵子は自分の過去をあけすけに話してくれました。
 「一度結婚したが、相手の男がひどい遊び人で、二年で別れたものの借財が残って、それを返すために飛田へやって来た」
 と、身の上を話してくれましたが、その表情には暗さは微塵もありませんでした。
 「私、難波の西道頓堀でクラブを開店させるつもりなの。ここはもうすぐやめる」
 二カ月が経過した頃、恵子は俺に言いました。
「 ここをやめても、俺と付き合ってくれへんか」
 俺がそう言うと、恵子は左右に首を振りました。
 「あんたと私じゃ、年が違い過ぎる。それにこんな仕事をしていた私には、あんたの彼女になる資格なんかない。もっといい女を見つけなさい」
恵子は俺を強く抱きしめ、俺の胸に激しく唇を吸いつけながら言いました。
俺は、それまで恵子に、自分がヤクザだということを話していませんでした。恵子がヤクザを毛嫌いしていることを日頃の言動から知っていたからです。
 「俺は、お前が好きや。年上とか、韓国人とか、こんな商売とか、俺はまったく気にしてない。そんなものは、関係ない。それより、俺にはお前に謝らんといかんことがある。話す機会がなかったけど、俺はヤクザなんや。あんたの嫌いなヤクザ、極道なんや」
 吐き捨てるように言いますと、恵子が俺の頭を抱え、自分の胸に抑え込むようにして言いました。
 「知ってたわよ。私、昔、ヤクザにひどい目にあって、それ以来、ヤクザを毛嫌いしてきた。あんたがヤクザやないかということは薄々感じていたけど、もし、そうであっても、あんたは私の知っているヤクザとは違うと思った。信ちゃんがヤクザであろうが、なんであろうが、私は全然、気にならへん。あんたは一生懸命生きているし、人を騙すようなずるい人やない。私は、あんたのことが大好きやねん。ほんまに大好きやねん」
 恵子は、自分の乳房に私の顔を押しつけて、何度も何度もそう言いました。
 一緒に暮らすようになったのは、それからすぐ後のことです。四畳半の小さなアパートでしたが、小さな台所もあるし、トイレもありました。何よりも嬉しかったのは、俺が飛田の女と一緒になったことを、組の者は誰一人としてとやかく言わなかったことです。
 恵子は計画通り、西道頓堀の外れにクラブを開き、店はそこそこ繁盛しました。俺は、恵子が終わる時間を待って店まで迎えに行き、二人で西道頓堀から大阪球場の近くにあったアパートまで帰ります。それが日課で、本当に楽しかった。恵子は恥じらいもなく俺の手を握り、俺もまたその手を握り返し、ネオン街を闊歩しました。時には、焼き肉屋で食事をし、時には遅くまで開いているラーメン屋でラーメンをすすり、肩を寄せ合って帰ったのです。
 好きな女が出来たからと言っても俺はヤクザです。親分のため、組のために命を張る覚悟はいつでもできていました。恵子にもそれは口が酸っぱくなるほど伝えていました。本当に寂しいものです。俺はずっと母親の温かさに憧れてきました。父親は、そんな俺のために再婚しました。義母には連れ子がいて、そのこともあって義母は、俺には冷たい女でした。そんな義母に俺は、愛情なんてこれっぽちも感じたことがありません。我が子はあきれるほど可愛がるのに、義理の息子である俺にはその半分の愛情も示さない。だから俺は極道になって早めに家を出たのです。中学時代からヤクザの世界に身を置いてきた俺は、抗争に明け暮れてきました。おかげで、八幡の信吉の名は、極道の世界で少しは知られるようになりました。
 そんな俺にとって、恵子は、母のようであり、恋人でもある稀有な存在でした。実際、恵子は、風呂に入ると俺の体を丁寧に洗ってくれ、風呂から上がると俺の体をバスタオルで拭いてくれ、下着からパジャマに至るまで、着せてくれます。俺はいつも棒のように立っていて、恵子に身を任せるだけです。俺は、常に恵子を母のように愛し、恋人のように接してきました。
幸せだでした。だが、ヤクザの幸せはそう長くは続きません。
 敵対する組との抗争が表面化したのは、和歌山で毎年開かれる恒例の賭場が終わってからのことです。主に近畿の組が集まって、年に一回開かれるその賭場で、うちの親分が大勝しました。数千万円が親分の手元に入るはずでしたが、大敗した組の親分が負けた金を払えず、改めて清算するということになったのです。親分は、鷹揚に構えていましたが、その組は約束の期日を過ぎても負けた金を支払いませんでした。そこで、うちの組の頭ほか数人がその組に乗り込みました。
 最初は平身低頭していたその組の親分も、頭に来たのでしょう、突然、頭に切りかかり、重傷を負わせました。頭と組の者はどうにか逃げ帰りましたが、怒ったのは親分です。俺に相手の親分のタマを取るよう命じたのです。
殴り込みの前日、俺は恵子に、これっきりかも知れないと伝えました。泣きわめくかと思いましたが恵子は意外に冷静でした。
 「あんた、死んだらあかんよ。ええな」
 と言って、殴り込みのその日の朝、俺の腹に晒を何重にも巻きました。
俺と組の者、七人がトラックに乗り、相手の組の事務所にトラックで突っ込み、敵が混乱する間に、敵の親分を見つけて斬りつけました。
 七人のうち二人が重傷を負いましたが、俺を含めて他の者は無事でした。俺は腹に敵のドスを受けましたが、腹に巻いた晒のおかげでかすり傷程度で済みました。
 敵の親分は瀕死の重傷でしたが一命を取り留め、やがて組は解散しました。警察に出頭した俺は懲役三年の刑を受け、都島刑務所に服役することになりまた。
 服役中、恵子は毎日のように刑務所に差し入れをし、手紙をくれました。しかし、ほとんど文盲だった俺は、恵子の書いた手紙が読めませんでした。刑務所の中で俺は必死になって勉強し、どうにか読めるようになり、覚えたての文字で手紙を送りました。
 恵子は、手紙を出しても一向に返事が返って来なかったので心配していたようです。俺が文字がまったく読めなくて返事ができなかったと手紙に書くと、恵子は安堵し、笑いました。
 「よかったね。勉強する時間ができて」
 送り返してきた手紙に、恵子はそう書いてきました。
 二年三カ月服役し、釈放されました。早朝、刑務所の門を出ると、親分を初め、組の者が顔を揃えて待っていて、恵子は――、と思って眺め見渡すと、電信柱の陰で小さく手を振っていました。
 恵子の妊娠を知ったのは出所して半年後のことです。体調が悪いから病院へ行くと言って。出かけた恵子のことをその日一日中、俺は心配しました。夜遅く家に帰った俺は、恵子に真っ先に聞きました。
 「恵子、どないや。どこか悪いところは?」
 恵子は、俺の顔を見て、瞳を潤ませました。
 「あんた――」
 泣き笑いのおかしな表情で、恵子が言いました。
 「あんた、うち、子供ができたんよ」
 俺は、腰を抜かさんばかりに驚いて、思わず大声で叫びました。
「 俺――、俺がお父ちゃんになるんか!」
 嬉しかった。本当に嬉しかったのです。俺は、恵子のお腹をさすって、
 「大事にして、元気な子供、産んでくれよ」
 と、恵子を思い切り抱きしめました。
 恵子のお腹が大きくなるに従って、俺はヤクザを廃業しようと真剣に考えるようになりました。
 ――生まれついてのヤクザです。決して弱気になったわけではありません。ただ、俺の中で『家族』の存在が重みを増していたことは確かです。武闘派の俺は、いずれ命を落とすに違いありません。そうなった時、恵子は、お腹の中の子供は――、命が惜しくなったわけではありませんでしたが、そのことを考えると、不安になりました。
 恵子が産気づいて、子供が生まれる日、恵子の妹と伯父が病院へ駆け付けました。二人に会うのは、その時が初めてです。
 恵子の妹は、俺を見ると、
 「姉ちゃんがお世話になっています。信吉さんのことはお姉ちゃんからよく聞かされています。いつもありがとうございます」
 と丁寧に挨拶をしてくれましたが、伯父は、俺を見ても目を合わそうとせず、挨拶さえしませんでした。俺がヤクザだということを気にしているのだなと、その時、思ったものです。
 分娩室へ入る恵子に、
 「頑張れよ」
 と声をかけると、恵子は笑顔を浮かべて、「うん」と大きく頷きました。
 一時間も経たずに、「オンギャー」と大きな声が聞こえ、やがて看護師が出て来て、
 「おめでとうございます。元気な女の子の赤ちゃんです。お母さんも元気ですからご安心ください」
 と俺に言いました。
 今まで出会ったことのない不思議な感動に俺は包まれました。ヤクザから足を洗おうと決心したのはその時のことです。誰に何を言われてもいい。幼い頃から家族の愛に恵まれなかった俺が初めて得た家族、そして愛です。何よりも家族を、愛を大切にしたいと心の底から思いました。
 「おめでとうございます」
 恵子の妹が言いましたが、伯父は何も言いませんでした。恵子が病室へ戻って、ようやく伯父は口を開きました。
 「よかったな。恵子。子供を大切にしろよ」
 恵子は、伯父の言葉に頷きながら、俺を呼んで紹介しました。
 「伯父さん、私の夫の八幡信吉さんです」
 俺は、恵子の伯父に、深く頭を下げて一礼をしました。
 「八幡信吉です。よろしくお願いします」
 伯父は、俺を見て、
 「信吉さん。あんたのところの親分は、釜山の出身で、うちとは遠い親類に当たる。あんたの噂もよく耳にしているよ。武闘派で、喧嘩っ早いと聞いている。わしは、恵子が心配でならん。あんたみたいな生き方をしていると、そのうち、必ず、敵の弾に当たって命を落とす。その時、恵子と子供はどうするのか――。それが心配でならん」
 俺は黙って恵子の伯父の話を聞いていました。
 「あんたのことをどうこう言うわけやない。恵子はええ旦那を持ったと喜んでいるぐらいや。だが、ヤクザとなれば話が違う。ヤクザは所詮、ヤクザや。家庭を大切にできるはずがない」
 恵子は、伯父の話を聞きながらも何も言葉を発しませんでした。俺は、黙したまま、何も言うことができず伯父と妹を見送りました。
 恵子が退院して数日後、子供の名前を恵果と名付けて役所に届け出ました。恵果は元気な女の子でした。恵果が生まれて、部屋の中が数ワット明るくなったようで、その時から恵果が俺と恵子の生活の中心になりました。俺は、暇をみては、恵果を抱き、あやしました。
 頭に、ヤクザをやめたいと申し出をしたのは、翌日のことです。組の象徴である武闘派の俺がヤクザを廃業することに、頭は難色を示しました。それは親分も一緒でした。
 「お前のような短気な男がヤクザ以外の仕事ができるんか。俺は無理やと思う。お前は生まれついてのヤクザや」
 親分はそう言った後、腕組みをしてしばらく黙し、
 「しかし、お前の気持ちもわからんことはない。お前のように家族に恵まれて育ってないものにとって、子供ができるということは――」
 そこまで言って、親分は再び黙しました。
 中学生の頃から世話になっている親分です。親よりも深い関係にありました。今でも親分を命に代えても守りたい、そう思う気持ちは強くありました。だが、恵果の笑顔を恵子の笑顔が脳裏を過ると、やはり、妻や子を優先してしまいます。
 「ところで、最近、知ったことだが、お前の嫁、釜山の生まれで、俺の遠縁にあたるらしいな」
 親分が思い出したように言いました。
 「あそこの家の両親は漁師で、父親は腕のいい漁師だったが、事故で腕を怪我してから漁に出れなくなって、貧乏していると聞いている。それもあって、娘たちは日本へやって来たのだろう。お前の嫁は、これまで苦労に苦労を重ねてきている。辛いことも多かっただろう。――お前と出会って、子供が生まれて、多分、今が一番幸せな時に違いない。本当にお前が短気を起こさず、どんな仕事でもして嫁と子供を養えるのだったら、俺はお前が組から抜けることを許す。ただし、一度抜けたら絶対、ヤクザの世界には戻って来てはならん。いいな。それが条件や」
 親分の言葉に頭も賛成しました。
 こうして俺は、ヤクザを廃業し、工事現場で働くようになりました。ヤクザをしていた体に肉体労働は辛いものです。でも、恵子と恵果のことを思えば耐えられました。
 恵子は、俺がヤクザを廃業したことを知ると、涙を流して喜びました。
 毎朝、早朝に家を出る俺のために、恵子は、手弁当を用意してくれます。ヤクザ時代、遊ぶことが仕事だった俺は、初めて金を稼ぐことの厳しさを肌で感じていましたが、怠けようなどと思う気持ちはまったくありませんでした。妻や子のために汗を流し、懸命に力仕事を続けました。そんな俺に恵子の手弁当は力をくれました。汗まみれ、ほこりまみれになって家に帰ると、恵子と恵果の笑顔が俺を待っています。本当に幸せでした。
 そんな時、俺は、新聞で親分の死を知りました。抗争で敵の鉄砲玉に撃たれ、命を落としたと記事にあったのです。すぐに組事務所に電話をし、確認しました。
 親分が亡くなって組は混乱していました。頭が指揮を執り、抗争に備えていると、組員の一人は俺に答えました。頭を呼んでもらい、俺は頭に言いました。
 「頭、親分の仇を討ちたい」と。
 しかし、頭は、
 「心配するな。お前に手伝ってもらわんでも、親分の仇は俺らが討つ。お前は、堅気になったんや。親父に言われたこと、覚えているやろ。二度とヤクザの世界に戻るなと」
 と言って電話を切りました。
 力仕事ですっかり変わってしまった荒れた指を見つめ、俺は号泣しました。
 工事現場の仕事先で、一緒に働いていた男から誘われてリサイクル業の仕事を手伝うようになった俺は、やがて独立し、リサイクル業の会社を立ち上げることになりました。
 順風満帆とまでは行きませんでしたが、事業はどうにか成功し、生活が安定してきた頃、恵子が体調を崩して検査のため病院へ入院しました。
 俺たちは本当に仲のいい夫婦でした。恵子と俺は、結婚して三十五年を経た今でも風呂へ一緒に入り、恵子は子供が出来た後も、変わらず俺の体を丁寧に洗い、拭き、服を着替えさせてくれます。眠る時も、俺たちは手をつないで寝るほどでした。
 恵子のガンが発覚したのは、検査入院して三日目のことです。膵臓にガンがあることが発覚して、余命三カ月だと医者は言いました。俺は、医者に、
「恵子を助けてくれ! 金はいくらでも用意する。恵子を死なせやがったら承知せんぞ!」
 と脅しをかけましたが、医師は、
 「抗がん剤治療を行っても、効果がないほどガンが進行しています。できたらこのまま安らかに行かせてあげたら――」
 と、俺に言い、自宅での療養を勧めた。
 恵子の病気がとんでもないところまで来ている――。それを実感した俺は、恵子を退院させて自宅で看病することにしました。
 恵子が目の前からいなくなるなんて、信じられませんでした。家に帰っても相変わらず、恵子は俺にやさしい笑顔を見せてくれ、娘の恵果も母親を看病します。ガンを告知していなかったのに、恵子は、自分の死期を自覚していたようです。時々、俺のこれからのことを気遣う言葉を口にしました。
 「私がいなくなっても、いつまでも独身でいないようにね。あなたは、家のことを何一つできない人だし、お風呂だって一人で入れないんだから――」
 「バカヤロー! お前が死んだら俺も死ぬ。俺はいつだってその覚悟ができている」
 恵子を叱りつけると、恵子は笑って言いました。
 「あんたが死んだら恵果はどうするの?」
 「恵果には亭主がいるし、子供だっている。俺がいなくなっても困りはせん」
 「あんた、子供にとって、あんたはかけがえのないお父ちゃんやで。そのお父ちゃんが死んで、悲しまない子どもなんているはずがないでしょ。私が死んでもあんただけはいつまでも長生きして、子供を悲しませんようにして――」
 「わしにはお前しかおらん。お前が亡くなったら、わしは一人でよう生きていかん」
 「新しい奥さんをもらってください。これは私からのお願いです。いつまでも悲しまんと、新しい生活を初めてください。私はそれを望んでいます」

 ――それが恵子の最期の言葉になりました。翌日、恵子はひどい痛みを訴え、意識を失い救急車で運ばれ、病院に到着した時はもう生きてはいませんでした。
 恵子の葬儀を終えた俺は、放心状態に陥って、しばらく食事が喉を通らない状況に陥りました。恵子が死んだことが信じられず、薄暗い部屋の中で何度も恵子の名を呼びました。だが、恵子は返事をしてくれません。孤独が俺を覆いつくし、俺は寂しさのあまり夜も眠れないほど苦しみました。ようやくそれから解放されたのは、恵子の一周忌を終えてからのことです。
 一周忌の夜、俺は夢か幻か、判断がつきませんでしたが、恵子と出会ったのです。恵子は笑みを浮かべて俺を見て、「ありがとう」と俺に丁寧に挨拶をしました。それが最後です。
 ――あれから十年が経ちます。俺は、恵子が亡くなって三年後、縁があって一人の女性と再婚をしました。恵果も反対しませんでした。むしろ喜んだぐらいです。
 仕事を手伝ってくれていた友人が亡くなって、その葬儀の場でその女性と知り合ったのです。恵子の若い頃にそっくりの女でした。俺は、恵子が生まれ変わったのだと思って、思わず「恵子!」と人前も構わず叫びました。すると、その女性は「はい」と返事をしたのです。
 弘中啓子というのがその女性の名前でした。文字は違いますが呼び名が一緒だったことに驚き、人前も構わず名前を呼んだ非礼を詫びました。
 啓子は、俺に、
 「その恵子さんのことを聞かせてくれませんか」
 と言いました。俺は、恐縮しながらも、恵子の思い出話を話しました。すべてを語り終えた時、啓子が俺に言いました。
 「私に、恵子さんの代わりは務まりませんか?」と。
 啓子は若い頃に離婚して、ずっと独身を貫いてきたそうです。その理由を、自分のことを真剣に愛してくれる人に出会わなかったからだ、と言いました。あなたにそこまで愛された恵子さんが羨ましい。そう言って啓子は俺を見ました。年齢は俺より一〇歳近く若く、俺がそれを気にして言いますと、
 「恵子さんの代わりに、今度は私にあなたを見送らせてください」
 と言いました。
 今、俺は幸せです。恵子がそうしてくれたように、啓子もまた俺と一緒に風呂に入り、丁寧に体を拭き、服を着替えさせてくれます。もちろん眠る時は手をつないで寝ています。恵子が怒らないだろうかって? 恵子は怒りません。だって俺は、啓子が恵子の生まれ変わりだと信じていますから――。

 八幡の話を聞き終えて、私は、自身の先入観を恥じた。原稿を書きながら、いい話だと心から思った。
<了>


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