見出し画像

生産的に議論する作法

あの人とこの人で、言っていることが違う!どっちを信じればいいのか?

神道や神社の世界でもこういうことあります。社会問題だと、こういうことばかりのような気もしますね😆

ちなみにその投稿の結論は、正解・不正解を他人に決めてもらおうとするな。それは自信が無いだけ。間違いを批判されたくないだけ。都合が悪くなると他人のせいにする。自分の価値観や信念に合うかで判断しよう、でした。

この内容に反論は無く、私もちょっと別の角度から語りたくなった次第です。

私はこれまでの職業グセなのか、ある主張があれば、その根拠となるデータと論理の妥当性を見てしまいます。

トゥールミンモデルあるいはトゥールミンメソッドと呼ばれる構造です。この構造を活用すると、生産的に物事を考えることができます。

事実→→→→→ 主張
      ↑
  理由付け(良い悪いの価値観)

あの人の主張の根拠となる事実は何か? 根拠となる理由付け(◯◯はよいから、悪いからといった価値観 例:事故は減らした方がいい)です。

自分の価値観や信念に合うかで判断した場合、根拠となる理由付けが自分と同じかどうかの判断になります。これで主張のもとになる半分はクリアです。

より詳細に申し上げると「自分に合う価値観の主張がよい」という理由付けに同意する場合は主張に同意し、逆にこの理由付けに同意しないのであれば、主張に同意しないという判断になるでしょう。

残りの半分は、あの人の主張の根拠となる事実は何か? の確認です。

あの人とこの人で、言っていることが違う場合、実際のところよくあるのは、事実認識の違いです。

両者の主張が異なる場合、どちらかの認識が不十分だったり、あるいはどちらの認識もともに不十分ということもあります。

もちろんどちらの事実認識も十分で、ただ価値観が異なるだけのこともありますが、その可能性は少ないでしょう。正確な事実認識をおこたっているケースが大半です。

事実認識をおこたる一例として、事実不明なことをさも事実かのように語るケースもあります。

人間は偏見の生き物ですから、ある価値観や信念に基づく主義ができてしまうと、自分の主義を肯定し、異なる主義を否定する事象ばかりに目がいきがちです。この偏見がすぎると、かんたんな事実認識すら見落としたり、明らかな事実を否定したりしがちです。

「価値観は人それぞれで尊重すべし」が現代社会の価値観でしょう。どちらが正しいのではなく、みんな正しい。トゥールミンモデルの「理由付け」の部分は、人それぞれでよいのが現代です。

ただ共通の事実認識という土台は、正しい・間違いがあるし、正解不明もあります。正解不明とは「分かりませんが正解」ということです。

ということで、私のnoteでは、

・主張の根拠となる事実を確認する

・事実には正解も間違いも正解不明もある。事実は何か? そもそも事実確認が可能かどうか? を確認する。

ということを強調いたします。

▼公式LNEご登録はこちら
無料動画「霊格・霊性向上の6ステップ」提供中です。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?