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徒競走で出遅れたと感じた一瞬、4歳のわたしがとっさにとった行動


はじめに

 4歳になったばかりのころ、地元の小学校の運動会の徒競走に駆り出されていた。父親がひっぱり出したのだ。社宅へのひっこしのタイミングでこの小学校には通わなかったのだが。 

4歳になってまもないわたしのその場でとった行動とは。ぶどうのかおりとともにいつも思い出される「すっぱい」記憶。


記憶をたどると

 小さいころの記憶をどれほどたどれるか。断片的ではあるがものごころついたばかりでたしかなのは東京オリンピック(ふるいほう)の聖火ランナーを伯母の肩ぐるまで近所に見物に行ったこと。

家のちかくの国道ぞいには多くの人がおしよせていた。小柄なわたしは、さらにおとなのなかでも小柄な伯母の肩ぐるま。

周囲のおとなの背にじゃまされて、けむりの移動するところしか見ることができなかった。このあたりだけ覚えている。これがもっともふるい記憶。わたしが2歳のとき。もちろん伯母もなにも見ていないだろう。

おとうとの出産で生死のさかいをさまよった母の産後。生まれてまもない弟の世話もあり、郷里から伯母は駆けつけてくれていた。

今回もたまたま仕事で運転する車のすぐそばを聖火は横切ったのに見なかった。生国で生涯2度も機会があったのに、結局しっかり生で見ていない。

この家での4年間

 ものごころついた当時は2軒つづきの長屋の貸家ずまい。となりには薬害のサリドマイドでうでの極端にみじかい同い年の女の子一家がいた。そしてこの長屋は竹やぶのわきにあり、玄関を出て数歩先に風呂場。周囲はぶどう園で、季節になると熟れた果実のかおりにつつまれていた。

大家さんはとなりの母屋ずまい。南側で陽あたりがよく、北側のしかも竹やぶの暗がりに玄関のあるわが家とは大ちがい。昼間はよく大家さんの家のまえまで三輪車でむかい遊び場にした。縁側に腰かけて休憩、まわりはひろいぶどう畑。

果実が熟れるころはあたりいちめんいいかおり。しぼりたてのぶどうジュースがふるまわれ、熟れたぶどうジュースほどおいしいものはないと思った。

遊び相手はおとなりの子(たしかひとりっこ)かおさないおとうと。まわりは高度経済成長のまっただなかの工業都市の郊外。ほとんどが舗装されていないままの道で、雨が降るとどろんこ。ドラえもんののび太たち同様、空き地の土管のなかに入って遊んでいた。

おとなりの子は、肩からちょこんと出ただけの短いうでで器用にそこらへんの棒きれをつかんでいっしょに遊んだ。じょうずなものだなと思いつつも、遊びに夢中になるとそんなことは気にならない。


地元の小学校の運動会

 4歳になり間もないある日、父がわたしを地元の小学校の運動会に連れ出した。地元の幼児たちが招待されている徒競走。

家のまわりこそ走りまわっていたがそれはごく限られたエリア。文字どおりの内弁慶。目をつぶってもぶつからないほど広いところで走る経験など一度もなかった。もちろん走りくらべする相手はいない。競争の経験すらなかった。

これから何をするのか、どこをどううごくのかすらなにもわからないまま、父親の手にひかれ、ひっぱりだされた。

おそらくじぶんたちの番が来たのだろう。わたしはすぐ横でその日はじめて聞いたパンと大きな音を響かせるピストルにおびえて飛びあがり、たちまちわあ~と歓声がわくと、わたしよりも背格好の大きな子たちはさっとはるか前方へいっせいに飛びだした。

どうやら走るタイミングがはるか以前に来ていたようだ。はっとしておもむろによたよたと走りでた。すでにみんなははるかさき。わたしはすたすたと手足をうごかしつつ「そうだ。」と思いついた。

とっさにとった行動

 さきほどから半ズボンをつりさげている肩ひもが落ちかけて気になる。これなしではズボンが落ちてしまう(はず)。たちどまって肩ひもをかけないとみっともないすがたになってしまう。

わたしはふたつめのコーナー手前でこつぜんとたち止まり、落ち着いたそぶりで肩ひもを父に教えられたとおりにゆうぜんとなおすと、いちもくさんにかけだした。

わたしの幼い合理化。いわゆる「すっぱいぶどう」だ。イソップに登場するきつねとおなじ。見透かしたまわりの観衆がどっと沸いた。わたしは笑いがとれた。

おくびょうでひっこみ思案のくせにひょうきんなところをもち合わせていた。なぜかうれしくなってこおどりするようにかけだした。ゴールでは先生方と小学生の大きな子が満面の笑みで迎えてくれた。


おわりに

 この経験をあざやかにおぼえている。ものごころついたところはごくごくせまいエリアのはずなのに、いまはどこだったかわからないほど開発がすすみ、おそらく高速道路の立体交差の下。どこに住んでいた家があったのかさえわからない。

頭のなかの記憶と数枚のアルバムの写真がのこるのみ。おとなりの女の子はどうしているだろう。

運動会から数か月のちには新しい土地にひっこした。その地の幼稚園、さらに小学校に通うことになった。だれも運動会でわたしがやったことなど知る由もない。中学校で運動部に入るまで鈍足のままだった。


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