『発見』はバトンのように繋がれて

「知らない作家を知りたい」。「ちょっと軽いものを読みたい」。
そんな二つの目的を持って手に取ったのがエッセイ・アンソロジー『発見』(よしもとばなな他、幻冬舎文庫)である。

「発見」こそがエッセイのきっかけ

全エッセイの共通テーマはタイトル通り「発見」。
「発見」にまつわる29人30作(よしもとばなな氏のみ2作収録)のエッセイが収録されている。

が、思えば奇妙な企画ではないか。

「発見」というテーマでの作家陣への新作執筆依頼であったことが、29人のひとりである室井佑月氏による『あたしの発見日記』により明らかになる。だが、著者の「発見」を伴わないエッセイなどあるのだろうか。

何かしらの事象に対して、「事象そのもの」、あるいは事象により導かれた「心の動き」に「発見」を伴うからこそエッセイを書けるはずである。
と、企画に悪態をつきつつも、読後、2つの目的のうち1.5を達成した。

アンソロジーの効用

「知らない作家を知りたい」という目的に対し、アンソロジーは実に効率的である。

二十代の頃、早稲田松竹や目黒シネマといった名画座に通った。
これら名画座では1本分(以下)の値段で2本観られるという経済的なメリットもさることながら、「自分の選択」というフィルターを介さず、自分が観たい映画とは異なる映画を強制的に「観させられることができる」(奇妙な表現であるが)。
そして、「観させられた」方が自分で選択した作品より良かった、ということがしばしばあった。
シングルのA面(タイトル曲)を聞きたくて購入したレコード(CD)のB面(2曲目)の方が印象に残る、といったことは誰しも経験のあることであろう。

本作のお陰で、光野桃、よしもとばなな、平野啓一郎・・・といった一度も触れたことのなかった多くの作家たちを知ることができた。
ゆえに、「知らない作家を知りたい」という目的は無事に達成された。

檀ふみ氏の「発見」

一方、「ちょっと軽いものを読みたい」についても、エッセイを選択した時点でおよそ達成されるはずであり、その予想は概ね当たったのだが、檀ふみ氏の『ダンフミは何になりたいか』により大きな宿題をもらうことになった。

彼女の父は無頼派・直木賞作家、檀一雄氏である。
私にとって、彼は代表作『火宅の人』や沢木耕太郎氏の『檀』を通し、以前から少し気になる作家であり、彼が晩年を過ごした能古島(福岡市西区)を訪れたりもした。
その愛娘である檀ふみ氏はその容姿、雰囲気・物腰、知性から、父とは異なり優等生そのものであるかに見受けられる。
その彼女が、父からの教えについて次のように書く。

間もなく父は亡くなり、「奮闘」と「一生懸命」は、遺言となった。
だが、何をもって「奮闘」というのか、「一生懸命」とはどういうことなのか。
この頃、やっとこんなふうに思うようになった。
私にとっていちばん大事なのは時間である。
その時間を、誰かのために、何かのために捧げることが、奮闘ではないかしら。捧げると決めたら、心から捧げるのが一生懸命ではないかしら。

「発見」はバトンのように繋がれて

文中の私(つまり檀ふみ氏)をあなた(読者である私)に置き換えてみると、およそ全ての読者の背筋がピリッとする教訓になる。

あなたにとっていちばん大事なのは時間である。
その時間を、誰かのために、何かのために捧げることが、奮闘ではないかしら。捧げると決めたら、心から捧げるのが一生懸命ではないかしら。

そして、私は、不惑を過ぎてなお、奮闘することはおろか、それ以前に「誰か」や「何か」すら定められていないことに自己嫌悪に陥るのだ。

檀一雄氏の遺言における、檀ふみ氏の「発見」により、読者である私は痛みを伴う「発見」を得る。

きっと「発見」はリレーのバトンのように繋がれるものかもしれず、バトン(「発見」)そのものは、渡す側の思いと受け取る側のフィルターによって変質するものなのかもしれない。それは幼少期に級友らと戯れた伝言ゲームのように。

他の作家陣の作品のお陰で、軽く柔らかくなるはずの私の心は、また緊張を強いられ重荷を背負うことになった。

かくして、「ちょっと軽いものを読みたい」という目的は達成半ばで終わったのである。

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