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できない自分を認めたら、色々できるようになった



お世話になった人たちが急に許せなくなったことがある


2年ほど前に、自分の心に激震が走った時期がある。

今まで、なんとも思わなかったこと…

いや、正確には

「この人には一時期ものすごくお世話になったから
違和感があること、嫌なことを言われても
我慢して付き合わなければならない」

と我慢していた色々なことが、急に我慢できなくなった。
怒りで震えて眠れない日もあった。

その人たちは、私のことを
「あなたは特別だ」とすごく褒めてくれた。
応援もしてくれた。

それと同時に

「あなたのことが好き、大事」
言葉で繋ぎ止めておきながら
この人(たち)
実際の行動で大切にしてくれたこと
あっただろうか?

本当に大事なら、私が挑戦したり成功したりした時に
一緒に喜んでくれるんじゃないだろうか。
「あの人に嫉妬した!」とブログに書いたり
「あなたのあの行動、違うと思うよ」って
チクチク刺してきたりしなかったんじゃないだろうか。

「君の仕事は本当にすごいよ!!」って褒めちぎり続けるなら
ちゃんとそれだけの対価を払ってくれるんじゃないだろうか
めちゃくちゃ言いにくかったのに
「急に電話をしたり、家を訪問したりしないでほしい」
と伝えた時に「僕はそれが好きなんだけどね」とか言わないで
すぐ受け入れてくれたんじゃないだろうか

いろんな人がいたけど、共通点は
「私が勇気を出して挑戦したり
成長したりしたときに
すごく嫌そうだった」

ということ。
(実際に嫌と言われたことも)

その度に私はどうしていたかというと
でしゃばりすぎないように自分を抑えたり
心に蓋をして
「大丈夫なはずだ」
「私のことを好きと言ってくれてるんだから」
と、好意的な返事をしたりするようにしていた。

今考えると恐ろしいけど
30年以上、そういう生き方をしてきた。

でも、なんかこれっておかしくない…?
私は私の人生を思いっきり生きたいよ
挑戦したいし、成功だってしたい。
誰に気を遣うことなく

そう思い
今までの人間関係から少し距離を置き
自分で決めて、自分の力でやってみようと
歩きはじめた。


初めて自分の目で世界を見たような感覚

ようは…私はそういう人たちに依存していたんだ。
自分に自信がないから。

でも、恐ろしいことに、自信がないまま
誰かの陰に隠れていると
世界も、真っ直ぐ見れなくなる。
陰からのぞく、誰かの価値観で見る世界。

ちゃんと自分の足で歩こうと決めて暮らしはじめた時
世界がキラキラで、びっくりした。

大好きな場所

いろんなことが面白くて、可愛くて、きれいだった。
なんか、やっと自分の
「本当の目」?

で、世界がちゃんと見えたというか…

ぱっと見同じなんだけど…

今までも、我が子は可愛いし
日々面白いことは起きるし
大好きな公園はきれいだったんだけど

子どもたちの発言のいっこいっこが可愛くて
水の音や鳥の声はちゃんと耳に入ってきて
公園で掃除してるおじさんに、お礼を言いたくなったりして。

NOを言えない
誰かに依存している
自分の力を抑えて生きるって

波風立たなくて安心な気がするけど

感情をなくすってことなんだ。

一歩を踏み出すことは、自分の小ささを知ること


自分を見ないふりして生きること
自分で自分の人生を生きないことの
メリットは、ひとつだけある。

「自分の小ささを知らないで済むこと」
「やりたいことへの道のりの長さを知らないで済むこと」

だと思う。

誰かに依存して生きている時の私は
自分が特別な人間である
新しいことを学ばなくても生きていける
と思っていた。
井の中の蛙ってやつ。。
いや、マジで斜に構えて世界を見てたと思う。

「いつかやってやる」と言って
何もしないような奴でもあった。
どこかで、労力をかけなくても
誰かが見つけてくれる
やりたいことが成し遂げられるような
気もしていたのかもしれない。

でも、世界を見渡してみたら
世界の変化についていくためには
勉強しなきゃいけないことばかりだし
自分を見つけてほしいなら
自分で工夫して発信して、主張もして
何より人の役に立たなければならない。
キラキラ成功して見える人ほど
基本の基本を大事にして
地道にコツコツやるべきことをやっている。

私も頑張ってきたと思うけど
「頑張ってきた」
「それなりにやってきた」
なんて自負は捨てて

自分が凡人であることを自覚して
コツコツやるだけなんだな、と思い知った。

改めて自分を見ると
そんなに多くのことはできない。

描く描くと言っていた自分自身のエッセイ漫画は、仕事をしながら続けられなくて
ギリギリ続けられるのが、この、5センチ角の小さな画面に日記を書くことくらい。それも、全然いいことなんて書けない。生活の何気ないつぶやき。

それでも「今の自分には、これしかできない」の「これしか」を
今は積み重ねる時なんだと思って
放置していたSNSもコツコツ育てた。

不思議なことに、SNSが育ちきる前…
意識が変わった瞬間から
いろんな人に見つけてもらえるようになったし
仕事の幅、交友関係がめちゃくちゃ広がった。

自分がアホなことを認めた


これはここ1年くらいでできるようになったことなのだけど
やっと自分がアホであることを認められるようになった。

小さい頃から勉強が得意だったし
生徒会長やイベントの実行委員長など
リーダー的なポジションにつくことも多かった。

でも、それが
「どんな仕事もできること」につながるわけではない。

本当に本当に事務が苦手だ。
数字も苦手だ。
CLIP STUDIOからエクセルに移った時
頭がぼーっとして
1時間頭がフリーズするのはなぜですか。
誤字ってどうしたらなくなるんですか。

仕事の全体像を見てロードマップを作ることや
アイディア出し、ビジュアルの制作は得意だけれど
しっかりデータを取ったり
進行管理をしたり、人を育てることは苦手だ。

でも、昔の私は、トラブルがあると
周りの人への不満を持つタイプだった。

取引先が、後輩が……

違う。私のキャパと能力が追いついていなくて
仕事がハンドリングできていなかっただけの話だ。

「できる子」として褒められることが多かったけど
私にも苦手なことが山ほどある。

今では、年齢もキャリアも関係なく
周りのしっかりした人たちに
支えていただきながら生きている、という
感謝しかない。
その分、私にできることは全力で!という気持ち。

アホを認められるようになった理由

アホを連呼して申し訳ないが
もう少しアホの話をしたい。

実は、私が自分のできなさを認められるには
順番があった。


シンプルにいうと

「そのままの自分」に自信がついて
やっと
自分の出来なさ=周りの人の素晴らしさ
を認められるようになった。

できること、できないことが
主観ではなく見れる…
「メタ認知」ってやつだけど
これ…
腹落ちするには時間がかかるんじゃないかな。

そのままの自分でいいんだ、と安心できる経験。
その自分で人の役に立てる経験。
人はみんな違うんだ、と知って
助けてもらう経験。
それを繰り返してたら自分も豊かになっていて

「あ、世界って奪い合うものじゃないんだな」

と気づける。
特にプライドが高い人なんかは
価値観がひっくり返ることなので
手放すのが怖いものもたくさんあるだろうから
ここにたどり着くまでに勇気がいると思う。


思い返せば…私も
冒頭の
「私が成長・成功すると
嫌そうにしていた人たち」

と同じで
不安だったのかもしれない。
自分の居場所が誰かに奪われることが。
自分じゃない人になって
頑張らないと居場所がないと思っていた。

でも、生きている以上
居場所が奪われるどころか

「持ち場」

というものがあって

一人一人の力は小さいから
できることを持ち寄って
わけあって
助け合って生きていく。
それをすることで、みんな成長できるし
豊かになる。

そう思えるようになったら
自分のプライドとかどうでも良くなって
失敗も怖くなくなった。
逆に、合わない人と無理に一緒に居続けることも
なくなった。

人生はおもしろいゲームだなあ


この2年くらいで、見える景色が本当に変わった。
でも、これまでの三十数年だって
笑いあり涙ありで楽しかった。

心に激震が走る日もあるから
そこで勇気を出して気づいたから、新しい世界が見れた。

最初から順風満帆なのもいいかもしれないけど
嫌なことや失敗があるから
新しい価値観に出会えるし
成功する喜びを味わえるんだから
人生って面白いなあ、と思う。

いろんな人といろんな世界を見たいな。


自分にできることって小さいなあ、を認めたらできたノート

みんなで豊かになるんだよ、を教えてくれた場所

あ、私ってちゃんとできないんだなwそしてこのままでいいんだな、と心から思えたななちゃんの数秘鑑定


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