見出し画像

オランダの歴史(4)海外進出と日本とのつながり

こんにちは!自由主義研究所の藤丸です。

今回は「オランダの歴史」の4回目、最終回です!

前回のはこちらを読んでくださいね ↓


1,英仏との戦争

1641年、イングランド王チャールズ1世(後に清教徒革命で処刑される)の長女メアリと、オランイェ家のウィレム2世が結婚します。


チャールズ1世が、格下(💦)のオランイェ家との結婚を認めたのは、
チャールズ1世がイングランド議会との対立が深刻化する中で、
政治上・財務上の同盟者の確保が必要だったためです。


オランダは以後、イングランドの王党派と議会派の双方から支援要請を受けます。


州総督となったウィレム2世は専横政治を行ったため、
ウェイレム2世の死後、議員たちは州総督を置かないことを決め、
「第一次無州総督時代」が始まります。


2,第一次~第二次英蘭戦争

オランダの経済的繁栄を羨むイングランド商人たちは、
内乱(ピューリタン革命)後の1651年「航海法」を制定し、
オランダの海運業に打撃を与えてきました。

この航海法がきっかけとなり第一次英蘭戦争🔥が勃発‼します。


1654年に終戦条約を結びますが、そのとき劣勢だったオランダは多くの譲歩を強いられました。


イングランドの王政復活後の1665年、またも商業上の争いで、
第二次英蘭戦争🔥が勃発します。
今回は、オランダは航海法を緩和させることに成功しました。


3,第三次英蘭戦争とウィレム3世登場

オランダはフランスの太陽王ルイ14世の膨張主義を警戒し、
1668年イングランドとスウェーデンと三国同盟を結びます。

フランスの太陽王ルイ14世


しかし、その英仏が1670年にドーヴァー密約で接近していきます💦

ドーヴァー密約に基づき、英仏を含めた4カ国がオランダに宣戦布告しました。このときの対イングランド戦が第三次英蘭戦争です。


このとき海戦ではオランダは勝利し、イングランドは戦争から離脱します。

一方、陸上戦での対フランス戦でオランダは苦戦します。
オランダ中心部が脅かされる危機的状況の中、祖国の英雄オランイェ公の子孫であるウィレム3世の軍最高司令官と州総督への就任が決定されます。

ウィレム3世。危機には英雄が登場しますね!


ウィレム3世はフランス侵略軍の進軍を阻むために奮闘🔥します。

1677年ウィレム3世は、イングランド王ジェームズ2世の長女メアリを妻に迎え、イングランドを味方につけます。

翌年オランダ・フランス間で条約が結ばれ、オランダの全領土が最終的に保全されました。

1688年イングランド「名誉革命」で、
ウィレム3世はウィリアム3世として、妻メアリ2世とともにイングランド王位につきます。

ウィレム3世は、清教徒革命で処刑されたイングランド王チャールズ1世の孫でもあります。

長年争ってきたオランダとイングランドは、当面は同盟国同士になったのです。

※この辺りのところは、以下の記事もぜひ読んでくださいね😊


4,オランダ人の海外進出

ここからは視点をかえて、オランダ人の海外進出について書いてみます。

15世紀末に始まる大航海時代は、近世ヨーロッパ人による航海と探検と植民地の時代でした。
ヨーロッパ人の海外進出はポルトガルとスペインから始まり、
イングランドとオランダも続きます。

オランダがスペインの軍事的脅威を脱した後の1595~1620年にかけて、
オランダ商人の活動範囲は、ヨーロッパ沿岸貿易から大洋を超える遠隔地貿易へと急速に拡大していきました。

世界についての情報の増大と、オランダの先進的な印刷出版業が結びついて、世界地図が制作・出版されていきました。


5,東インド会社~拠点形成

1602年、東インド会社が設立します。
東インド会社は株式会社の元祖とみなされます。

絶対君主のいない共和国では、大事業を行うには皆でお金を出し合うのは当然でしたが、これは中世末以来の商習慣の積み重ねの結果でもありました。

東インド会社は、南アフリカの喜望峰から中国・日本に至る世界のほぼ東半分の貿易独占権を、全国議会から与えられました。

オランダ本国から最重要地の「バタフィア」(今のジャカルタ)に到達するには半年はかかったので、
会社の責任者「総督」は、オランダ共和国の名において、王侯や国と条約を締結し、戦争を行い、征服地を統治することなどが認められていました。

1637年には、製糖業の規模拡大のため、西アフリカ沿岸からの黒人奴隷の輸入も始めます。

6,日蘭関係について~16世紀末から鎖国まで

最後に、当時の日蘭関係について簡単に紹介します😊

ここで、クイズ✨です!
日本に渡来した最初のイングランド人は誰か知っていますか?


答えは、サムネのこの人!

1600年に日本についた、ウィリアム・アダムス(三浦按針)です😊
(オランダの歴史シリーズなのに、イングランド人をサムネにしてしまいました‼)


実は、オランダ人のヤン・ヨーステンは、このときアダムスと同じ船で日本につき、アダムスと同様に徳川家康に仕えました。


1609年、平戸(長崎県)オランダ商館が開設します。

1637年島原の乱がおこり、カトリックのポルトガル人は国外追放となりました。
その後、オランダ商館は、出島に移転となります。

1639年日本は鎖国しますが、オランダはヨーロッパで唯一日本と貿易を続けます。

「蘭学」とは?🤔

江戸時代に直接または間接的にオランダ語を通じて輸入され受容された西洋の知識・研究。

蘭学は「医術」(支配者層の命を守るため)と「砲術」(日本を外国から守るため)が重視された。

最後は日本に繋がったところで、オランダの歴史シリーズは終わりにしようと思います。

最後まで読んでくださりありがとうございました。
オランダの歴史のほんの一部のみの紹介になってしまいましたが、「イギリスの歴史」「自由主義」への理解に少しでも役立てば嬉しいです😊

よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは自由主義研究所の活動(オンライン企画、オフ会の企画、研究員の交通費など)に大切に使わさせていただきます。※現在は研究員は蔵研也先生のみです。