オランダの歴史(1)低地諸州とスペイン王フェリペ2世
こんにちは!自由主義研究所の藤丸です😊
今回から全4回で、16~17世紀のオランダの歴史について紹介したいと思います。
イギリスと関係が深いオランダは、自由について考える上でも重要です✨
まず、オランダはどこにあるか、当時の地図を確認しましょう‼😁
重要な登場人物は2人です!
まずは、「オランイェ公ウィレム」主役です✨
そして、このnoteの「イギリスの歴史」シリーズでも何回か登場した、
スペインの「フェリペ2世」です‼
1,16世紀後半の低地諸州
「低地諸州」とは、今のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの場所に該当する地域のことです。
ここでいう「州」とは独立した「邦(くに)」のことです。
当時は17余りの邦がありました。
16世紀中頃ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世は、
低地をほぼ統一します。
君主カール5世はほとんどの時期、低地には不在で、
低地のブリュッセル(現在はベルギー首都)におかれた中央政府には君主権を代行する執政(王族の女性が多い)がいました。
低地各州のトップのことを州総督といい、州軍の最高司令官でした。ブリュッセル中央政府とのパイプ役でもあり、州議会の招集権をもちます。
全国議会は、低地の各州議会の代表を一堂に集めて開催されました。
低地諸州は大河川の河口地帯に位置し、商取引が発展✨していきます。
2,スペイン・フェリペ2世即位と、低地諸州の英雄オランイェ公
カール5世は、息子のフェリペ2世に、
低地諸州の統治権とスペイン王位を委ねます。
低地諸州はスペイン帝国の領土になります。
低地諸州の貴族オランイェ公ウィレムは、低地諸州にスペイン軍を駐留させ続けようとするフェリペ2世に反発します。
オランイェ公は、同志の貴族とともに、
厳格な異端取り締まりの宗教政策に反対し宗教寛容を求めていましたが、
王フェリペ2世はこれを認めませんでした💦
3,宗教問題とスペインに対する反抗の背景
フェリペ2世の低地諸州への対策は、当時スペインが地中海域で戦争していたオスマン・トルコとの戦況により左右されました。
戦争でスペインが優位で余裕のあるときは、低地諸州にも強硬な政策が取られました。
1566年、執政マルハレータ(フェリペ2世の異母姉)は、低地諸州の貴族の請願に応え、異端取り締まりを緩和しました。
そのため、それまで身を潜めていたカルヴァン派信徒が活動を活発化し、「野外説教集会」や「聖画像破壊」の開始しました。
この破壊運動で市民は困惑・恐怖します😱
オランイェ公は秩序回復のため、カルヴァン派・ルター派・カトリックの三派の融和を実現しようと奮闘しますが、うまくいきませんでした💦
執政マルハレータはスペインから軍資金を得て、強硬策により最終的に騒乱を沈静化しました。
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最後まで読んでいただきありがとうございます。
オランダの第一回目は導入部分だけとなりましたが💦次回に続きます。
以下の本を参考にまとめています😊
興味を持たれた方は読んでみてくださいね✨
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