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個人主義と集団主義それぞれの幸せ

こんにちは。ネパールで農業関係の仕事をしています。

現代の日本人の価値観では人々は積極的である方が良いとされ、世の中で没個性とならない人こそが豊かな人生を歩めるという考え方があると思います。

しかし、この「個人」を意識したリベラルな考え方は昔からあったものではなく、日本では明治維新以降に西洋から輸入されてきた価値観であるとされています。

日本を含めた東洋の国というのは伝統的には集団主義的な思想が強いとされています。
そのため、日本よりも西洋化が進んでいないネパールについては、人々の考え方や行動を見ると集団主義的な思想も十分に残っていると感じます。

私たちの幸せは、まるで「個人として輝くこと」が正解のように世の中を見ていると思ってしまいますが、果たしてどうなのでしょうか。

ネパールにいるとそんなことを以前よりも考えることが増えたため、その辺について書きます。

※私自身の幸せの価値観についてはこちらに以前書きました。


現代の幸せ

個人主義や自由主義は、自分を個人として社会から自立した存在であるとみなす思想で、自分の考えなどを明確に表現したがります。
対して集団主義や全体主義とは、個人よりも民族や地域などの社会集団に対して価値を置く思想であり、長いものに巻かれることを好みます。

「幸せというのは相対的なものである」というのはよく言われますが、これは言い換えれば「個人として自分と相手を比較することで、自分の方が優れていると感じる優越感こそが幸せの源になる」ということだと思います。

それは、幸せになるためには他人より優れていく(と思い込む)必要があるとも解釈できます。そして他人より優れていることを示すためには競争で勝っていく必要があります。

競争で勝つためには、何かに秀でていなければいけません。
非凡でないといけないのです。こうして競争社会と相性の良い個人主義は「現代の幸せ」の型として浸透しています。

それに対して、集団主義の中での幸せは何かいうと、集団主義においては自分を個人として認知することが少ないため、敢えて自分という個人の幸せについて考えることはないのかなと思います。

強いて挙げるとすれば、アドラー心理学の共同体感覚のような、コミュニティにおける他者との繋がりやコミニュティ内で役割を与えられていることを実感できた時が幸せであり、そこには他者との比較が全くないわけではありませんが、個人主義のような自分と他人を区別する考え方はないような気がします。

誰にも勝つ必要がなく、集団への帰属意識さえあれば、自ら道を切り拓かずとも幸せになれる集団主義の方が良いと考えてしまう現代人もいるかもしれません。

結婚式のために大量出費も生存戦略

とはいえ、個人主義にも集団主義にも不幸や難局というのはあると思います。

ローカルなお祭り

個人主義で言えば競争に負けることが不幸に直結します。私たちはそういう社会で生きているためわかりやすいのですが、他人に対する勝利を求めない集団主義における不幸や難局はなんでしょうか。

集団主義は言ってしまえばコミュニティが命です。
村八分になってしまえばその村で生きていくことはできませんし、競争で勝ち抜いてきた実績もないため競争社会にも馴染めません。

集団主義ではコミニュティから爪弾きにされないように他人の目を気にする必要がありますが、その最たる例が途上国などの農村における冠婚葬祭のための大量出費だと思います。
決して経済的に豊かではない人たちであっても冠婚葬祭には出費を惜しまないのは、日頃から華美なイベントが少ないからということもありますが、伝統や文化を守ることがコミュニティとしての結束を維持することにつながるからなのだと思います。
そうしたコミュニティに自らの存在意義を見出している人にとっては、コミュニティの成員として常識的な振る舞い(ここで言えば豪勢な結婚式など)をすることが異端と思われないための処世術なのです。

個人主義では勝つことが生存戦略ですが、集団主義では依存先にうまく頼ることが生存戦略になるのです。

そのため、コミュニティに無理に迎合しなければいけないのであれば、それは難局と捉えることができますし、それで失敗をしてコミュニティから冷遇されることがあれば不幸と言えます。

集団主義のデメリットは欲しくないけど集団にはいたい人たち

人間というのは社会的動物ですから、元々は集団主義的な生活スタイルに慣れている生き物です。
農耕社会が広がる以前の狩猟採集民であっても、遊牧民であっても集団生活を基礎とします。

かつては集団の掟とされたルールが法律に置き換わり、集団で役割分担をしていた日々の雑務は貨幣により他人に委託することが可能となり、子供が世話をすることが当たり前だった親の老後も自らの貯蓄や公的福祉でなんとかできるようになりました。

このような社会的基盤が整備されたことにより集団でいることのメリットが薄れた現代では個人を謳歌する人が増え、個人主義が礼賛されるような時代となりました。

一方で、最近では「コミュニティ」という言葉をよく耳にします。
ムラ社会による伝統的な集団主義的社会には属しておらず、あくまで個人主義としての人生を謳歌しているが、競争社会にも身を置きたいわけではないため集団主義的な価値観の中での幸せを見つけようと自分の依存先を探す人たちが増えているのも事実です。

「適切な依存>競争での勝利」な価値観

今の時代、勝つことだけが幸せではないということは理解がしやすいと思います。
というよりもそこでの競争は消耗戦でしかなく、そもそも競争で勝つことが難しいのです。

今の先進国に途上国から来ている人たちも元々は集団主義の文化で育った人たちが少なくありません。
そういった人たちにとっては競争社会で自ら道を切り開くよりも集団でコミュニティを形成する中で生活のリスクヘッジを行う方がやりやすいのだと思います。

そういう意味では彼らの幸せについて考えるときは、競争社会で勝つことや個人として非凡であることを求めるよりも、適切な依存先を探した方が良いのだと思います。

しかし、依存するコミュニティというのが少ないとそれは逆に良くないことだと思いますので、できるだけ依存先を増やすというのが個人主義でない人の生存戦略としては良いのかなと思います。

国際社会でも応用可能?

上記の章までで終わっても良かったのですが、ちょっと考えを飛躍させた追記です。

ネパールなどの後発開発途上国は現在の先進国のような技術力やインドや中国のような大量生産できるリソースがない国が多いです。
そのため、大量生産という軸で先進国と競争をしても勝ち筋は薄いです。

そういった意味では国としても個人主義ではなく集団主義的な価値観の中で生存戦略を考える必要があるかもしれません。
もう少し踏み込むと地球というコミュニティの成員として役割を見出すことはできないのだろうかということです。

希少な自然資源や文化というのはイメージがしやすいですが、ネパールで言えばインドと中国の間に挟まれているという数奇な運命も大国同士の緩衝国という意味では国際的に重要な位置付けとなり、生存すべき理由になり得るかもしれません。
(これまでは両国に常に半殺しにされているという印象でしたが)

少なくともそういった方向性も含めて考えていかなければ競争一辺倒では生存していけません。
逆に言えば国としての規模が小さいので、大きな分野で大勝をしなくてもニッチなところで存在意義を見出すことができれば国としてはやっていけると思います。

今日は以上です。
最後までお読みいただきありがとうございました。


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