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【産地ができるまで】宮崎マンゴー誕生の歴史

今や国産では最も高価な果物の1つとなっているマンゴー。
元々は南国の果物ですがフィリピン産やタイ産のマンゴーと国産のマンゴーは品種が違うので見た目や味わいも全然違います。

そんなマンゴーはどうやって日本に根付き国産の高級フルーツという地位にまで上り詰めたのでしょうか?

今回は宮崎マンゴーの産地化の歴史について書きます。

先にまとめです。

まとめ
他地域が寒冷な時期に温暖な気候を利用して作物を育てることで優位性を発揮してきた九州・沖縄地方の農業。
その中でも宮崎はブランド農産物を多く抱えているのが特徴で、そのきっかけとなったのは農家の収入アップのために始まった作物の転換です。特に当時は沖縄での視察で偶然一度見ただけのマンゴーで産地化を図ることを決めた農家さん8戸とJA職員のチャレンジ精神は凄まじいものです。
その後、品質の向上やPR活動に努め、独自の収穫法まで編み出した宮崎の完熟マンゴーは現在、不動の地位を築いています。
日本の農業は規模が小さいので、産地化などをするためには複数の農家をまとめてくれるJAの存在が必要不可欠ですが、その点において西都は農家とJAの連携が上手くいっていたことが産地化につながったのだと考えられます。
そうして特産品をたくさん増やしてきた宮崎は現在、ライチの栽培にも力を入れています。

宮崎の高級マンゴーと農業の特徴

高級果物の代表格

2022年4月14日、初競りが行われた宮崎のブランドマンゴー「太陽のタマゴ」についた金額は2玉で50万円でした。
初競りはご祝儀相場となるので高くなりがちなのはもちろんですが、ふるさと納税のサイトを見ても2玉で3万円あたりが相場のようです。

「太陽のタマゴ」というのは宮崎のマンゴーの中でも厳しい基準をクリアした選りすぐりのマンゴーだけにつくブランド名ですが、太陽のタマゴになれなかった国産のマンゴーもやはり高級品で、1玉あたり数千円は当たり前です。

※実は国内で一番マンゴーの生産量が多いのは沖縄で、2位が宮崎、3位が鹿児島なり、こちらの3県で国産のマンゴーのほぼ全てを生産しています。

実はたくさんあるマンゴーの品種

一般的にマンゴーの生産地としてイメージするのは正直、日本ではなくフィリピンやタイなどではないでしょうか?
それもそのはずで日本で消費されるマンゴーは外国産の方が多いのです。
ですので逆に言うと国産のマンゴーはそれだけ希少価値が高いと言うことです。

過去に仕入れた沖縄の珍しいキーツマンゴー(この色でも食べ頃です)

また、マンゴーの品種自体も意外にも多く、国産マンゴーや台湾産は「アーウィン」が主流ですが、日本に輸入されるマンゴーだけでも以下のように産地ごとに有名なマンゴーは異なります。

  • タイの「マハチャノ」「ナムドクマイ」

  • フィリピンの「カラバオ」

  • メキシコの「ケント」「ヘーデン」「トミーアトキンス」

  • 果皮が緑色の状態で完熟する「キーツ」

  • インドの代表格「アルフォンソ」

  • 世界一甘いと言われる「パキスタン産」

宮崎の農業の特徴

話を国内(宮崎)に戻します。
宮崎県の農業産出額は全国第5位です。

これは九州・沖縄全般に言えることですが、温暖な気候を利用して関東以北が寒くて農作物をあまり作れない時期に色々な農作物を作ることで産地リレー(野菜を周年供給するために時期に合わせて作物が栽培される地域が移り変わっていくこと)に大きく貢献しています。
そして、そういった時期は競合となる産地が少ないため相場も上がりやすく、これが九州の農業の大きな強みとなっています。

中でも宮崎は「日本のひなた」と言われるほど日照時間や快晴日数が多く、施設園芸や畜産が盛んで、きゅうり(全国1位)、ピーマン(全国2位)、ズッキーニ(全国2位)、ブロイラー(全国1位)、豚(全国2位)、肉用牛(全国3位)などの生産量が高いほか、ブランド農作物が多いことでも有名です。

仕入れをしていた身としては、上記以外にもシーズンの一番初めに入荷するとうもろこしやブランド金柑「たまたま」の印象も宮崎の農作物には強いです。(そして段ボールに入るロゴ「Oh!宮崎」

日向夏も宮崎の特産

宮崎マンゴー誕生の歴史

そんな宮崎県で高級マンゴー「太陽のタマゴ」を生んだのがJA西都です。
そこまで大きくもないこのJAでどのように高級マンゴーが誕生したのか。数十年の歴史を見てみます。

冬期の収入アップのために施設園芸に挑戦

遡ること約60年、1964年に発足したJA西都管内の農業は当時、タバコ、養蚕、かぼちゃなどが盛んで冬に収入を得られる作物は少なく、新しい作物の栽培が検討されていました。

その中でまずはとうもろこしの栽培が始まります。
西都では、当時すでに飼料用とうもろこしの栽培は行われていましたが、食用については山梨や大分などが先に栽培をしており、西都も追従する形でとうもろこしの栽培を始めました。
コールドチェーンの確立のより販路は拡大し、今では東京でもシーズンで一番早いとうもろこしとして扱われています。

そして同時期にピーマンの施設園芸(ハウス栽培)も始まります。
当時、ピーマンがまだ珍しい野菜だった頃、西都では医者しか持っていない自家用車を高知県ではピーマン農家が持っており、施設園芸でのピーマン栽培の凄さを実感した農家9名は、後に「さきがけ会」と呼ばれる会を発足。JAも生産者をバックアップするために若い職員が高知へ行き栽培技術を習得していきました。
食べたこともなく見たこともないピーマンの栽培を、露地よりも圧倒的にコストのかかるハウスで栽培をするという挑戦はまさにイチかバチかで苦労も相当あったようですが、結果的にこれが大成功で、高度経済成長も相まってピーマンの消費量は増大し、生産者もその恩恵を受けてピーマン御殿と呼ばれる家が宮崎県内にいくつも建ちました。

沖縄での偶然の出会いからマンゴー栽培へ

ピーマンのおかげもあり施設園芸が普及した1980年代、果樹を施設で栽培する取り組みも検討され始めます。
そんな声を受けたJA西都や市役所などは1984年に「果樹技術委員会」で沖縄のハウスみかん栽培の視察研修を行うことになります。予定より視察が早く終わってしまったため、時間を埋めるために試験的に栽培がされていたマンゴーの視察を行うことになりますが、これが重要な転機となります。

そこで食べたマンゴーに激しく感動し、すっかり魅了されたJA職員は翌年8戸の農家を集めハウスマンゴー部会を立ち上げます。
全く未知の果樹であるマンゴーの苗を台湾からなんとか輸入し、手探りの中で栽培を進めた結果、1988年に初収穫を迎えることができました。

東京での失敗を受けて品質向上、PR活動に着手

初収穫のマンゴーを持って売り込みに行った先は東京でした。
しかし、結果は惨敗。
果実に黒斑が入っていたことにより、味は好評でも見た目が足を引っ張り、高級果実として売るには不十分な出来でした。

また、当時から輸入のマンゴーがすでに入ってきており、価格面で輸入のマンゴーに対抗するのは最初から無理な話でした。
加温ハウスを利用するため価格を下げることができない宮崎のマンゴーが取るべき道は品質の向上しかありません。

そうと決めたJA西都とマンゴー農家は品質を日射量を確保するために密植をやめたりするなど品質を上げるための施策を実施します。
また、販売面でも試食会を実施するなど宮崎のPR活動としてJAを中心に積極的なマーケティング活動を行いました。

遂に完熟マンゴー完成、太陽のタマゴとして東京に再挑戦

着々と栽培技術の向上や販売促進が行われる中、「たまたま熟して落ちてしまったマンゴーを食べたらとてつもなく甘かった」という話が入ってきます。
「自然落下したマンゴーを傷つけずに収穫することができれば最高のマンゴーになる」と確信したJA職員はネットを使って落下するマンゴーを保護できないか検討します。
しかし、編み目がついてしまうと商品価値は落ちてしまいます。編み目が入らないギリギリのラインを発見すべく研究を重ね、遂にあるタイミングでネットをマンゴーの果実にかければ編み目がつかないということを発見します。(ネット収穫法の誕生)
1つ1つの果実にネットをかけることで農作業の負担は増えますが、品質を上げることを優先したことで、完熟マンゴーが誕生したのです。

その後、マンゴーのブランド化のために条件を「赤色、350g、糖度15度以上」と定め「太陽のタマゴ」として東京に再度売り出すこととなります。

初めて東京に持ち込んだ10年前と違い、地元でのPR活動により高めた宮崎でのマンゴーの知名度を後ろ盾に、これまでにないほど完璧な味と見た目を追求した最高のマンゴーを東京へ持ち込んだ結果、反応は非常によく、贈答品として需要が急上昇。その後はメディアへの出演や東国原元知事のPRにより「太陽のタマゴ」は最上級マンゴーとして不動の地位を確立することとなりました。

宮崎の次なるブランド農産物はライチ?

完熟マンゴー以外にもさまざまな特産品を生み出してきた宮崎県ですが、最近ホットなのがライチです。

ライチというとそもそも馴染みがない方もいるかもしれませんが、日本に流通するライチの90%以上は中国産か台湾産です。
仕入れて販売したこともありますが、独特の甘さと爽やかさを持つライチは人気が高く、ほとんど入荷もしないため、入荷した日はその日のイチオシ商品となっていました。

そんなライチの国産シェアはわずか1%ほどですが、近年、宮崎県ではライチの栽培が増えているようです。

現在はマンゴーを超える超高級フルーツの位置付けとなっていますが、生産量が増えればもう少し買い求めやすい価格になるかもしれないので今後も注目です。

最後に

今回は宮崎マンゴー誕生の歴史についてまとめました。

他地域が寒冷な時期に温暖な気候を利用して作物を育てることで優位性を発揮してきた九州・沖縄地方の農業。
その中でも宮崎はブランド農産物を多く抱えているのが特徴で、そのきっかけとなったのは農家の収入アップのために始まった作物の転換です。特に当時は沖縄での視察で偶然一度見ただけのマンゴーで産地化を図ることを決めた農家さん8戸とJA職員のチャレンジ精神は凄まじいものです。
その後、品質の向上やPR活動に努め、独自の収穫法まで編み出した宮崎の完熟マンゴーは現在、不動の地位を築いています。
日本の農業は規模が小さいので、産地化などをするためには複数の農家をまとめてくれるJAの存在が必要不可欠ですが、その点において西都は農家とJAの連携が上手くいっていたことが産地化につながったのだと考えられます。
そうして特産品をたくさん増やしてきた宮崎は現在、ライチの栽培にも力を入れています。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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