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私たちはどこまで合理的に生きれば幸せになれるのか?

 (時間がない人は太字だけでも目を通してみてね。)

 社会人になると、時間やコストを下げましょうとか、ロジカルに考えようとか言われ、とにかく効率が重視される。プライベートでもミニマムな暮らしとか、時間を増やしてくれる家電とか、合理的な生き方が世の中を彩っている。世の中はどんどん進んでいるし、自分も乗り遅れないように仕事もプライベートも効率重視で生きているが、どこか息苦しい。やってもやっても終わりのない感覚。面白さを感じない。自分の生き方は本当に正しいのだろうか?と悩んでいる方も少なくないのではないでしょうか。

 合理的というのは無駄が少ない状態だが、人生の全てを無駄のない状態で生きるというのは、息苦しいし、なにより面白くない。では私たちはどこまで合理性を求めるべきなのか?その問いの答えが非合理にある
 非合理というのは、無駄なこと。無駄と言われると、損をしている気がするが、良い表現に変えると、余白だったり、遊びだったり、ゆとりだったり、感性だったりに言い換えられる思う。つまり、窮屈な生き方にゆとりをもたらしてくれるのが非合理なのである。
 
 では、私たちはどこまで合理的に生きて、どこまで非合理に生きたら幸せな人生を送れるのだろうか?

 その境目は、好きなことかそれ以外かだと思う。

 例えば、車が好きな人。もし、合理的な選択をするのであれば、車を所持しないという選択だ。車が好きなのに、合理的な選択をすると所持できないのである。これは極端だが、もし車を所持するのであれば燃費重視のコンパクトハイブリッドカーや維持費の少ない軽自動車という選択になるだろう。車好きな人が、こういう選択をしたらどうなるだろう?私なら、ストレスで気がどうかなるだろう。
 洋服が好きな人も同じだ。私は、洋服にこだわりが少ないほうなので、着やすくて無難な色や形、そして価格を求めてしまう。よく買う店はユニクロやGUだ。だが、これも洋服好きの人から言わせれば、ストレス案件だろう。そんな大衆向けの服装では個性が発揮できないし面白くもなんともない。

 好きなことに対して合理的な選択(自分が求めていない選択)をしてしまうと、ストレスが溜まってしまう。よって、好きなことに対しては合理的な選択をしてはいけない非合理な選択にこそ、その人の個性やこだわりや愛が表現される。これを生活に転用すると、好きなことで非合理な選択をするために、その他のどうでもいい部分を徹底的に合理的に生きるのである。これが人生を充実させるコツだ。自分が好きなことはなにかを知ろう。好きじゃないことを知ろう。そうすることで人生にメリハリができて、より充実した人生を送れるようになるだろう。



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