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【ネクタイのない文筆家】第1話

彼は静かな喫茶店の片隅に座り、使い古したノートに筆を走らせていた。
とつとつと雨が窓を叩く音と店内に流れる小さめのBGM、マスターがコーヒー豆を挽く音が部屋に響いている。

彼の頭には時折、1行2行、言葉が舞い降りるが、どれもこれといった形にならずに霧散する。
かれこれ1時間ほどこうして言葉をたぐり寄せようとしていた実嗣(みつぐ)は、細く長くため息をつくとカフェオレのおかわりをマスターに頼んだ。

実嗣はしがない事務員である。仕事は大きな不満もない代わりに体を震わせるような充実感も特にない淡々としたものだった。

そんな彼が唯一握りしめるような充足感を得られるものが、こうして休日に文章を書くことであった。
休みになれば、小説のようなものを書きにこの喫茶店のお気に入りの席に座る。
そして毎回、カフェオレを頼み、言葉に行き詰まった時にはこうしてドリンクやケーキを頼みながらひとり言葉を編んでいた。

だが、今日は特に言葉がまとまらない。
追加で頼んだばかりのカフェオレを何度も口に運んでいることに気がついた実嗣は1度カップを置いた。

とりあえずにでもと書き出した物語の欠片よりも、喫茶店で口にしたスイーツの感想記事の方がブログでの閲覧数が多いことを思い出した彼は、少し眉間に皺を寄せながら書きかけのノートに目をやる。

甘いものは好きだ。だからこそ、この店のスイーツ記録もそれなりに楽しみながら書いてはいるが。自らの筆致が届かないことに、悶々としたものが募っていることも確かだった。

ふと窓の外を眺めた。雨の滴が静かに流れ落ち、店の外を通り過ぎる車が立てた水しぶきを立てている。

実嗣は静かに息を吐いた。
窓の外のねずみ色の景色を見ながら、また頭の中で思い浮かんだ言葉をこねくり回してみたものの、やはり自らの不器用さにため息をつくしかなかった。

「もう今日はここで一旦終わりだな」と実嗣は心の中でつぶやくと、ノートとペンケースをカバンにしまった。
少しぬるくなってしまったカフェオレを飲み干し、彼はぼんやりと気だるげな午後を眺めていた。

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