雇われデザイナーはどうやってコアを獲得するか?
デザイナーのコア(核、本質)ってなんだろう?
そして、それはどのようにして獲得するものなんだろうか。AIの話題が飛び交うタイムラインを眺めながら、こんな大きな問いについて思索している。
描けば描ける。大層なことを言わなくてもデザインタスクには取り組める。でも、なんとなく受け身で仕事してるだけでは手に入らないもの。偉人の言葉やデザインは響くものの、それとは違う。
そもそもコアってなんだ?どうやったら確かめられるんだろう。
自分の中でもかなりフワフワしている。経験や発達の過程により、得るものも違う気がする。時間のある連休に、叩き上げのキャリアを振り返りながら考えてみた。
※個人的な思索を写した、殴り書きのような乱文です。広く共感されるような解決策や答えを提示する記事ではないことをご了承ください。しかしそれなりの意志をもって書いているつもりなので、もしよければ共にあなたのコアを思索してください。
なぜデザインが仕事なのか?
たくさんのデザインをつくる中で、その一つひとつの理由を「なぜ?」と問うてきた。そのわりに自分自身の生業について「なぜ」と問う機会は少ないのかもしれない。皆さんはどうだろう。
なんのため。「食べるため?」それはそうだけど、それだけで毎日の仕事を何年も続けていない。「仕事があるから?」それにしてもそうだけど、デザインの他にも仕事はある。そして働き方の選択肢も広がっている。「楽しいから?」もちろんだけど、自分本位だけではつまらない。楽しくないことだってある。やればやるほど、純度の高い回答から離れていくような気がする。
でも、自分の駆け出しの頃を振り返ると、当時は想像もできなかった「なぜ」を見つけてきた。どんなデザインもやってみるとおもしろくて、ときどきこれは良い!と思える「なぜ」があった。デザインは打算してもしきれず。結果的に見つけた「なぜ」がデザインの対象範囲を拡げ、デザインがまた新しい「なぜ」を求める。毎度毎度やってることも、その理由も違うけれど、そんな「なぜ」の呼応によって自分のコアらしきものが磨かれているような気もした。
今デザイナーとして働くあなたには、これまでどんな理由でそうしてきたんだろうか?今から働く人には、これからどんな理由で担うんだろうか?今みている目線から過去に立ち返ったり、まだ知らない未来を想像しながら「なぜ」を捉えてみたい。
できる
まず「できる」ところから始まる人が多いのではないかと思う。やってみた。描いてみた。作ってみた。はじめから大層なアウトプットがなくても、「できる」は十分な理由になる。
自分の場合は、もともとデザインに憧れや夢をもっていなかった。広告業界の表面的なイメージ、派手なキャンペーンや広告表現の印象から、“消費されるもの”というネガティブな意識のほうが強かった。そのためやる気はなく、デザイナーとしてのキャリアも考えることはなかった。
それでもWebデザインを初めての職にした理由が「できる」
それも「ツールが多少操作できる」レベルで始めた。あとは「比較的給料がよかった(当時は)」さらには「広告よりブラックっぽくなさそう」という、幼稚な考えだった。バイト上がりで就活もせず、向上心も無かった。消去法で余った選択肢だとしても「できる」ができたことは恵まれていた。
きっと「できる」をなくして、先の理由が見つかることもなかったんじゃないかと思う。自己評価だろうと「できる」を大切にしたい。もし初学の方がいたら、目の前の「できる」がこの先どんな「できる」につながっていけるのか、期待をもって読んでいただいても問題ない気がする。
うまく作れる
作ってみるうち、より「うまく作りたい」と欲が生じる。うまく作るには技術力はもちろん、知識や勘所、経験則を活かすスキルセットなど求められる。コミュニケーションなどソフトスキルも欲しくなる。視野、視座、視点。異なるもののみかたが備わり、そもそも何が「うまい」のか知りたくもなる。それらは作らずして湧くことのない欲だ。
やる気のないキャリアスタートをきった自分も、やっていくうちに欲が増えていった。当初のクライアントワークでは、ただ要件を達成するために制作していた。要件といっても、今ほどしっかりと体系立ったものではなかった。専門誌に載るようなハイクオリティなアウトプットには遠く及ばず、ネットや文献を探しながらの試行錯誤だった。けど、その過程でうまく作ろうとする意識が変わっていった。自然とクライアントとの折衝も増えていった。次第に同じ要件でも以前と同じ方法では「足りない」と思うようになった。
デザインはテキストや指示に従って作るばかりでは「うまく」ならないと思う。創意工夫や試行錯誤、さらには対話を通じて、より「うまく作れる」ことを知る。それは、ただ「できる」以上に、デザイナーとしてデザインする理由になる。
良い提案ができる
要件に沿ってどれだけうまくデザインを作っても、ビジネスの良い結果につながるとは限らない。使われないものや消費前提でものを作る機会もある。制作要件が契約や規則上決まっていたり、いまいちうまく作れない仕事に落胆することもあるかもしれない。
「それらは悪いことだ。」と言いたいわけではない。仕事があること自体有り難いこと。要件が初めから決まっているほうが稀だ。他方で「うまく作る」をよく聞く“作り手のエゴ”にするにはもったいないように思える。
(自分の場合は)そんな課題意識から、次第にディレクターとして制作実務以外のディレクションを志願して担うようになった。スペシャリストの集まるチームで要件定義や基本設計を担うも、当初はまとまらず投げだしたくもなった。しかし複数の観点を考慮することで役立つ実感が持てた。
うまく作れることを知るデザイナーが、「提案」を通じてビジネスやエンドユーザーの役に立ちたい、と思うのは自然なことだ。ただ策に溺れる策士ではなく、戦略だけのコンサルティングでもない。作り手として提案し、ものづくりを通じて役に立つ。そうやって要件から仕事をつくること、仕事自体の価値を高めることもデザイナーにできること、デザインする理由になると考える。
価値を探求できる
昨今デジタルプロダクトやwebシステムのディレクションにひとりで取り組むには専門知識も必要で難易度も高い。しかしそれ以上に事業、サービスが成功させることは難しい。はじめから「良い」かどうかも分からない。その良さはサービスを利用する側にとっての「価値」であり、時代と共に変わり続ける。それはもちろんプロダクト開発の範疇に留まらない。ここまで話してきたものとは異なる視座が必要になる。
自分の場合は、世の中に求められる価値づくりに魅力を感じ、事業会社に転職した。運良く新規事業に携わらせてもらい、しばらく様々な価値のリサーチ活動に取り組んだ。テスト導入等を通じて、いくつか価値のありそうな仮説も立てられた。そのいずれも良さそうで、しかし正解が分からないままピボット(方向転換)した。良いのに失敗。それは受託ではできない経験だった。
「価値」とはなんだろう?何を求めて、どうなれば正解なんだろうか?前項にあるような「良い提案」の“良さ”が自分の目の届く範囲ですぐ見つかるなら、世の中の事業開発もそう苦労しないかもしれない。価値は浮ついた空論でなく、現実にない思考や行動のポジティブな変化だ。そして、その便益を享受する側が感じるものだ。
そんな中でも、デザイナーは現実にない構想を形にし、みて、触れてもらうことでその変化を確かめることができる。事業開発でも、ポスタービジュアルを作る場合でも、価値については同じことが言える。価値を探究することは、より根源的なデザインの理由になりうる。
自分を突き動かすもの
デザインは自分の思っていた以上の仕事だった。作るほど、対話するほどに良さがわかっておもしろい。ものづくりの結果が誰かの役に立ち、さらに新たな価値を提供できる。しかし、ここまでの「できる」は自分の外側から得たものだ。
みなさんは「デザイナーは自分でなくてもいい」と考えたことはないだろうか?周りを見渡せば、デザインの専門教育を受け、自分より努力する後輩や経験豊富で優れたデザイナーがたくさんいる。いつか来ると思っていたAIも、既にそれっぽいアウトプットを出している。わざわざ自分が関わる必要を考えてしまう。
それでもなおデザインに直接、間接的に携わりたいという想いを抱いてきた。外側ばかりみてきたが、自分の内側にある想い、私を(あなたを)内側から突き動かすコアはなんだろう?
ここからは自分の思索を中心に書いてみたい。
異なるものがコアにある
ここまで書いてきて思った。自分にとってのコアは、おそらく「異なるもの」だ。異なるのに自分のコアなんて、最初から矛盾しているかもしれない。拍子抜けをせずに読んでもらいたい。
中核や中心というより辺縁や境界にこそ自分のコアがあるように思う。線が面を分かち、異なるものが生まれる。
「違うもの」「分からないもの」「知らないもの」「見えないもの」・・・様々な異なるものの間に、欲や想いが生まれる。違うから認めたい。分からないから理解したい。知らないから知りたい。見えないから見たい。一人で思っているだけなら、それこそエゴでしかない。でも自分のエゴがなければ感じることのない想いだ。
異なると言えば、クライアントやエンドユーザーといった他人も異なる。それは「伝わる」といった個を超えた価値になる。異なるもの(人)がなければ、そこに理由や価値を見出すこともない。異なる意見や立場の間で何ができるだろう。
相容れないまま抱えていたい
異なるものがコアだとしたら、自分の中で大事にしておきたいことがある。それは「火」と「水」といった、相容れないものを相容れないまま受け容れる態度だ。「いきなり何を言いだすんだ。」という話だけど、そのまま書いておく。
火と水がぶつかるとすぐに鎮火し、水は蒸発してしまう。そのインパクトは一瞬にして終了してしまう。しかし自分が捉えたいのは、異なるもの同士の「相容れなさ」だ。好きな映画で、背景に「燃え上がる納屋」前景に「したたりおちる雨水」を同一カットに収めた有名な映像がある。人為的に用意された水と火の相容れなさを、干渉者はじっくりと自分の目で眺めることができる。そうやって異なるもの同士の相容れなさを、自分なりに実感しながら抱えていたい。
困らない時代のデザイナーとして
そろそろ、文中の想像から現実へと戻ってみる。
ここで、あなたが一人の生活者として望むことはあるだろうか?
生活をするうえで、昔ほど不便を感じることはなくなった。求める体験やどうしても解決して欲しい課題もさほど無い。火だの水だの言う必要もない。つまるところ困っていない。「なぜ」を問う機会も少ない。
目的があれば、最短距離で合理的な選択を求める。無駄をしろ、というわけじゃないが、はじめから無駄のない、誰かの正解が転がっている世界しか知らない人を不憫に思う。
幸いデザインの仕事には「分からない」「見えない」といった要望がたくさん届く。外から聞こえてくるその声は何か。あなたにとってデザインを作るとは、どういうことか。そして、あなたをデザインに向かわせるものは何か?あなたのコアはなんだろうか?
「雇われ」にとらわれすぎず、たまにデザインの内と外を眺めながら思索にふけってみるのもいいかもしれない。そうだ、AIにいけすかない壁打ちをしてもらおう。困らない時代に困ることは、実はとても希少な価値ある仕事なのかもしれない。
もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。