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強い“役割意識”に寄せて。分かりあえないことが実は希望だったりする。

良いと信じて、成果も見据えていて、疑う理由もないけれど、それが認めてもらえない。組織勤めならそう思うことって、大いにあると思います。

その至らなさや悔しさは、ポジもネガも関係なく、すごく重要なことで、あなたにしか考えられないこと。あなたにしか知り得ない背景、言葉に出してもいないような、他にない使命感があるはずで。

だから、僕は言い切ります。ずっと、そのことを考えていて、頭を悩ませたり必死になっているのだったら、それは尚のこと知っているあなたにしかない感情と思考なんです。あなたにしか持ち得ないこと。それは重要なこと。世界に認められること。

他方、他者に目を向けてください。あなたしかできない思考を持っているのと同じように、誰かにしかできない思考があって然り。それが正しいか間違いかを言い包める理由はどこにもない。人は人の自由意志で生きている。

それを実現する誰かの神経を、身体を、巡り続くRNA(遺伝子配列)の旅を、幼い頃の経験を、あなたは知ってますか?他者のそれを、僕は知りません。知る術もない。

だから、うっすらした共感はいらないよ。あなたに何が分かるんだ。わたしに何がわかるんだ。分かりません、誰も孤独だもの。でも、1人ではないよ。

きっと、役割を決めることは人の分別ではない。役割は手を取り合うこと。協力すること。自分たち一人ひとりのできないことを自覚し、まわりと理解を交わし、協力してゆく中ではじめて果たせること。

だから、役割って、それそのものを分別したって良いことないと思う。それぞれの役割、役割が果たす責任だけを見ていたら、確実なこと、閉じる方向でしか価値を得られなくなる。それは違うんじゃないか?

知ること、理解すること、あなたの思考態度で同感することができる。それができるから、知らない相手を称えます。尊びます。宇宙に、世界に絶対なんてありません。ものの始まりは観測できない。自分の外側で知らないことがあるから、希望的でいられます。知らない誰かがいるから、自分でいられる。

共感はいらない。

私たちは、誰かのことを圧倒的に知らない。だから、私なりに、私なりの思考態度で同感できる。同感はできなくとも理解はできる。知ることはできる。評さなくとも、違いを認めることができる。

これは希望だと思うんです。

もし思い悩んでいる人がいたら、信じてみたい。知らない他者のことを。その人が見ている世界を。その心中にあるものを。取り囲む、お互いに感じることのできる圧倒的距離感を。

信じることをなくして、遠くの誰かの心底に忍ばせた心なんて、到底分からないです。ポジネガは関係ない。だから、知らないことは希望です。他者に、示唆を与えてくれる同士に感謝できているか。書きながら悔しくなってきました。

これは個人的な自戒です。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。