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いまは令和の端緒

世の中の動きが激しくて、たまりにたまった意見が噴出している様相。Twitterやテレビを見れば、軽く目眩してしまう。接している多くの人が戸惑っている、と思う。

それぞれが個人の営みを続けるため、少しだけメディアとの距離を置いて、落ち着く必要もある。個人的に、やや抽象的にどう捉えるか、思考を巡らせてみたい。

組織と個人

政党、テレビ、企業など動向をみていると、組織と個人の関係を強く意識させる。組織と属している人の見解の不一致が露わになっている。政党と政治家、吉本と芸人。まるで会話していないように聞こえる。

自分たちはどうか。会社に属したりサービスを利用して、何かしら、社会・組織と関係している。無縁社会と言いながら、誰も、完全に社会と無関係な人はいないはず。どれだけ会話できているか。適度に意思疎通しているか。あるいは閉じていないか。こういう話題をもって、少し問いかけてみたい。

仕組み

個人と社会の関係は、何かしらの仕組みが結んでいる。憲法や法律も、機械的なシステムも、組織との契約やその中での小さなルールも、阿吽の空気も。何かしらの思惑があって、モノゴトをうまく扱うために仕組まれたものかもしれない。

仕組みが機能しなくなれば、自然と不平や不満、様々な要求が生じてくる。何かおかしいな?という疑問を持つ。仕組みそのものを疑ってみることは、おそらく悪いことじゃない。

たとえば選挙で、自分の投じた一票が実を結ばなかったとしても、考え抜いて決めたなら、悔しさはあっても後悔はない。数や思想といった原理だけで、既存の仕組みで報われないこともあったりする。

決めごとを有耶無耶にしていないか。あるルールに従って、あまり考えもせず意見を捨てていないか。逆に無理を言っていないか。身の回りのことを省みる。

ここは令和の端緒

タイムラインに『端緒』という言葉を見かけた。こんな意味だ。

“物事が始まる、または解決するいとぐち。手がかり。”

年号が変わってから、いろいろな事件、事故が続いている。だけど、すべてではないにしろ、出来事が顕在化しただけで、何かしら予測や考えがなかったわけじゃないと思う。眺めていると、感情論だけでないシビアな側面も見えてくる。ここ数年で潜在的な多様性、不確かさが明らかになって、個人に知らないことがたくさんあった、見つけた、と感じる。どこか、起こるべくして起きたことのように感じる。

誰かが令和の始まりを嘆いていた。だけど、この機会を何かの糸口だと捉える。これまで先人が必死に作ってきた仕組みや周りとの関係を一気に変えるのは難しい。一方で個人の思考や会話を諦めたくない。そして、どこかで報われたい。あくまで、今できるところから、この糸口を探っていきたいんだと思う。ここを令和の端緒と呼んでみたい。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。