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人思いのエゴ、ポジティブの弊害

いつかの新興宗教で「定説です。」と言う人がいた。髭面でいかにも教祖といった風貌。他人がとやかく言うでもないけど、うさんくささも相まって、特に批判的なことすら思わずスルーした。

自分にだって、これは信じる、というものがある。ふと、信じて疑わないことに、教祖や犯罪者と似たような側面はないかと考えた。もしかして、自分の知らない観点や価値観で、自らを批判できていないのかもしれない。

たとえば、誰かにアドバイスをするとき、自分の信じる中から役立つことを探そうとする。スキルの長けた人、慣れた人であればあるほど、有効で、強くて、役に立てる、なんかポジティブな感情に満ちる。

仕事でもしていれば、たくさんのモノゴトに対処するため、正解やそれに至る最短距離を求める。効率化や共有を考えると必要で、時と場合によって自分もそんな力を発揮する。

当たり前に疑うこともなく、当たり前を“正しいこと”とする。また、思っていてもいなくとも、他方を“間違ったこと”とする。

でもそれは、誰にとっての正しさなんだろう。相手なのか、課題に対してなのか、もっと大きな話か、自分だけのものか。ほんとうのところは、フタを開けてみないと分からない。

これを、口頭だけで空中戦のように確かめあっているのでは危ない。もしかすると、正しさの影に潜んで、みえない痛みが生じているかもしれない。みえない痛みが集積すれば、大きな争いに発展することもある。身近な話も、国レベルの大きな話も、紐解けば似たようなパターンに思える。たとえ小さくても、空中戦を続けて、期待と結果のズレを広げることは避けたい。

他者が苦しむ前に、それを「解決できる」と勝手に見込みをつけない。そして一方的に改善を求めない。それが相手(の期待)にとってフォローやアドバイスになるとは限らない。良い結果につながるとも。私のポジティブが、あなたのポジティブになるとも限らない。ネガティブをそのまま見逃すなかれ、そこにある批判的視点が何かにつながることもある。

だから、たとえ自分の思う正解が明らかだとしても、機械のように脊髄反射で動くことはやめよう。頑なな態度も。私たちはお互いの合致を、それぞれの視点、ペースで確かめあえる。

一度反芻して、モノゴトを整理し、言葉や図のような記号に抽象化する等して、お互いに理解できる。認識を合わせることができる。ノウハウを共有できる。

今が不遇に思っていたとしても、みんなが報われることを諦めないでいたい。この気持ちが独善的なエゴに終わらないよう、雑だけど書き留めておこう。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。