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22歳の祝辞①を読んだ

話題になった大学卒業生、22歳の祝辞①を読んだ。

このあまり見たことのない祝辞に、それっぽさはない。メッセージのようでもなければ、何かを“隠してる”というふうにも、逆に“出してる”というふうにも感じない。削り出しの刃そのまんま、エッジの効いた22歳という感想。美辞麗句よりいくらかリアリティを感じた。

22歳。多くが大学卒業の年齢。思い返せば自分の22歳も、自分なりのリアリティのようなものを持っていた気がする。彼女とは程度がまるで違うけど。

学生だった頃、自分の力の自覚や、そうやって構える強さ、実績があっただろうか。多くは漠然と不安なまま、リクルートスーツに身を包み、段階を経ながら順応していく。(それだって自分にはすごいことだと思える。)

その漠然とした不安は、外側からの評価や本人たちも自覚や自活できていないところから来ているような気がしている。ほんとはみんな、あてどない若い力を潜在的に持っていて、それを「社会のために」だなんて考えることなく今ある社会に順応させる。

今年卒業を迎えた22歳のどれほどが、世の中の「忖度」って言葉を聴いて、意識して育ってきたかは知らない。情報環境だってまるで違う。ブランデッドコンテンツへの疑いの眼差し、旧来のセクシャリティ、感動ポルノへの批判も、人によって自分たちの比ではないように感じる。先輩方の見たことのない、見た目には知れないポテンシャルを抱えて、育ってきた無知がそこにある。無知を恐れるな、と諭されているような気になってくる。

この謝辞は問いかけてくる。これが祝辞として相応しいかどうか?適当かどうか?ちょっと思ったけど、ちまちま考えれば考えるほど虚しくなる。この人は、無知の知を自ら地でいく。知らないことに飛び込み、今はない明日に歩みを進めようとしている。

これを掲載した学部にとってはどうか?学問や研究のレベルがどう、ではなくて、新たな学部での若い人自身の新たな学びに、それなりの覚悟で向き合ってきたように読み取れる。きっと大変なこともあったんだろう。学生へのメッセージとそこに含まれたエール、組織自身の変革にも触れている。学部の強い覚悟を感じる。

この人のように、多少荒削りでも、自分の思考、価値観、言葉、行動で、自分なりに生きる人は強い。学びの成果の可視化や量的な強さといった、過去の結果やその評価でなく、自ら個人の資質と可能性を自認して自走する。

他人の自分たちが感じる無礼も不義理も、この人はあっと言う間に飛び越えていくんだろう。それも自分なりの思考、価値観、言葉、行動で。そして、そんな彼女自身の評価を、親や大学は、最高の学びの成果に思うのではないか。と勝手に想像する。あくまで個人の解釈だけど。

きっと彼女の視線の先には、適正も限界もない。無知を恐れず新たな何かを捉えて、更に視野角を拡げるんだろう。

もし潜在的に眠れる可能性が押しつぶされているのなら、大人としてもそこから学びとり、考え、変える必要があるんじゃないか。無知を晒して。この謝辞はそんな大人や社会へのメッセージにも思えた。

もし、サポートいただけるほどの何かが与えられるなら、近い分野で思索にふけり、また違う何かを書いてみたいと思います。