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草木と生きた日本人 山吹



一、序

 あしひきの 山の間照らす 桜花 この春雨に 散りゆかむかも (『万葉集』巻十・一八六四)
 (山のほとりを照らす桜の花は、この春の雨に散つて行くのだらうナア)

 心楽しき桜の季節も終はりました。

 屋戸にある 桜の花は 今もかも 松風はやみ 土に散るらむ (巻八・一四五八)
 (私の家にある桜の花は今ごろは松風がはやく吹いて、地に落ちてしまつたでせうか)

 右の一首は、厚見王の歌です。

 私ども現代人も桜の花の風に散る姿を悲しく、そして寂しく思ふやうに、万葉時代を生きた人たちも、それに続く平安時代の人たちも同じやうに感じ、たくさんの歌を残したのでした。
 桜といへばまさに春ですが、桜が咲き散る四月はすでに夏になります。持統天皇が詠まれた、

 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山 (巻一・二八)
 (春過ぎて、夏が来たらしいですね。白妙に輝く衣を干してゐますね、天の香具山に)

の御製も思ひ浮かびませう。
 五月となり暦の上では夏ですが、まだまだ春の名残もありませう。今回は、王朝和歌時代に晩春の景物として定着した山吹の花について共に学びませう。

二、山吹

 まづは、いつものやうに『日本国語大辞典』の山吹を見てみませう。

 「バラ科の落葉低木。各地の山野に生え、また、観賞用に庭園などに広く栽植される。高さ一~二メートル。葉は柄をもち長さ三~七センチメートルの長卵形で縁に不規則な鋸歯がある。春、新しい短い側枝の先端に黄金色で径四センチメートル内外の五弁花を一個ずつ開く。果実は扁球形で約五ミリメートルぐらい。茎には白い髄があり、子どもが玩具の鉄砲の玉などに使った。八重咲きで果実のできないヤエヤマブキ、白花のシロバナヤマブキなどの品種がある。漢名、棣棠・棣棠花。」

 その黄色い花は、花言葉が示すやうに「気品」あるものであり、その色は「山吹色」とも言はれます。『万葉集』にもたびたび詠まれ、後には蛙(かはづ)と合はせて歌に詠まれるやうになりました。東京都の檜原村や、埼玉県の川越市、岩槻区。茨城県の常陸太田市や大阪府の島本町などで市区町村の花にされ、現代人にも愛される花です。
 辞典の中にもあるやうに、山吹の芯を使つた玩具の鉄砲がありました。私が幼少の頃にもまだありました。年配の読者の方なら、懐かしく感じるかも知れませんね。
 また、タナゴなどの小物釣りに使ふウキにも山吹の芯が用ゐられます。

三、太田道灌と山吹

 また、山吹といへば太田道灌の逸話がよく知られてゐませう。彼は、才気あふれる幼少期を過ごし、武勇と教養に長けた人物で知られてゐます。
 『常山紀談』によると、道灌はある日、鷹狩に出掛けました。この時、にはか雨に遭ひ、ある農家に蓑を借りようとしました。そこで出てきた一人の女性は、道灌に一枝の山吹を差し出しました。彼女の意図するところがわからなかつた道灌は、結局蓑を借りられず腹を立てながら帰りました。後にこのことをある家臣に話したところ、それは兼明親王の御歌、

 七重八重 花は咲けども 山吹の 実の一つだに なきぞ悲しき (『後拾遺和歌集』)

に掛けて、山の中の茅葺きの貧しい家で、蓑(実の)一つさへ持つてゐないことを雅にこたへられたのだといひます。
 道灌は古歌を知らなかつたことを恥入り、その後、ますます歌道に励みんだといふことです。
 この山吹にちなむこのお話しですが、その舞台になつた地はどこと定め難く、豊島区のあたりや荒川区の三河島あたりなどがさういはれてゐます。なほ、日暮里駅の駅前には、彼の像と、山吹を差し出すをとめの姿の像が立つてゐます。

四、万葉と山吹

 道灌の故事は多くの人の知ることでせう。では、さらに遡つて『万葉集』の時代はどうでせう。もちろん、万葉のいにしへも山吹は愛されました。

 花咲きて 実は成らずとも 長き日(け)に 思ほゆるかも 山吹の花 (巻十・一八六〇)
 (花は咲いて、実はならないとしても、早くから日々待ち遠しく思はれるものです。山吹の花よ)

 この歌からもわかるのですが、「実はならず」といふところが恋愛が成就しないといふことの比喩に用ゐられました。
 次の歌も成就しない恋の歌です。

 かくしあらば 何か植ゑけむ 山吹の やむ時もなく 恋ふらく思へば (巻十・一九〇七)
 (こんなになるならば植ゑなければよかつたよ、山吹の花のやうにやむ時もなく恋ひしいことを思ふと)

 この歌の場合は、山吹の「やま」と、やむ時の「やむ」とが続くかたちになつてゐます。

 では次の歌も見てみませう。

 山吹の にほへる妹が はねづ色の 赤裳の姿 夢に見えつつ (巻十一・二七八六)
 (山吹の花のやうに美しい妻の、はねづ色の赤裳を着た姿が夢に見えて…)

 男性の立場から詠んだ歌です。妻、または恋人を「山吹のにほへる妹」と表現してゐます。美しく、小さな可愛い子なのでせう。

 続いて、次の歌。

 かはづ鳴く 甘南備川に 影見えて 今か咲くらむ 山吹の花 (巻八・一四三五)
 (蛙の鳴く甘南備川に影をうつして、今は咲いてゐるでせうか、山吹の花は)

 見事な歌です。鋭い読者の方なら察していただけたでせう。この歌がきつかけになり、山吹とかはづは合はせて詠むやうになつたのでした。歌中の甘南備川ですが、どこと定め難いところがあります。飛鳥川といふ説もありますが、如何でせう。
 作者は厚見王、謎の多い方で、舎人親王の御子とされる系図があります。奈良時代の方で、『万葉集』には冒頭に挙げた歌をはじめ、三首の歌を残しました。
 余談ですが、この歌を本歌として、紀貫之は次の有名な歌を作りました。

 逢坂の 関の清水の 影見えて 今や引くらむ 望月の駒

 最後に次の歌を見てみませう。高市皇子によつて作られた御歌です。

 山吹の 立ちよそひたる 山清水 汲みに行かめど 道の知らなく (巻二・一五八)
 (山吹の咲く山清水を汲みたいと思ふが、どう行けばよいか道がわからない)

 高市皇子は、天武天皇の皇子で壬申の乱の際に活躍されました。御父の天武天皇を補佐したまひ、太政大臣の位にのぼりました。
 この御歌は、十市皇女が薨じられた時に作られた三首の挽歌の三首目になります。「山吹」に黄泉の国の黄を、「山清水」に泉を匂はすといふ説もあれば、「山清水」を伝説上の生命復活の泉と見る説もあります。結局のところ、どれが本当の意味なのかはわかりませんし、謎の多い御歌ですが、その調べの哀しみの深さや、不思議なもの悲しさは『万葉集』中、屈指の名歌の一つといつて良いでせう。
 なほ、高市皇子が薨じられた際には、柿本人麻呂によつて壮大な挽歌が詠まれたのでした。

 さて、京都の松尾大社といへば山吹の名所として知られてゐます。その小さく、美しく咲く姿は、見る人の心をやはらげ、日ごろの疲れを癒してくれるでせう。
 この小文が皆さまの御目に触れるのは、いはゆるゴールデンウィークのころかも知れません。もし、旅先で黄色い可憐な花が咲いてゐるのに注意してみてはいかがでせうか。かはゆき花に、きつと心をうばはれることでせう。


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