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効率化の果てに「仕上がる」危険とその打開法

何か一つの勉強ができる程度では個性にはならないが、自分で複数分野を選んで学べば、その組み合わせが個性となり君を助ける、これは差別化や無個性に悩む人にとっての救いであるとハカセは前の記事で示してくれた。

「何を勉強するか」「どのように勉強するか」「勉強したものをどう組み合わせるか」そこには無限に「個性」の発生する余地があります。
(中略 )
「習得すること自体はそれほど高難度でもない知識・技能」を選択的に会得して、「ローカルなフィールドを上手に選んで進出する」

https://note.com/0ur0b0r0s/n/n11329ad78762?magazine_key=m974ee7671e56

この記事でハカセは「自分の物語を始める第一歩」のさらにその前段階を書いてくれた。これでみんなが物語を歩み始める。めでたしめでたし。。。

本当に?

始まりがあるものには全て終わりがある。(*1)
だから、今日は物語の終わりについて話そうと思う。

(*1: Matrix Revolutionのキャッチコピー)

解像度を上げるというやり込み要素

勉強をすると万物の解像度が上がる。

教養とか知識って、それが有効活用出来る瞬間の気持ちよさに比べたら、人にそれをひけらかす快楽なんて微塵もないんですよね。マウンティングする時間も労力も勿体ないんですよ。

だって想像して見てください。月のクレーターまで見える望遠鏡を手に入れたら、おなじ望遠鏡を持つ者たちと月の話で盛り上がった方が楽しいでしょ。公園の鳩とか上野公園の猿に「私はクレーター見えるで!君は見えないやろ」って自慢しないでしょ。

どんな小さなことでも、何か一つ学べば、近眼の者が眼鏡を初めてかけたかのように、世界の解像度がグッと上がる。たとえば今まで「路傍の草」だったのが、ヨモギ、キク科で秋に花をつける多年草、餅や水中眼鏡の曇り止めなどに使える、と自分がアクセスできる情報がだんだん増えてくる。

するといままでは背景に過ぎず、スルーするしかなかったものに新たに「使う」という選択肢がポップアップするようになる。ゲームのやりこみ要素が現実にも実装されてる。それが嬉しくて、他のことも学ぼうとする。

この学習ループの快楽は中々に強くて、ともすれば知識や技能に対する報酬や昇給という即物的な喜びより自分の選択肢が増える事が気持ち良かったりさえする。

世界は宴席、万物は目の前に置かれた大皿料理、そして知識や技能はカトラリーだ。眼の前に蟹がサーブされた時、蟹身をホジる銀色のやつが手元にあれば、箸やフォークしかない時よりも、楽にカニを味わう事ができる。もちろんなくても蟹は食えるだろうけど、めんどくさくて、楽しさも半減する。

100年足らずの制限時間の食べ放題に来て、そして好奇心という胃袋は貪欲だなら、そりゃあ上手にカトラリーを使いこなした方が楽しく多く世界を味わい尽くす事ができる。

知識がたどり着く場所

このように、知識は世界の解像度を上げる。一方で前の記事でハカセは知識や技能を選択的に会得して、適したフィールドに進出する有用性を説いた。

「素手の殴り合いで1億人の頂点に立つ」ことの難しさと比べて、「100人に1人くらいの人が扱える武器を4種類習得する」方が圧倒的に実現しやすい

つまり、自分が進出した(時には創出した)狭いフィールドの中では水を得た魚のように動けるだろう。そして知識や技能に経験が組み合わさり、解像度はどんどん上がっていく。その先にあるのは何か。

無限遠が見えてしまうことだ。

年齢とともに知識や経験は伸びるから、経験と共に見えない景色が見えるようになる楽しさはある。それは海沿いの道を走っていて海が見えたときめきに近い。地図を見ながらトンネルを抜ければ海が見えるとわかっていて、トンネルを出た時のようなものだ。もちろん景色はいい。だが、海が見えることは地図を見た時点で予測できていた。いわば自分の可能性が収束した状態だ。

もちろん何も見えてないよりはいい景色なのはいいだろう。でも俗にいう「人生上がり」とか「仕上がる」を自嘲的な意味で使ってる人は、収束してしまった将来を自嘲しており、その収束地点の高低はさほど問題視していないんだ。

仕上がることの翳り

比喩から話を戻そう。解像度が十分に高くなり、成長が頭打ちに近づいていく。一方で、その時点で十分にその道を極めているから、投下した時間や努力は成長に消費されずそっくりそのままリターンとして帰ってくる。成果なり金銭なり名声なりの形で。

これは一見すると最大効率に見えるかもしれない。そして残念なことに、投下した時間と得られる対価に差が生じる時、人はそこにやりがいを見出してしまう。こんなに報酬が少ない行為をやってるのは、この行為が楽しいからだ、と脳に言い聞かせている。でも十分に力を持ち、投下した時間分だけの対価をきっちり手に入れられるようになったら、その工程にやりがいを見つけるのは至難のわざだ。

皮肉なことに、搾取という非人間的な扱いから逃れるために時間対効果の最大効率を達成した途端、単に時間を成果物に変換するだけのマシーンになってしまう。そこにはなんの理念も未来も生えていない、のっぺりした最大効率の砂漠しかない

もちろん、真の意味では誰も最大効率を達成できてるわけではない。まだあと0.001%くらいは効率化できる余地があるかもしれない。でも、試行錯誤したり再チャレンジしてそれを追い求めるには、十分に豊かになりすぎてしまったし、それを追うほどの飢えや渇きは忘れてしまっている。

十分見通しが立ち、現状維持のメリットがリスクを伴う前進のコストより大きくなった瞬間、人は「仕上が」ってしまい、試行錯誤しながら成長を目指すという物語は終わりを迎えてしまう。

仕上がったAIの解決策に学ぶ

もちろん仕上がる事は悪い事じゃないし、自分が始めた事はどこかで終わりにするのも道理だろう。だが、その結末に納得できないとしたら?

自分がやってきた事や、自分が目指してきた事は、右から左へ効率的に成果を生み続けるマシーンになる事か?

もしそれに即断で首肯できないとしたら?
おめでとう、久々にやる事リストに1つのタスクが生まれたことになる。「自分が今までやってきた事を袋小路から救ってやる」というタスクだ。世界を救うのでもなければ自分を救うのでもない。

じゃあどうやって?何事も先達に聞くのが一番だ。人類より後に生まれ、人類より先にこの問題に遭遇した、AIだ。

競馬の賭けを最大化する課題を与えられ、試行錯誤を続けたAIは最終的に賭けの効率を最大化した。「何もしない」という答えに辿り着いたのだ。何もこれは極端な例ではない。別の演算タスクを与えられたAIの目標は演算時の消費リソース(メモリや電力)を最小化する課題を与えられた。これもちゃんと答えに辿り着いた。「何もしない」という消費リソースの最適化だ。

AIは効率を求め、時として思いもよらない解決策?を実行する。仕上がった人間の行き着くところはもう少し豊かなところではあるが、最大効率を達成し、それ以後静的な世界の中に閉じ込められてしまっていることは共通している。こういった時、AIの場合はあえて具体的な目標を与えず1つの漠然とした目標を与えるとうまくいくことがある。「好奇心」だ。

何かを予測し、次に起きたことが予測できなかった場合、それが報酬となる。こうやって「好奇心」を実装することで、停止状態や代わり映えのない繰り返しを避け、常に先へ先へと動き続ける強い動機付けになる。

どうだろう。驚くほど人間に似てはいないかい。もちろん人間は後天的に好奇心を実装することは難しいが、誰しもが多かれ少なかれ好奇心がある。そして、少なくとも一度は無限遠を見るほどにまで何かに習熟できた人間の好奇心は強い。となると、ここにヒントがありそうだ。

物語は終わらない

勉強は世界を楽しむための道具だと最初に言った。でも道具にすぎないものの手入れをするうちに、その手入れ自体が楽しくなってくるというのはよくあることだ。

キッチンひとつとってもシンクや水回りをピカピカに磨いたり、包丁を砥いだりする行為は、料理をするための道具の手入れに過ぎないが、時としてそれが一つの目的になることすらある。そういった手入れが時として、心安らぐ祈りになるのと同じように、勉強は人によっては祈りに近い事もある。

「哲学者とは皆が平然と水面に浮かんでいる時に、必死で水面に浮かぼうと溺れながらもがいている人のことだ」という話を聞いた事がある。皆が当たり前だと考えている事柄に、必死で理由や答えを求めずにはいられない人たちという意味だ。

勉強は世界を楽しむための手段という側面もあれば、同時に個性を求めての救い、考えずにはいられない疑問を解くための祈りという面を持ち合わせる。この祈りや救いという性質が、無限遠を見てしまった時のブレークスルーになる。

「習得すること自体はそれほど高難度でもない知識・技能」を選択的に会得して、「ローカルなフィールドを上手に選んで進出する」ことで個性を獲得し、新たな一歩を踏み出したのが始まりだったなら、また同じことをすればいい。

つまり、今手持ちの知識や技能に組み合わせられそうな別の分野の知識(隣接していても全く別の分野でもいい)を新たに習得すれば、今自分がいる地平を全く新しいフィールドに作り替えてしまうことができる。多少それにはセンスがいるかもしれないし、いつもうまくいくわけではない。でも、完全に効率的なのっぺりした毎日よりはずっと救われる毎日であることは確かだ。

なんせ、学ぶのは一度きりであることはない。いくつ組み合わせてもいいし、あとで学び直してもいい。

「物語は終わらない。反復され、ストーリーや顔を変えて絶え間なく繰り返される」

Matrix Resurrection

参考文献

今回言及したAIのエピソードはおバカな答えもAI(あい)してる~人工知能はどうやって学習しているのか?~から引用しています。AIの概説から何が得意で何が不得意かがわかりやすく書いてある本ですけど、そんなことより失敗例としての、AIが生成した不穏なレシピや、街中にキリンを見出したり、パンケーキをソイヤッッ!って全力遠投するAIの面白挙動でめっちゃ笑った。


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