昼休みは楽しく

レバーを下げると、流れ出す水と共に色とりどりの惣菜たちが巻き込まれていった。艶やかな赤色のプチトマト、硬めによく焼かれた卵焼き。口に入れれば、それはいつものようにだしと醤油の絶妙の味わいが口を満たすはずなのに。私は空のお弁当箱を手に、冷めた眼差しでそれらを見送った。キッチンに立つ母の姿がよぎり、頭を抱えたくなる。心の底にじわじわと滲みてくる罪悪感には触れないようにしなければならなかった。そうしなければもう、私は崩れて動けなくなってしまいそうで。

 あれは高校2年生のときの出来事で、始まりは部活動の友人とのトラブルだった。活動量の多い運動部に属していた私は、毎日仲間と練習に明け暮れた。3年生の夏の引退に向けて、2年生の責任は重くなり誰もがレギュラーを目指し競い合っている時でもあった。そんな中、私は運よくコーチに目をかけられ次の大会に出ることが決まった。元々一年生の頃の伸び悩んでいたこともあって、私は同期からの評価が低かった。急に選抜されたことは、平和だったはずの仲に小さな綻びを生んだ。疑惑は嫉妬に変わり、そのうち同期の一人が私をひどく責め立てた。

「瑠花ってさ、いつもヘラヘラ笑って正直コーチに媚び売ってるよね」

コーチは私の努力と成長に期待をかけたが、私と誰よりも仲の良かった彼女は私から離れていった。結果的に気の強い彼女に同調した人は多く、私は「贔屓されている」と噂され簡単に居場所がなくなった。部活動に全てを捧げていた私は同期の他に友達もなく、学校にいくことが辛くなっていった。朝起きれば体が泥のような気がしたし、駅までの道で何度も立ち止まった。電車に乗れば腹痛で途中下車し、見知らぬの人の視線すらも恐れて俯いた。あの時私は壊れてしまっていたと思う。今思えば相手も自分も若さゆえの些細なことですれ違って、互いを傷つけていた。でも当時の私にとってはあの学校という世界が全てで、その狭さに気づくことができなかった。
 お弁当を捨てたのは母に心配をかけまいと思う気持ちだった。学校に行きたくないと言う私を母は甘えだと諭した。母は毎日お弁当を作り、励ませば私が前を向くと思っていた。私は母の愛を感じるが故に、母に頼ることができなかった。恨んだことはない。ただ私が母とは違うもっと弱い人間であること、期待されるほど上手に、普通に生きていけないことに苦悩した。空腹など感じない昼休み。曖昧に外を眺めて、残したお弁当を母がどんな目で見るか考えた。拒絶する体を前に私はそれをトイレに流してしまうことしか思いつかなかった。

 今私がそんな過去の思い出を語るのは、もうこれきりで忘れてしまうためだ。実のところ、これを始めとした人間関係のトラブルは私の中で今でも忘れられないほど長く引きずっている。最後までとても楽しいことばかりの高校生活とはいえなかった。忘れてしまえないのは、多分当時の私の苦しみを許してやれないからだと思う。本当は誰かに話したくて、「弱くても大丈夫」と言ってもらいたくて。何年もあのときの自分が苦しみ続けている、誰にも救われずに。
 でも最近私はやっと「弱くても生きていていいよ」と自分自身に伝えられるようになってきた。ちょっとずつ、自分にも他人にも心を開いて進み続けている。こうして振り返って文字にしてしまえば、もう過去を切り離して前を向けるような気がした。

 どこかでこれを読んでいる人の中に、私と同じような人がいるかもしれないと思う。こんなインターネットの片隅で傲慢かもしれないが、私自身のために書かせて欲しい。あなたがもし一人で、声を出せずにいたとしても。自分さえも信用できない敵だったとしても。悩み、考えているだけで進むことができている。いつかきっと許すことができる日が来る。昔の私がこれを読んでもこんな駄文、と一蹴するかもしれないけど。大丈夫、大丈夫、大丈夫。


 


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