キャンセルカルチャー、人権、陰翳

以下、👇の本を読んで考えたことである。

 まず、ジャニー喜多川のキャンセルや、松本人志のキャンセルは、アメリカの民主党界隈が主導するキャンセルカルチャーの猿真似に過ぎない、ということだ。つまり極めて政治的で、軽薄な、一過性の流行、左翼的政治運動にすぎない。
 もちろん、他文化を取り入れることが悪い、など言えるわけがない。実際、わが国の文化はそのようにして発展してきたのだ。
 しかし、取り入れる際には、他文化の「本質、根本」を理解しなければならない。そのうえで、彼我の違いに自覚的でなければならない
他文化を尊重するのと同様に、自文化も尊重しなければならない
 つまり、今回の件にかんしては、アメリカがどのような国なのか、キリスト教的価値観とはどのようなものなのか、そして自文化はどのような歴史を積み重ねてきたのか、を前提知識として持った上で語らねばならない。
 これらの態度を怠っているから、他文化の「一過性の流行」まで取り入れてしまうのだろう。

 そして、我々は「人権」という概念を再度疑わねばならない。我々が一般的に「人権」としているのは、キリスト教国家の「人権」にすぎないのではないか?と。
 文化が異なれば「人権」・・・いや、ここは意味の良く分からない翻訳語ではなく、”human right”と言うべきだ。文化が異なれば"human right"も異なるのだ。なぜなら、"right"は「道徳的正しさ」「道理」「通義」の意味合いを持つのだから。これらの意味合いを考慮すれば、何が"right"かを決めるものは、歴史感覚に裏打ちされた「常識」"common sense"ということになるのではないか。他文化の"common sense"を無批判に取り入れて思考停止することは、自文化の"right"を喪失するのでないか。
 
これを「自発的隷従」以外に何と言うのだろう。

 最終章に感銘を受けた。
 陰翳(陰影)を否定し、人間や世の中の闇を明るく照らし出すことが善い、という発想自体が、すでに「借り物」なのだ。最近の世の中への違和感の根本に気付かされた。
 陰影は行間と同様に多くのものを語る。
 陰影があるからこそ光は輝きを増す。
 陰影があるからこそ生み出されるカタルシスがある。
 なのに、全てを光のもとに照らし、全てを言語化し、理解した気になり、陰を消してしまう…文化として深みも面白みもない。
 もちろん、陰影を暗いままにするということが、物事を曖昧に穏便に済ますことを善しとし、その結果のど元過ぎれば熱さを忘れてしまう性質と結びつくのではないか、と言われれば、それはそうなのだ。コロナ対策禍では、それを嫌というほど味わった。
 しかし、事は全て是々非々で判断すべきだ。その陰影が、暗いままの方がいい陰影なのか、明るくした方がいい陰影なのか、は「常識」"common sense"で判断したらよい。自文化における「正しさ」や「道理」"right"で判断すればよい。
 そして、最近の「陰影の否定」を「つまらない」と感じるのは、おそらく日本人だけではない、とも思う。

 ちなみに、私にとっては「陰影」といえば「必殺シリーズ(特に前期)」だ。
 たまたま見つけた👇のポストが秀逸だったので引用させていただいた。

いやあ、カッコよすぎて痺れるわ~
そもそも「必殺シリーズ(特に前期)」の底流に「陰影」がある、と言ってもいいような気がする。

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