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『進撃の巨人』のアニメ最終話なので、いろいろ感情にまかせて書く

最終回の前に

明日11/4(土)、アニメ『進撃の巨人』最終話が放送されます。

原作の最終話のときもしみじみしたんですが、アニメも終わっちゃったらもう本当に最後なんだな〜と。
寂しいですね。

※この後、『進撃の巨人』のネタバレが出てきますので、『進撃』にまっさらでいたい方は引き返すよう、お願いします(ぺこり)。
また、ヲタにありがちな、まとめずにだらだら長く書く文章なので、付き合いきれない場合は途中で離脱してください。

『進撃の巨人』て、すごい作品だったと思うんですよね。
そもそもの設定もすごいし。
差別や偏見や迫害といった人の業を、「嫌悪なく読める形」で描いたのもすごいと思います。
世界観もキャラクターもすごい個性あふれてるし。
世界観やキャラクターの個性を決めているもののひとつが「キャラクターの話し言葉」だと思うんですけど、この諌山先生の言葉のチョイスがもう、諌山先生唯一のものなんですよねー。その言葉の数々がどれもこれもしびれる。
この作品が登場した後、少年マンガにおけるグロ表現は一段上にあがったと思います(私が読んでる狭い範囲だけかもしれませんが…)。

マーレ編以降の展開は、主人公が登場しない回が長くあったりして、離脱してしまった方もかなりいるように思います。
でも私はマーレ編以降こそが、『進撃の巨人』を他の漫画と一線を画す最大のポイントだと思うんですよね。

特に印象的だったのが、ガビとカヤの森での会話。
今を生きる者に、過去に生きた者の過ちに対する責任があるのか。
もうね〜、この会話すごいですよね。この問いに答えられます⁈



…と、ここまで書いて、スマホの電源が落ちちゃったものですから、明日も何も、私は最終回を見てしまいました。
ここからは最終回の感想など、思いついたまま書きたいままに書いていきます。

一番最初のアニメのキービジュアルですよね。懐かしすぎて泣く。

最終回を見たあとで

最初から最後まで泣きながら見てました。
なんかもうね…原作読んでるから展開もわかってるんだけどね…。

エレンの背で戦ってるのを見て、足の裏に汗かきましたね、アニメの作画と動きがすごすぎて。立体起動装置で飛び回るシーンはアニメ進撃の真骨頂ですね。最後まで迫力がありました。

アニメはSeason3までWITSTUDIOさんの制作だったのですが、FinalSeasonからMAPPAさんに引き継がれたんですよね。どの制作会社もNGなところ、MAPPAさんが手を挙げてくださったという経緯があります。もしMAPPAさんが担当してくださらなかったらアニメは完結までいかなかったかもしれないわけで…。MAPPAさん、本当にありがとうございます!!

やはり書いておかなければならないのは、ラスト付近のアニオリ部分なんですが。アニオリ…というか、諌山先生自身がアニメ用にネームを描きおろされているのですよね。

正直に言いますと、地ならしの部分はこの世界情勢でそのままアニメ化できるんだろうかと心配していました。原作終了時と今とでは全く違うので。
エレンがしたことをどう解釈してゆくか、原作はその辺はあまりガチガチに語ってないんですよね。読んだ人にその先はゆだねる、という自由度が『進撃』にはありますが、このラストに関しての修正は、世界情勢も鑑みて、もう少し諌山先生の思いを明確にしたいということだったのかな、と思いました。
というのは、このアニオリは原作の延長線上にある、原作の解像度がよりあがる描写だと思ったからです。

エレンがアルミンを連れて歩いた世界は、アルミンがエレンに伝えた「壁の向こうの世界」でした。
原作では、その場所は巨人が地ならしをした荒涼とした大地でした。アニメでは轍に血がたまり、底をさらうと手に髪がまとわりつくという地獄。

仲間たちを守るためには、ミカサに何かの選択をさせるためには、人類の8割を殺す選択しかない。でも虐殺は許されることではない。
なぜエレンは地ならしを決行したのか。
「やりたかった」
なぜかわからないけど、やりたかった。

エレンは自由を求めていましたが、それは「誰も見たことのない世界が目の前に広がる自由」でした。
エレンが求めたのは自分を束縛するもののない世界だったのに、世界の果ての海の向こうには結局人がいた。エレンがラムジーに言った「アルミンの本で見た世界と違っていた、壁の外で人類が生きてると知ってがっかりした」というのは、「海の向こうにも敵がいたからがっかりした」じゃなくて、「誰も見たことのない世界じゃなかったからがっかりした」、そういうことだと思うんです。

「みんないなくなってしまえばいい」、アルミンが言うように、これは誰でも一度は思ったことがあるかもしれない。
でも「誰も自分を束縛することのない世界へ行く」というのは「自由」である反面、自分の大切な人さえいない世界でもあるんですよね。人が人と一緒にいるということは、隣にいるのが大好きな人だったとしても、その存在は自分の行動にわずかでも制限をもらたすことになりますから。
(そもそも、自分が求める景色の中に自分が気に入った人だけがいる世界はどこかいびつよね)
それがわかっているから、人は完全な自由をあきらめて、社会と折り合いをつけながら生きてゆきます。

エレンは「自分がバカだから」と言いました。悪いこととわかっていてもやってしまう。始祖ユミルが豚を逃がしたのも、同じことだったのかもしれません。エレンはバカだから、虐殺とわかっていても、自分を束縛するものを壊し自由を求める自分を止められなかった。折り合いなんてつけられない。自分の足元が血の海になるとわかっていたとしても。
エレンが地ならしをして真っ青な海と空を見たとき、その姿は子どもでした。後先のことを考えない、素のエレン。振り返ってアルミンを呼んだとき、アルミンはすこしばかり大人になっていた。

ただ、この「バカだから」はそれだけではなくて、バカだから、みんなを守るために地ならし以外の方法にたどりつけなかった、という意味もあるんじゃないかと思いましたね。普通の男の子であるエレンが、巨人を操る大きな力を持っていたとしても、差別や迫害に対する絶対的な解決方法を持っているわけじゃない。

原作ではアルミンがエレンに「ありがとう」と言ってこの場面は終わります。アルミンが、自分たちを守るためにエレンが地ならししたことを感謝するわけがないんですよね。でも、そこまでしたエレンを罵倒して見送ることは、アルミンにはできなかったんじゃないかと、原作を読んだとき思いました。

アニメでは「エレンに夢を見せたのは自分だ」と言って、「バカの罪と後始末」を背負う覚悟をします。エレンの罪を一緒に償なう。それはある意味、死んでゆくエレンが味わった地獄とはまた違う地獄を、残されるアルミンが味わうことになるんですよね。
今までのアルミンの立ち位置は、アルミンがそれを希望したわけでなく、他の人から何かを託されたところがスタートでした。エレンに、エルヴィンに、リヴァイに、ハンジさんに託されてその場にいることになりました。でも、この戦いの後にあるアルミンの立ち位置は、アルミン自身が選択したもの。「自分で自分の背中を押した奴は、進んだ地獄の先にあるものを見ている」、このエレンの言葉がアルミンにつながってると思うと涙。
エレンは血だまりで髪を掴み、アルミンは、海を見る夢がかなった象徴である貝殻を掴みました。地獄の先に、アルミンは「かなった夢」を見るのでしょう。

エレンとアルミンの気持ちを補足する、いいアニオリだったと思いますね。

この二人の別れは、二人が幼馴染であること強く思い出すし、エレンがミカサに対してかっこつけてるのをアルミンだけが知ってるということも、ミカサが「また二人だけでわからない話をしている」の延長なんですよね。
エレンもさ…ミカサにきちんと言ってあげればいいと思うんですけど…まあ…。



アニオリは他にもあって、戦いの後の生き残った人々の描写が増えました。

特に兵長の描写はなんかこう…良かったですね。
原作の、ガビとファルコが兵長の車椅子を押す画も良かったけど、キャンプ地で子どもたちにアメちゃんを配る兵長もまた良き。
「俺たちが夢見た巨人のいない世界は呆れるほどおめでたい理想の世界」とは、兵長が子どもたちにアメを配る世界だったという。兵長の後ろで、調査兵団の仲間たちがあきれながら笑いながら様子を見てるんだろうと思うと(涙)。ぺろぺろキャンディーを見て、兵長もたぶん思い出したであろうピエロ。あの旅は、兵長にとっても特別なものだったんだろうなと…。

ヒストリアの手紙も改変されてましたね。
エレンのやったことは「解決」ではなくて、人類の8割が殺されたとしても、巨人化する能力がなくなったとしても、争いはなくならなくて、でも今の姿は「自分たちの選択がもたらした結果」とはっきり言ってましたね。
当時者として生きるヒストリア。
ガビとカヤの「今生きてる人は過去の人たちの過ちに責任を取らなくてはいけないのか」という問いの、ひとつの答えだと思いますね。

ミカサの生涯も、良かったですね…。
エレンが去ってから何年か経ってからミカサが結婚したような描写が追加されてましたね。エレンが希望した通り(?)になったね…。
ミカサのお葬式であろうシーンで、マフラーを巻いている姿はつまり、ミカサのその後を支えた人が、ミカサの心にいるエレンごと受け入れたってことなんですよ。
ジャーーーーーーーーーーン!!!!!(泣)



アニメが終わってしまうと、本当に『進撃の巨人』は終わってしまったんだなあと、やっぱり寂しいですね。原作のENDのときは「まだアニメあるし」って上げ方向に思うこともできましたけど、それもおしまい。

私は原作最終巻を読んだあと、商業展開される『進撃』関連の楽しいイラストやコラボ企画が楽しめなくてですね…。それはやはり、エレンの地ならしを考えると、エレンがみんなとそこにいることに違和感を感じたからなんですね。エレンは主人公だから中心に描かれるんだけれども、エレンはみんなと一緒にそこにはいないんじゃないかと思ってたんです。

でも、アニメ版を見て、エレンはそこにいるって感じることができましたね。エレンとアルミンとミカサはずっと一緒なんだって思えることができました。そういう自分の気持ちの変化がうれしかったですね。

あと、これはメタ目線になるんだけど。
↑でも書きましたけど、「この世からみんないなくなっちまえ」って、誰もが一度は思ったことがあるかもしれない。
でもそれはできないし、仮にできたとしても、そのあとの世界には後悔しかないこともわかってる。
私は「全部消えてなくなれ」って思うとき、エレンを思い出すんですよ。
私ができないことをエレンがやってくれた。エレンがまっさらにしてくれたから、自分がやらなくてもいいよね、って思うんです。
ありがとう、エレン。

諌山先生、アニメスタッフの皆さん、キャストの皆さん、すばらしい作品をありがとうございました。楽しい10年間でした。

小学生だったニコが描いて、母にプレゼントしてくれたミカサ。「いい人生だった…」のシーンですね。10年経つんだもん、あの頃の小学生も今は成人です。


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