について知っている二三のことがら

佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第10回:詩と小説のかかわりについて私が知っている二、三の事柄

借り物感いっぱいの見出しで恐縮です。困っています。

テーマをいただいて文章を書く場合、依頼文に目を通した段階で、雲状にもわもわしていてもその核のありどころくらいは見えてくるものです。ところが今回はいつまでたってももわもわのままです。なぜか?

依頼文がかつてなく十全で、それ以上のなにかをなかなか述べられそうにないようなのです。

そんな依頼文を本誌読者に見せないのはもったいない。

そこで、依頼文を書き写しつつ、その文につけ足したり、脇に逸れたりと、記憶を掘ってみることにします。なかば対話ですからナチュラルにですます調で。

対話と考えると詩的理念でない話、実例紹介や自己言及になりそうですが、なりゆき上、おゆるしください。

■ではじまるゴシック体の文章が、依頼文の引用部分。人名は敬称略です。

さて次号では「詩の中の小説、小説の中の詩」と題して、詩と小説の間の、因縁深く愛憎半ばする関係をテーマに特集を組むことになりました。

因縁深く愛憎半ば? そんな関係が、ほんとうに?

早くも躓きましたが、思い当たることがないでもない。

あらゆる辞典に歌人で詩人と書かれている石川啄木がいかに小説家と呼ばれたがっていたか、諸文献を読むと胸が痛くなります。人気歌人なのに、自己認識では「でもしか歌人」だったらしい。小説あるいは小説家という立場のどこがそんなに好ましかったのでしょう。謎。

小説といえば、私が短歌の新人賞をいただいたとき、新聞記者の方が「次は小説ですね」となにげなくおっしゃったことが気にかかっていました。「次は」のところが。

短歌と小説は、大学に受かったから次は就職というような関係ではないはずなのに。短歌がふびんになりました。

別方面から「あなたは詩が書けるのだから、短歌なんかやらなくても」という反応もあったりして、むしろ自分は短歌と添い遂げようと、当時思いなしました。

そんなころ、あるベテラン歌人が「小説はしょせん『小』説にすぎない」と、中国の古典でいう「大説」との対比に拠った発言をされていたのも目に止まりました。

詩歌作家は小説作家より「芸術やってる意識」を高めに保たざるをえない局面が多いのかもしれません。その件について語るには、芸術とはなにかを定義しなくてはならないので、深追いしませんが。芸術のカテゴリー自体、時代ごとに変わるものですし。

詩歌関係者としてのプライドを刺激されながらも、私自身が短歌に関心をもったきっかけは実はたんに「まわりに歌人が多かった」からで(短歌にのめり込んだのは特定の歌人に魅かれたからですが)、同様に「まわりに小説書かないかと言ってくれた人がいた」から、短い小説もたまに書くようになりました。ポリシーありません。

オーダーも、あまりありません。あまり巧くないということでしょう。自分にとって小説はいま、内発的に手がけるジャンルというより、文体練習のツールのようです。

これって愛憎でしょうか?

一般に詩と小説との関係は、古さと新しさ、短さと長さ、真実と虚構、韻文と散文といった対立概念によって捉えられがちですが、創作の現場において、その関係は複雑に入り組んでいます。そしてそれぞれの表現形式がさらに新しい可能性を追求するにつれて、境界線は絶え間なく更新され、重なり合ってゆくようです。

詩と小説の関係は右の文章に言い尽くされていて、あえてつけ加えるならなにを? と迷うのですが、これら対立概念のうちもっとも腑分けされたがるのは「韻文と散文」の点だと思うので、そのあたりを。

これ、対立概念なのでしょうか。まあ、そうですが。

詩歌の実作に際しては、「韻文なのだから言いたいことや状況をすべて説明せず余韻を残すように」という助言がもれなくついてきます。国語の教科書にはかならず「余韻を味わおう」と書いてあります。詩歌において「散文的」という評言は、多くの場合、批判です。

もちろん「散文脈を活かしている」等、散文を修辞や技法の一種と見なす発言もありますが、では散文脈ならぬ散文そのものなら余韻はいらないのか。そんなことはない。少なくとも小説やエッセイでは(評論については保留します。これは、思わせぶりではいけない)。

散文における余韻の要素は、本稿で言及を求められている「小説の中の詩」に該当するでしょう。余韻の効果的な小説には、詩情あふれる、といった惹句がつきがちです。

やっとひとつ、答えめいたものが出ました。

ただ「小説の中の詩」を「散文の中の韻文」と言い換えられる気は、しません。「小説・詩」は作品の内容を、「散文・韻文」は形式を示す語で、位相が異なるからです。

……ならば、これらの対立や包摂の関係をほどこうとするより、これらのあいだに存在するはずの共通項を、ぼやっと眺めることにしましょうか。

谷川俊太郎詩集『トロムソコラージュ』のあとがきに、「子どものころから長い物語にあまり魅力を感じなかった。(中略)記憶するということが苦手で、自分を時間的な文脈よりも、空間的な文脈でとらえるほうが楽」とあります。

わかる。詩も「長い物語」も書く人は、時間脈と空間脈の2チャンネルがともに活発に機能している人なのでしょう(「長い物語詩」のことは、別の機会に)。

あとがき、続き。「小説も誘われるままに書こうとしたことはあるが、自分には向かないことが分かるまでに時間はかからなかった。(中略)だが、人は詩だけで生きているわけではない。歴史に連なる自分の物語を意識せずに、人生を送ることは出来ない」。

小説と物語はここで、けっこう同一視されています。物語性とか物語化ということについては、ここ数十年(もっとか)、回避を試みられてもきたはずですが。先鋭的であろうとする詩から、小説から。

そして、詩の人も小説の人も、学者もこのごろは、物語とのつきあい方を細心に、探りなおしているようです。物語に惑わされることなく、物語を活かす方途を。伊藤比呂美による説経節の現代語訳なども、連想します。

詩か小説かという前に、それらに通底する「物語」のあり方をしばらく見ていたい。この段の個人的結論。

ミラン・クンデラの『生は彼方に』や高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』のように、小説のなかには「詩」や「詩人」を主題とした作品が数多く存在しますが、最近では『ほとんど記憶のない女』で知られるリディア・デイヴィスのように、わずか数行の「小説」を書く作家も登場し、詩と見分けることがほとんど不可能な小説も見受けられます。

そうですね。前者で私がぱっと思いついたのは安部公房「詩人の生涯」、三島由紀夫「詩を書く少年」ですが、ここでは立ち入らないでおきます。

後者として、超短編(micro story)というジャンル。ちくま文庫で本間祐編『超短編アンソロジー』というのが出ています。マザーグースあり日本書紀あり、カフカやビアスやルナールや、近現代の邦人作家では稲垣足穂、辻征夫、桂枝雀、江坂遊、村上春樹、高階杞一、寺山修司、吉行理恵、川上弘美など。詩人率高い。

編者解説には「超短編は短編小説が短くなったものではない。お話のかたちを持つ文芸のエッセンスだ」とあります。お話というのは、物語と同義にとってよいでしょう。

昨秋の文学フリマで入手した超短編を紹介します。

 海の図書館は数百万冊の蔵書を誇る。これだけの規模でありながら海の中にあるため訪れる者がまれであるのはもったいない限りである。寒天でできた透明な本は繊細で、文字も淡い半透明だ。クラゲ本とも称されるそれらの本は、どれも優雅で美しい。
              タカスギシンタロ「海の図書館」部分
 コンパスを使ってクラゲを正確に描写しなさい。
 この謎に人類は古くから立ち向かってきたが、まだそれを成し遂げた者は居ない。コンパスという器具が、この問題から作られたことも付記しておくべきだろう。たいていの作図に係わる器具はくらげの曲線のためにある。
              松本楽志「クラゲ作図法」部分

新作につき全編引用は控えました。興味をもたれた方は『超短編マッチ箱版 空想くらげ図鑑』か作者名で検索してみてください。収録作いずれも五百字ていどまでです。

これら散文の一部からだけでもファンタスティックな「物語」感がたしかに漂い出ています。ごく短いと、いきおいストーリーよりイメージ重視の物語になり、散文詩として読んでも違和感がなくなります。

散文詩の問題。散文詩は散文か、韻文か?

萩原朔太郎の昔から詩人たちが頭を抱えていることに嘴をいれられるとも思えません。西條八十の散文詩「領土」も、北村薫編『謎の部屋 謎のギャラリー』(ちくま文庫)で読めば、超短編とか掌編と呼ばれるものに見えます。

詩か小説かは読書環境により、あるいは読者がどう読みたいかにより、決まることになります。

一方もともと小説の母胎であった詩には、歌物語やバラード、あるいは連歌など「物語性」を引き受ける素地が備わっていますが、近代に散文詩という領域を切り開いてからは、小説的な世界へ逆侵犯を試みるかのような作品も登場しました。行分けの詩においても、いわゆる詩的な題材にあえて背を向け、日常的な散文脈を果敢に取り入れる試みがなされています。

詩か小説か、ではなく物語か非(反)物語かという話ですね。そのほうが前述のとおり現代的な問いに思えます。

内容が日録だけとか追悼だけとかの詩を目にすると「これ、詩?」と戸惑います。それらは「物語性」や「詩的」なるものへの問いなおしになりえているのか?

いったいどこまでが詩でどこからが小説なのか?詩よりも詩的な小説、小説よりも小説素がつまった詩はないものか? 詩から飛び出した小説を小説たらしめている要素とは何なのか? その外堀を固めることによって、詩の本質に迫ることができはしまいか?

この疑問自体がおもしろいレトリックです。詩よりも詩的な小説といえば、ふとピエール・ガスカールの『箱舟』を思い浮かべましたが、「小説素」は……「ポエジー」の対語と思ってよいでしょうか。

いまさらながら、詩とはなにか、小説とはなにか。最近の入門書を見てみました。「詩は謎の種であり、読んだ人はそれをながいあいだこころのなかにしまって発芽をまつ」(渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』講談社現代新書)、「『小説』とは、小説の素になるもののことです」(高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』岩波新書)。

どちらも同じ側面にふれているような。

ポエジーと小説素はどちらも完成体ではない。そこは共通しています。そこから育つものは異なる。

高橋源一郎説をさらに。「詩、というものは、本来『うた』だから、それ以外の要素をどんどん削り落としていくことができる。/けれど、小説というものには、本来のなにか、などないのです。だから、削り落とすこととは正反対に、どんどん、いろんなものが付け加わってくる。(中略)だから、小説は、詩に似たり、評論に似たり、エッセイに似たり、テレビドラマに似たりする」。正反対……。

すると、詩の本質とは小説ではないこと、という結論になりそうです。小説的にはなりえても、小説にはならない。

小説に憧れながら小説の書けない詩人、その逆の小説家、そして詩と小説の間をやすやすと往還する書き手たち。さまざまな見地から、これらの問いに答えていただきたいと思います。

詩も小説も好きな書き手でまず浮かぶのはジュール・シュペルヴィエルですが、フランス語が読めないので作品論を書けないし、彼の小説を詩的と感じたこともありません。「詩も小説も作家」の作品の多くはそんな印象です。

散文詩でいま興味があるのは千田光の作品ですが、それらを小説的とも感じません。

室生犀星は小説が詩的というより、小説と詩がリンクする感じで、つまり作品というより作家性がおもしろい。

多和田葉子『アルファベットの傷口』(改題『文字移植』河出文庫)の語り手は詩人ではなく翻訳家で、言葉の変容そのものが問題になっている点、かえって詩にも肉薄していると思いました。詩的というより、詩論的。

個々の作家や作品への関心が優先するため、詩と小説の関係について「答え」ることはほとんどできませんでした。でも部分的にでも、詩人や小説家や、そのほかの方々のご参考になるところがあれば、さいわいです。

初出:「びーぐる 詩の海へ」第23号(2014年4月)
(特集「詩のなかの小説 小説のなかの詩」)

谷川俊太郎『トロムソコラージュ』新潮文庫、2011年
http://www.shinchosha.co.jp/book/126624/

本間祐編『超短編アンソロジー』ちくま文庫、2002年
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480037473/

タカスギシンタロ+松本楽志『超短編マッチ箱版 空想くらげ図鑑』2013年

北村薫編『謎の部屋 謎のギャラリー』ちくま文庫、2012年
http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480429612/

渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』講談社現代新書、2013年
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062882095

高橋源一郎『一億三千万人のための小説教室』岩波新書、2002年
https://www.iwanami.co.jp/book/b268605.html

多和田葉子『かかとを失くして 三人関係 文字移植』講談社文芸文庫、2014年
http://bookclub.kodansha.co.jp/product?isbn=9784062902274

*追記(2017年6月)

上記拙稿の掲載誌が発行されてまもなく、原稿依頼文を書かれたのが四元康祐さんであることをご本人よりお教えいただきました。

その後、依頼文中に名の出てくるリディア・デイヴィスの初期作品集『分解する』を読んだとき、なかに「設計図」という話があったせいか、小説はその長短にかかわらずひとつの家づくりをもくろむところがあるのではと思いました。段ボールハウスから豪邸まで。リカちゃんハウスからシンデレラ城まで。
詩歌はたぶん、家にはなりません。家の内外に吹く風のようなものかも。クリスティナ・ロセッティが「だれが風を見たでしょう?」と問うたとおり、その形状や構造は見えなくても、印象や感触が残るもの。

あ、だから「小説家」ということばはあっても「詩家」とはいわないのか。
余談ですが、「詩人」というのは職業名ではなく、「陽気な人」とか「痩せた人」とかと同じく、人の属性――性格や特徴をあらわす語だと考えています。

リディア・デイヴィス『分解する』岸本佐知子訳、作品社、2016年
http://www.sakuhinsha.com/oversea/25828.html

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