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佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第4回:少年ミドリと暗い夏の娘

 私はミドリといふ名の少年を知つてゐた。庭から道端に枝をのばしてゐる杏の花のやうにずい分ひ弱い感じがした。彼は隔離病室から出て来たばかりであつたから。彼の新しい普段着の紺の匂が眼にしみる。突然私の目前をかすめた。彼はうす暗い果樹園へ駈けだしてゐるのである。叫び聲をたてて。それは動物の聲のやうな震動を周囲にあたへた。白く素足が宙に浮いて。少年は遂に帰つてこなかつた。    
                      左川ちか「暗い夏」部分


昭和八年七月に発表された左川ちかの散文詩、その最終パラグラフで唐突に登場する〈ミドリといふ名の少年〉が気になる。全詩集の中に〈少年〉は二度しか登場せず、名を与えられているのはここだけ。
 
緑という色に対して、彼女は強いオブセッションを抱いていた。

緑色の虫の誘惑。果樹園では靴下をぬがされた女が殺される。朝は果樹園のうしろからシルクハツトをかぶつてついて来る。緑色に印刷した新聞紙をかかへて。
                        同「朝のパン」部分
私はあわてて窓を閉ぢる 危険は私まで来てゐる 外では火災が起つてゐる 美しく燃えてゐる緑の焔は地球の外側をめぐりながら高く拡がり そしてしまひには細い一本の地平線にちぢめられて消えてしまふ
                         同「緑の焔」部分
並木の下で少女は緑色の手を挙げてゐる。
植物のやうな皮膚におどろいて、見るとやがて絹の手袋を脱ぐ。
                      同「1. 2. 3. 4. 5.」全文


引用すればきりがない。虫、焔、風、街、泉、陽炎、さまざまな事象が緑色を帯びて彼女を圧倒する。自然を愛護するという発想は当時まだなかったにせよ、緑色にはやはり草木の繁茂、春から夏に向かう季節のイメージがあり、健康な人々をわくわくさせただろうに。病みがちだった彼女にとって、緑色に象徴される生命の暴力は、おそれの対象だった。

そのことがまさに、左川ちかと他のモダニストとの間に一線を画する。

モダニズムは都市の思想である。都市文化は建築物・乗物・機械といった人工物への興味をかきたてるとともに、自然を制御することを求めた。並木道や運河などの景観を人々は愛したが、そのように制御された木や水ですら、彼女にはとうてい安全とは感じられなかっただろう。時化、雪崩といったダイナミックな天災の脅威についてなら、誰とでも語りあえる。けれども、都会に宿る小さな生命のひとつひとつが変質し、増殖し、侵蝕してくるような自然のありかたの恐怖をわかちあえる者は、そうそういない。彼女はおそろしく孤独だっただろう。

もっとも少年ミドリは恐怖の対象として描かれてはいない。〈杏の花〉の喩えは甘やかだ。しかし身体の不調に悩む〈私〉の中でその印象は〈ひ弱い感じ〉につながる。〈新しい普段着の紺の匂〉はその清々しさゆえ〈眼にしみる〉。少年へのあこがれと自身へのあわれみが交差する。あるいは生命が、詩語が萌すときのよろこびとくるしみが――ああ、それで少年は若芽の色の名を持つのか。

「暗い夏」において眼を病む〈私〉は、うす暗く汚れて見える室内でじっとしたまま窓外の鈴懸や楡の木、通りかかる人や犬のようすを気にかけ、〈私からすでに去つた街〉で〈毎日朝から洪水のやうに緑がおしよせて来てバルコンにあふれる〉と記す。少年ミドリは唐突に通り過ぎる。彼の肉体は〈私〉と同じく弱かったはずなのに、〈駈けだして……叫び聲をたてて〉野生に還るかのように去った。

〈私〉は取り残された。

次は左川ちかの「緑」という詩の全文である。最後の一行に、目の前が暗くなる。


朝のバルコンから 波のやうにおしよせ
そこらぢゆうあふれてしまふ
私は山のみちで溺れさうになり
息がつまつていく度もまへのめりになるのを支へる
視力のなかの街は夢がまはるやうに開いたり閉ぢたりする
それらをめぐつて彼らはおそろしい勢で崩れかかる
私は人に捨てられた


少年ミドリもまた〈私〉を捨てたのか。そうは思えない。

「暗い夏」の前半に〈私の体重は庭の木の上にあつた〉とある。少女のような名を持つ少年は非力なりに〈私〉を庭から外へ、果樹園へいざなおうとしたのではないか。非力な少女の〈私〉はそれにこたえようとしたのではないか。〈私〉が彼を〈知つてゐた〉のは、彼が〈私〉の分身だったからではないか。素足の少年は。

少年はおそらく〈私〉の少女期だけを連れ去った。〈私〉は残った。現実に病む娘は、現実の他人に見捨てられたこともあっただろう。だからこそ、少年は〈私〉の強い幻想でもあっただろう。年齢上、性別上なりかわることのできない存在の幻想。叶わない不死の幻想。

昭和十一年一月、満二十五歳を迎えるひと月前に左川ちかは亡くなった。彼女は死を予期し、彼女を溺死させかねない緑の生命力をおそれた。死も生もおそろしい。その袋小路を脱出するという奇跡が、ミドリという名の少年に託されたように思えてならない。では庭は、果樹園はどのような場所であったか。〈靴下をぬがされた女が殺される〉ようなおそろしい場所だったろうか。

だが、おそれとはあこがれの別称である。
 
――左川ちかの詩やエッセイを読むにつれ、ちかちゃんと呼びかけたくなるんです。

以前「左川ちか豆本がちゃぽん」を制作していた豆本作家の赤井都さんが、左川作品読書会のおり、そのように話していた。ちかちゃんはいつまでも思いつめた目をした怯えやすい娘のままだ。それでも目を閉じることはできなかったし、しなかった。

あるとき私は、自分と彼女の誕生日がとても近いことに気づいた。

明治の終わり、冬の終わりに生まれた子どもが、その後のめまぐるしい生命や文化の開花をおそれつつ、懸命に見つめたこと。ミドリという名の少年を知る詩人の思いつめた目を借りて、あるひとときの終わりのための反歌を、始めたい。

透明を憎んで木々はこれほどにふかいみどりに繁る 見よ 見よ

出典:佐藤弓生『薄い街』(沖積舎、2010年)

『左川ちか全詩集 新版』森開社、2010年
https://blogs.yahoo.co.jp/ono2893/20908574.html


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