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ここは Japan Poetry Review (jpr) のゲスト寄稿者のためのホームページです。 こちらでノートを作成していただいたのちに、管理者が jpr のマガジンのいずれかにアップいたします。

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    詩集や詩作品の紹介、鑑賞。

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    • 13本

    詩論、詩人論など、現代詩を考察するする文章。

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佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第10回:詩と小説のかかわりについて私が知っている二、三の事柄

借り物感いっぱいの見出しで恐縮です。困っています。 テーマをいただいて文章を書く場合、依頼文に目を通した段階で、雲状にもわもわしていてもその核のありどころくらいは見えてくるものです。ところが今回はいつまでたってももわもわのままです。なぜか? 依頼文がかつてなく十全で、それ以上のなにかをなかなか述べられそうにないようなのです。 そんな依頼文を本誌読者に見せないのはもったいない。 そこで、依頼文を書き写しつつ、その文につけ足したり、脇に逸れたりと、記憶を掘ってみることにし

    • 佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第9回:岡井隆詩集『限られた時のための四十四の機会詩 他』評

      第一詩集『月の光』における「定域詩」に続き、第二詩集に当たる本書では、ソネット(原義とは厳密には異なるが、一篇十四行を条件とする)が主たるスタイルとして選ばれ、枠組みを設定したうえで枠組みにアレンジをほどこしてゆく手業を見せる。なお『岡井隆の現代詩入門』(思潮社)に、「立原道造の詩と初めて出会った時に、一四行詩の構造的な美しさ、読み終った時の完結のよろこびを知った」とある。 収載作「四十四の機会詩」はタイトル通り機会詩であることをルールに、二〇〇七年八月十六日~九月十五日と

      • 佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第8回:雨の詩の匂い

        雨の匂いというとまっさきにアポリネールの視覚詩「Il pleut」を思い出した。 窪田般彌訳では「あめがふる」と表記された題の五行の詩で、活字は原文と同じく左上から右下へ、流れるように斜めに配置されている。その最初(左端)の行では あめがふる おんなたちのこえが おもいでのなかでさえも しんでしまったように と、いかにも湿った追憶がこだまする。 詩は匂わないけれど(詩集は紙の匂いがするけれど、電子書籍ではそれはない)、ランボーの〈Aは黒、Eは白、Iは赤、Uは緑、Oは青

        • 佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第7回:斉藤倫詩集『さよなら、柩』評

          斉藤さんの詩集はいずれも一貫して内気で繊細なのだけれど、本書では歴史上の人物ルドルフ・ヘスから「幹事」「男子中学生」まで、いろんな人たちが罪とか悪とかについてうらうら考えているというスケールアップ(?)がみられる。無垢というもののありにくさをさびしみつつ、なおも求め続けることが詩作であるというように。 「愛してるの/してるだけが/好きなんでしょう(中略)□してるの/□には何が入っても/気づきもしないんでしょう」(「首」)と、「わたしは犬のねす/わたしは犬のす/わたしは犬です

        佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第10回:詩と小説のかかわりについて私が知っている二、三の事柄

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        • 佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第8回:雨の詩の匂い

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          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第6回:時代と身体感覚

          先月、鎌倉文学館へ「生誕130年 萩原朔太郎 マボロシヲミルヒト」展を見に行った。第一詩集『月に吠える』が鎌倉で編集された縁による企画で、その数年前に製作された自筆歌集『ソライロノハナ』の復刻も展示されていた。   ほととぎす女に友の多くして   その音づれのたそがれの頃      妹が折折すなる態(しな)をして   もだして居りぬ女の中に 十五歳で与謝野晶子歌集『みだれ髪』に魅了されてのちの十年余に詠んだ数百首は、作風の変遷のうちにところどころ女性への愛着を見せる。

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第6回:時代と身体感覚

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第5回:高階杞一『夜にいっぱいやってくる』評

          夜にいっぱいといえば、あれだあれ。おばけ。おばけの絵本をひらく気分で、五つのパートから成る表題作を読んでみたら、たしかに五つの奇妙な光景が部分的連鎖をなしてはいるものの、おばけの楽しさからは少々遠かった。そこには、口調はソフトでも、いわくいいがたい不安や不快が描かれていた。〈床に転がっている指を/一つ一つ拾い集めている椅子がいる//「どうするの そんなもの」/「二十本集めたら一人ができる」〉(5「指」部分)といった調子。慣用表現「豚のほうがまし」「どこの馬の骨」に召喚されたか

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第5回:高階杞一『夜にいっぱいやってくる』評

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第1回:私の好きな詩人――多田智満子――

          教科書をはなれ、自主的に詩をさがすようになって最初に好きになった詩人が多田智満子ではなかったかと、なんとなく思いだした。    夏の少年     1  たくさんの裸足【はだし】の駈けまわった大地の上に  ぼくたちよこたわる  だれとも抱きあわないで  どんな未来よりも完全な子供になって     2  ぼくたちぶらさがる  ひるさがりのぶらんこ  熟れかけたあけびの実のような  ぼくたちのかすかなあくび     3  そのむかし一つの噴水から出発して  広場の四方八方

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第1回:私の好きな詩人――多田智満子――

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第4回:少年ミドリと暗い夏の娘

           私はミドリといふ名の少年を知つてゐた。庭から道端に枝をのばしてゐる杏の花のやうにずい分ひ弱い感じがした。彼は隔離病室から出て来たばかりであつたから。彼の新しい普段着の紺の匂が眼にしみる。突然私の目前をかすめた。彼はうす暗い果樹園へ駈けだしてゐるのである。叫び聲をたてて。それは動物の聲のやうな震動を周囲にあたへた。白く素足が宙に浮いて。少年は遂に帰つてこなかつた。                           左川ちか「暗い夏」部分 昭和八年七月に発表された左川ちかの

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第4回:少年ミドリと暗い夏の娘

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第3回:”前”の世界

          この秋、前橋文学館で中原中也の「芸術論覚え書」草稿一枚目の筆跡をぼうっと見ていた。 冒頭に「一、『これが手だ』と、『手』といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が五感に深く感じられてゐればよい」とあり、「五感に」をうすく塗りつぶして消している。 評論だが、詩のような文面である。詩人が書いたのだから不思議ではないが。「名辞」は哲学用語で、言語化された概念のことだそうだが深入りできない。それより、「口にする前に」という語に注目する。 この「前」は、時間が古いということだ

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第3回:”前”の世界

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第2回:記憶と風景 ー北爪満喜詩集『奇妙な祝福』評

          作品のなかで、父母も、祖母も亡くなっている。半分以上、追憶でできた詩集である。歌集なら帯文に「挽歌集」などと入りそうだ。 だが記憶というものはかならずしも時系列に沿っては再現されない。ちぎれ、つながり、変形する。詩歌で真実を記すとは、その歪みを歪んだまま記すことにほかならない。   バス停から薔薇に呼び戻されて   私は薔薇園に戻って歩く   母は 薔薇に 呼び戻されて   あの家にまた戻ってくれた   (「幽かなものが払われて」より)   夢の中の 桑の掌は おばあ

          佐藤弓生の「近・現代詩おぼえがき」第2回:記憶と風景 ー北爪満喜詩集『奇妙な祝福』評