昨日の昼食はサラダチキンだったのに、今日は大盛りのカルボナーラを食べている

自分はこう生きる、なんて決められないよなあと直感し始めている。
「人生に意味なんてないんだから適当に生きろ」なんていう大人をこれまで数人見聞きしてきた。ほんの数年前までは、あなた方の人生と私の人生を同じもののように語られてもなあ…、と感じていたのだが、その方々の言っていたことは今の私の感覚に概ね近いのかもしれないと感じ始めている。

ゲームには勝利条件があり、それを満たすために守るべきルールがある。だから戦略が生まれ、プレイヤーの優劣が付けられる。これは会社においても一緒で、利益を出すことが勝利条件で、守るべき法律とかがあり(全然詳しくないけど多分ある)、その中で経営判断という戦略が生まれている。

ただし、自分自身の人生を生きるというゲームにおいては、勝利条件が定まっていないのである。これだと戦略を立てようがない。

「お金持ちになりたい」とか「有名人になりたい」とか「楽していきたい」とか、自分の人生の勝利条件を決めようと試みたこともあるが、どれも心底は信用できない。というより、多分どれもが勝利条件になっており、どの勝利を目指すかを決めあぐねている感じだ。

こんなことをもやもや思っていて、最近行きついた仮説がある。
勝利条件が決まっていないのなら、誰もが間違った選択をし続けているのではないかという仮説だ。これは全ての選択について言えることだと思う。

でもやっぱり生きてると自分の選択が正しいと思っている人がたくさんいると思う。本当は全然間違っているのに、生きるメソッドみたいなものを見せびらかされる。「私はこうして成功しました!」みたいな。まずあなたと私の人生の勝利条件が異なっているのに(私が定まっていないからなのですが…)そのメソッドの再現性があるはずもない。

私の仮説に立つと、どんな人間の生き方も間違っている。だとしたら、間違っていることを正しいと主張する生き方より、どんな風に間違っているかを表現する生き方のほうが違和感なく感じる。
そういう生き方をしているのが「アーティスト」であり、間違いを披露するという生き方は特に「芸人」が体現していると思う。
私は芸人さんを好んで見てしまうのは、彼等彼女等が間違いを披露することで価値を生み出しているということに潜在的に納得感を感じていたからなのではないかと思う。

では「芸人」として生きる人生を選択すればいいと自分でも思う。ただし、先に述べた仮説も、今後は全く信用できないのである。いずれ崩れ落ちるかも、というより必ず崩れ落ちることを確信している。だから行動できない。こうやって今後も人生の「保留」を続けて、そのうち取り返しが聞かない時点に至り、人生を後悔する未来が見えている。

今立てているこの仮説が自分の中で成立しているうちは、正しい生き方を探すのは諦め、間違った生き方を胸を張らずに主張できるようになる。これを人生の勝利条件(暫定ではあるが)とし、精進したい。

こんなに拙く恥ずかしい文章を世に晒すことが、私の人生に勝利するための(現時点での)戦略のひとつである。

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