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次元上昇した先の働くとは??

スピリチュアリティーとは程遠い、日々、「働かねばならぬ」という思い込み。私たちは、時としてその思い込みに振り回され、自らの人生を見失いがち。でも本当に生きるって働くことだけにあるのだろうか。(ここでいう働くというのは貨幣労働を指します。)

確かに“働く“ことは金銭的には生活を維持し、物質的な安定を確保する手段。でもそれが生きる事だとは言えない。私たち一人一人の人生には、もっと深い“はたらく“があるはず。だって漢字だって“人が動く“って成り立ってる。

その1つとしてボランティア活動や社会奉仕のような非給与労働があるけれど、そういう活動は社会的な価値を持ち、私たちの生活を豊かにしていく、人を動かせる大きな流れになる一雫の“おしごと“。

それから人間って自己成長や学び、人間関係を築いていく中で各々の人生の時間を織り成していて、そんなこんなを単なる貨幣労働以上の意味を感じているはずの私たち。趣味や興味を追求し、自己表現をすることも、生きる事の喜びであり、人の心を動かせる“はたらく“

だけど社会課題に奔走する人らのその時間は貨幣を生み出さなければ“働く“とは見做されない。


“PTAは仕事ではなくボランティアなのだから無理しなくていい“というコメントを見てモヤモヤ…。それって“仕事“なら無理をしないといけないってこと?

“仕事“は無理をしてでもやるべきことなの?
仕事が上で、社会的活動を下に見る感じにモヤモヤしてしまう私。

ボランティア活動や社会奉仕のような非給与労働って、経済的な価値だけでなく、社会的な価値を持っている。それらの活動がなければ、社会は今よりもっと貧しいものとなるんじゃないの?“仕事“って貨幣労働だけなの?そもそも適切な対価を受けられているの?

ボランティア活動だって対価が発生して然るべきもの。でも無報酬って事がそもそもおかしい。社会的な活動がもっと尊重され、その貢献が適切に評価されるべきなんじゃないの。経済的な価値だけで地球が回ってるんじゃない、社会的な意義が適切に重視されるべき時に来てるはず。

でもその社会的に意義深い活動が貨幣労働に絡め取られた途端に、利害が生まれて仕事として位置付けられてしまうのにも違和感を感じる私。それをポエムだとかフワッとしているとか言われ続けた時、悲しかったな。

仕事以外の時間を大切にする…例えばそれは家族や友人との交流、自然とのふれあい。私たちの生活に豊かさと充実感をもたらすけれど、それらを差し置いても“働く“が最上位に位置するかの様なマインドがこの国を作り上げて、今の現状がある。

貨幣労働があらゆる価値を支配し、社会的活動がその下に置かれてしまう。貨幣を生み出さない活動が無視され、適切に評価されないという問題が生じているのが資本主義の末路。

私は子どもたちに「生きているだけで価値がある」という信念を持って日々“しごと“をしているのだけど、その言葉が単なる机上の空論に過ぎないんじゃないかと目の前の現実社会や自分の心の中にを通して悶々とする事がある。だから私は、同じくその事で悶々としているはずの仲間たちと一緒にツール・ド・シネマで自主上映会をやったり、Cuddleの活動を通じて子どもたちを取り巻く社会がこのままでええの?を問い続ける。

映画「さとにきたらええやん」の名もない登場人物であるホームレスの日雇い労働のおっちゃんたちが生活保護を受けずホームレスだという事の意味。

社会課題に奔走する人たちが貨幣経済社会から阻害されれば“生きていけない“と思う社会。

なのに子どもたちには“ありのままのあなたが尊い“
“おたがいさまの社会“
“多様性を認めよう“
“生きているだけで価値がある“と私は話す。その言葉が絵空事になってしまわないか、ドキドキしながら。

私は“生きること““働くこと“の真の意味を示さなければならないと思って生きて働いている。生きていくことは、“貨幣労働“だけではないこと。自らの人生に意味を見出し、豊かな人間関係を築き、自己実現を果たすこと。それが何なのかをそれぞれが知ることが本当のこの地球に生まれてきた“生きる“ではないだろうか。

とはいえこの世は多種多様。私のこの言葉がフワッとして何が「生きているだけで価値がある」のか、「貨幣経済の中で働くから飛び出したその先に何があるのか」が見えて来ない人もいるだろうから、その定義や実現方法についてぜひ本質観取をやってみたい。

ちなみにその答えの1つとなる動画が昨日Toland Vlogさんにアップされていました。

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