三元論


ここで扱う意味は、身体、生命、知といった、従来の意味とはまた少し違った内容になる。
二元論とは、
相反する性質との対立により世界がなるという考え方。
この世界は二元性で出来ていると考えられていたが、本質的にはこの解釈はどこか違うような気がする。
1つの考え方という意味合いでもあるのだが、そう考えるとその時点でこれが、全くの事実である必要がないという気もするが、無理やり世界観をこじ開けようという話でもない。
物事とは、確かに二元論的に見ることは可能だ。
しかしその捉え方としては非常に危険極まりなく、この指向性がそもそも自然原理に対し閉塞的になる部分もあり、
現状という現状の生みの親とも言うべきものである。

解体

物質と非物質から始まり、善悪や神や悪魔、精神や経験、男と女、陰と陽あらゆる物事を分けることは確かにできるが、どれとどれが同類かなどという事を考えると一概に固定することは難しい、意識という意味での生活圏によりこの線引き自体は変化し、とてもではないが単純に分類できるものでもない。

個人的な手法でカテゴリを分けるなら以下のようになる。

森羅万象の存在と非存在における二元論
※このカテゴリーは、空間や、精神、意識などの自己の認知を組み込む事で非存在を存在化でき、線引きが難しいところがあり、認知介入の有無で二元論そのものの構造が変化する。
また、存在の意味、理由、意思、想起済みの物も存在化すると定義する。
認識可能領域は、変化するためこの境界線は変動する。

被物質化と非物質化における二元論
※この二元論は常に上記の存在内部に存在する項目ではあるが、認知可能領域の変化、唐突な発見含め最大値は常に存在以上であり続ける事が可能である。
※物理学的意味において、現象化可能の物事を被物質化と捉え、不可能的事物を非物質化として捉える。

人間の主な2つの認知活動による二元論
基本これが総ての主軸となる
①精神的認知活動を意識構造として行う
(単純に神や霊という存在を含めた上での認識)
②物質的認知活動を意識構造として行う
(非科学的なものを前提として除外した認識)
※A ①、②両カテゴリー共に物心二元論と善悪二元論が共存しており、あらゆる事物のほぼ全てが物心二元論×善悪二元論→計4つのカテゴリーに別れる。
※因みに①と②における物心二元論の違いは簡単に言うなら①が、神論や運命論的なものに対し、②が機械論的な側面を持つ。
相容れない根底は前提たる意識構造にあると言える。

※尚、全ての存在と非存在あらゆる物に、事象としての無機物性と認知による印象とがあるため※Aは2層に分かれ計8つのカテゴリーに分けられる。
存在内の物は全て
2(認知)×(2(存在と印象)×(2(善悪)×2(物心)))=16種類のカテゴリーに分けられる。
※これらの項目は全て、宗教的教義、社会的教義のもと変化しうるため目まぐるしくこのカテゴリー内を動き回ることになる。
※また、二元論的にどちらでもないというカテゴリーは現状カテゴリーではなく、フレームに相当する。
フレームを通した移動や階層移動に際しては位相空間論的認知変動が起きる。
主観と客観、微視と巨視、相対と絶対等といった空間的二元論の介入が起きる為変化は起きる。

・世界にはいろんな思想形態がある
単純に有神論的イデオロギーを持っていたとしても、それが必ずしも善なる者を根底と置かない場合もある、例を出すならサタニズム
一般的に悪魔崇拝を連想させるが、実際はそれのみではなく、先天的悪性の中に芽生えたが故に、自己探求を繰り返し、自己の精神性を上げていくという、哲学的側面を持った主義も存在し、そうなってくると同カテゴリー内に存在するはずの組み合わせも実に多様で精神的認知活動を主体としていても、神という概念が善であるか、悪であるかの変換は可能であり、その理由はその他の概念が二元論的にどれと組み合わさっていくかで多様な主義が組み上がっていく
無論どちらが正しいか、この組み合わせが正しい、誤っているなどという議論はそもそも必要のないものとして、結果自体は交換可能な結果が得られるというだけのことである。

・認知の主軸の形成により、二元論の性質は変化する
この目における概念、イデオロギーの多様性のせいか知らないがホント様々な見方がある、あり過ぎて纏めるのがめんどくさくなるくらいでは有る。
上げようと思ったが認知なんてものは思考すればするだけ増えていくためきりがないので辞める、
ようは人のクオリア論でもあるが、何かを認識するに当たり、自己の目の位置や、感情や印象といった事柄が先天的な影響を持って存在の位置づけを既に起しており、思考によってそれは変化するという話だ、つまりは考えなければ物事の味方の変容などはほぼ起きないということでも有る、オーソドックスな主観認知の詳細を上げておく。
主観としての目:
一般的には、完全なる自己の目として認知されているこの概念は完全に主観化されているかといえばそうでは無い。
ファシズム的認知とでも言うのだろうか、『主観的にものを捉える』という瞬間にベースに何が有るかであるが、ほぼ無意識的にその対象に対するクオリアが前提的に既に取捨選択されているということが、相当数存在する。
どういうことかと言うと、社会や倫理に関して統計的に真とされるものは既に社会的には絶対的であり、その強制力も強く、善悪は完全に定義され、価値観という意味では多様性を許さない傾向にある。
(昨今では多様性はムーブメントとしてあるが、これはただ単なる流行りである。
真に多様化を認めるとはモノゴトのその奥にある流動性を認めたときすべてが許されるべき存在であるという前提の元起きる、認識がそこまで達さない以上は人間は多様性の意味を履き違え続け、理由としてそれを使用するだけである)
つまりは政治的影響、宗教的影響、文化的影響、民意的影響、時間的影響によって二元論的善悪、虚実、真偽らは変化し、アイデンティティの多くはそれにいかに従属するかで形成され、最悪他者否定する事でそれはなされる情弱性がこの部類には多い事になる。
一方、相対的認知をする場合、確かにメタ的ではあるが、これも段階が有り、物事は同一の物でも常に『ただ有る』という状態と『意味による存在』とに分けられ、『物事の根源を見ていく』を繰り返すとこの2つの存在をループし二元論的極性は必ず喪失と発生を繰り返していく、つまりは二元論の臨界点がそこには発生すると考えることが出来る。
物事とは、根源的には名詞的に存在し、
意味は動詞的様相を備えている、
人はものに対する認知を形容詞的に行い
これは間違いなく認知上結果として訪れていることだ。
つまりは二元論で物事を分類しようとしたとき、
その精査段階で既にそこに何らかの変換反応が無意識下に起こり結果的に状態の変化が見れるわけだ。
フレームの移動、階層の変化に力として影響してくる位相空間論的な前触れは人間であるなら一般生活の中で、時折誰しも起きていることである。
見落としがちなそのサインを自己の実証として思考し武器にすることで、認知はより根源的なものを捉えることが出来るような構造になっていると個人的には考えている。
ようは些細なことでも、その印象を形容詞的印象から、動詞的印象としてその意味や意義を知覚した時、その存在の名詞的な純粋性に気づくというわけだ。
私の説明ではおそらく分かりづらいかったかもしれないがようは二元論で物事を判断しようとする認知には概念自体の段階で既に除去されている物があり、それに気付けるかという話なわけだ。

例を上げる
現実的にものを考える人は、
非現実的、神や霊、又は意識的生命等については
=悪い、愚か、危ない、と言うように、変換される。
しかし、これは端的に非物質推奨者が存在そのものの絶対的立ち位置を理解した上で物を考えるという訳では無く、あくまでも自己の認知構造内での意味付から来るものであり、それはやはり社会性を踏まえた主観の手引きでしかないというわけだ。
精神的認知構造者も含め実質、善悪、聖魔、神と悪魔で概念を指す言葉を用いてはいるが、既にそこには良い悪いの加工が既に施され、印象は、すでに形容詞的状態に陥っている。
人間は性質上二元論という立場からはやはり、
利己的印象を持ってものを分別し、カテゴリー分けを強いられる構造になるのだろう。
そのような働きが存在してしまっては、
正しく物を認識できているとは到底考えられない。
普遍的二元論の構造など実際あってないようなものにしているのは人の認知の生態系によるものだ。
※認知段階に於いて起きている状態を詳しく見ると以下になる。

人間の認知世界には必ず2つの力が流れる

存在と印象
・前者、物理的に起こる存在と非存在の力、
これは現象により起きるものであり、性質上どちらに向かうという特性がそもそも無い
・問題はもう一つの力、
印象による良いと悪い、つまりは善悪そのものだがそもそもそこに人間が認識し続けていた二元論が存在し、それはどちらかに向かう性質を常に持ち普遍性がなく、明らかに時代や風潮により変化し続ける。
意味性などについては実に曖昧で、存在によるものか、認知によるものかを断定することはほぼ不可能に近い、故に、より良いものとして物の意味を定義する事は逆に有効であると考える。
因みに存在と認知発生の時系列と特徴
※存在→❙+印象 (大抵の認知は❙からスタートする)
※印象は存在の概念を書き換え可能にしてしまってる

現象上明らかに後続的に訪れていたであろう概念である印象の力が全ての概念を定義しようというのだから、そりぁ、当たり前に矛盾は産まれる。
それを利己的に使用すればやはり、人に訪れる歴史的な事実というものはやはり凄惨なものとなっていき、全てが利己的定義としての普遍性のない結果のみとなっていく。

つまりは二元論という物自体がそもそも両者から見て印象をベースでのみ展開されるため、世界に対する認知に矛盾が産まれ続ける。

認識補正の為という個人的な目的上、
必要とする解体の意義は物事の発達経緯を模索する上でやはり必要になる。

私論

これは成り立ちの再認識である。
人にとっての神という概念の書き換え上必要な行為であり、印象という、利己的な善悪から抜け出すための手段である。
二元論的認識から抜けるにはやはり、単純な原理としての発生と未発生まで立ち返り、物事を分断していくよりしかたない。
そして、認識しているものに対する分解をどのように行うかという点でもあるが、
前提はやはり万人に共通する概念への還元である、
たとえ話神が有るか無いか、
有神論、無神論と問われるがこれはそもそも神という概念の根幹にたどり着けないがために起きている分離である。
単純な話神への定義への修正を行えば、すべての人が神を使用することになる。
神を定義するのに面倒臭い細々とした言葉などはそもそも必要ない、
単純に信じる対象そのものが神とすれば良いわけである。
この定義を行うだけで、かなり過半数の二元論的分離を削除出来る。
こういう事を繰り返すことで、夥しいカテゴリーに区分された認知を最終的には一元論まで統合することは可能に思う。
そして、その為には物事をより細分化し、認知から感情を一度除外しなければならない。
感情を一度除外するという段階においてそれの意味を説明するならば、
人間というものがそもそも感情の濃度によって印象を変化させる生き物であるからだ、
単純な憤りが怒りになり憎しみになり、
単純な平穏が依存になり、狂気になる。
このような状態の変化の起こり得る環境下で物事の明確な精査など皆無であるからだ。
物事の前提がただの存在と非存在であるならば、
そこを認識するに当たり、それらは一切必要のない事柄であるが、勿論生命がより良くあり続ける為にやはり備わったものであろうことも踏まえた上で、
忘れ去られた不足分を補うために一旦排除したい。


形状

物事とは形としてその真意が現れる、
故に、真なるを求めた時、形状を思考することで
あるべき状態が導き出せる。

…として

人間が二元論を扱う無理性についてのそもそも論なのだが…。
二元論は本来存在そのものに適応される概念であると私は考えている。
当たり前の事を言っているように聞こえるかもしれないが、盲点こそがそこだと思う。
つまりは人の認知が扱うものではないと、
物の形状、次元の加算そのルール性において明らかに人の存在というものは存在と非存在という中で、被造物に当たるものとしてその機能を有するが、認識の世界については明らかに非造物としての形状を同期させている。
つまりは単純系としての二元論的存在という中に、非存在を織り込まれた一段階複雑系として認知が既に存在に同定されているわけだ。
物事の有る無しのみを記述するはずの二元論の世界に複雑系であるはずの人間の印象的認知が関与する時点で二元論のままでは不可能という意味である、
事象的事物は確かに二元的に存在する、
二元論的空間内にあるのはその存在のみであり、
我々で言うところの体という『カタチ』のみが有る世界がそれであり、それに対するそもそもの認知という現象自体が二元性の空間内には既に存在していないという意味である。
3次元+時間というように創られたこの時間軸の中で
存在の形状として両端のみが励起しうる状態などこの三次元の空間には存在しない、紙面上という空間に於いてもそれは変わりなくただの任意の点でしかない。というかそもそもこの空間内に未だかつて、面という存在自体が存在した試しなど全く無い。
原理として人間が、物事を理解という意味で認識するには、2点では物事を正確には処理が難しいということでもある。
人は物をものとして理解する、
物をものとして理解が出来る、
では明らかに物事に対する理解には明らかに3次元的に3点目が適応されるべきなのではないかと思うわけだ。この場合の3次元的とはあくまでも空間的にという意味である。
例えば物事を理解するに当たり、
何らかの善悪を問うた時に真ん中というものは存在しないのだろうか、
人が人を殺すこの現象は事象としては、明らかに二元論だ、
しかし人がそれを評価するとき、殺すという印象のみで、物事が評価できるかといえばそうではない。
何らかの理由で殺害までは起こさなかったものの、人生を踏みにじるという悪を起こした人間に対し、報復として命を奪った人がいたとする、
この善悪を二元論で処理しようとすると、話はややこしくなる。
何故かは、物事の間というものが人間には明らかにその意識下に入るからである。
状況によりけりで善悪は決まり、そもそもの善という概念と悪という概念がそもそも人には定義不能なものでもあり、三元性の中で始めて励起した概念である可能性のほうが高いからである。
これは善悪の極性などはそもそも定義する必要がないということでもある。
何故ならそこをそもそも向く必要性が本質的に存在しなかったはずだからでもある。
善も神もいずれは酔を産み慢心を覚え、正しさはついには人を許せなくなるという事につながっていく。
人が扱うということはそういうことであり
人が最も重要とすべきは精神性であり、正しき中間であるからだ、
その為にも、逆に悪や闇への本質的な理解は必要性を帯びる。
その中にある、寂しさや、虚しさ、阿鼻叫喚たる悲痛、もちろん快楽的な悪意などもあると思うが、それを精査し、理解するためにやはりそこを見つめ直す必要性は存在し続ける。
問われ続けるのがそもそも人の役割でありその目的は全て精神性に宿っていくからである。
つまりは三元論目に当たるのが精神性であり、
その正しき中間の周りにうごめく自由奔放な流体物、そのエネルギーは遥か昔から精霊として縄文人は精霊として扱ってきたというわけだ。


三元論の喪失

三元論の世界とは高い精神性の中で育まれる世界
善や悪を問うこともなく、祈ることも無く、
敬うことも無く、祀ることもなく、
あらゆる感情を俯瞰的に感受し
その一つ一つをボルテクスとしての一部として感じ
逸れすらもトーラスとしてすべてが円環する認知空間を重心とした精神を育んだ世界。
たしかにそんな世界がこの世界にはあった時代があった。
ここから以降は少し問題発言が入るが、
私の中では事実である。
過去に三元論として『開かれていた世界』があった。
人の心の中に強い感情のウネリが流れる事で、やがて世界は閉じられていった。
それを促したのは他でもない神なる存在だった。
人は願いを覚え、祈りを覚え、感情は濃くなり、
渇望や願望といった心を持つように変化していった。願いを通すため、より願いを通すため、善悪を問うようになり、神へ頭を垂れる事を善としていった。
より、神は絶対的となり聖を纏い、それこそが真となり、真は正しきとなった。
人は神を見ることで魔をより明確に識別するようになり、悪は生まれそれらは偽となり、
正しきに反するものとして滅すべきものとなっていった。
二項は、常に対として同時に発生し、光のみが求められる世界へと少しずつ作り変えられていった、
全ての存在は神の名の下にその定義を矯正されることで、悲劇を生み出した。
人は認識上の中間を失ったことで正しさを迷走させた

神は
より独善的なものと変化し、人の知と哲学を許さず、賢さは奪われていった。
本質的な真意からどんどん遠ざかる人の認知の世界
神も意識体も精査が出来ないほどに劣化する知
精神はスピリチュアルと訳されるようになり
精神性を育んだ地を失ったその世界は
物質的認知活動を起こす者たちに蔑まれるようになった。

二元論として存在し、
愚かなる者同士の生きるこの大地が
過去世界である三元論の世界を再び開くには
これまでの人の歴史と、神の概念との綿密な照らし合わせが必要となるだろう。
おそらく誰も受け入れられないような、
事実がそこには存在する。
本質的な神の姿は神により語られるものではなく、
結果的には人自らの手で導き出す事になるだろうが、
おそらくその時はまだずいぶんと先になるなるだろう。

人が唯一神を殺し、真なる神を導く事ができるのだと私は考えている。


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