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30年日本史00857【建武期】光厳上皇の院宣

 尊氏が海路で打出浜から九州に逃亡したのは、建武3(1336)年2月12日のことでした。当初は7千騎程度いたのですが、船が寄港するたびに兵たちが暇乞いをして出て行ったため、大友氏泰の地元である多々良浜(福岡市東区)に着いた頃には僅か500騎に減っていました。
 ここで尊氏・直義は、嘘の催促状を九州土着の武士たちに送ることで仲間を募っています。というのも、2月13日付けの尊氏の書状で
「新田義貞は既に討伐した」
などと虚偽が記されている文書が現存しているのです。当時はこうした虚偽の風説によって兵を集めるのが常套手段だったのでしょう。
 2月17日。尊氏・直義はさらに味方を集めるため、ある作戦に打って出ました。光厳上皇から新田義貞討伐の院宣を受けようというのです。
 天皇の綸旨や上皇の院宣があれば、味方を集めることができます。逆に天皇や上皇を敵に回して戦うとなると、乗ってくる武士は少ないでしょう。後醍醐天皇を敵に回して戦うからには、こちらも何らかの権威が必要だというわけです。
 尊氏が頼った相手は、後醍醐天皇(大覚寺統)と敵対する光厳上皇(持明院統)でした。光厳上皇は鎌倉幕府に擁立されて即位した人物で、後醍醐天皇に即位を否定された過去を持ちます。鎌倉幕府を滅ぼした尊氏とは敵対していたはずですが、今となっては後醍醐天皇と対立しているわけですから、連携できるはずというわけです。
 尊氏は京へ密かに使者を送り、光厳上皇に連絡を取りました。光厳上皇はこれにすぐさま院宣を出し、2月17日に尊氏は見事院宣を手にしました。これで朝敵でなくなった尊氏のもとに多くの兵が集まってくるのです。
 この光厳上皇の院宣の存在を後醍醐天皇がいつ知ったのか定かではありません。後醍醐天皇と光厳上皇は深刻な対立を呈していたはずですが、残念ながら互いに相手をどう思っていたのかを記した記録は残っていないのです。
 こうして、南北朝の原型が出来上がりました。大覚寺統の後醍醐天皇方が南朝で、足利尊氏が担ぎ上げた持明院統の光厳上皇方が北朝です。といっても「南朝」「北朝」と呼ばれるのはもう少し先のお話です。
 かつては鎌倉幕府が擁立したはずの光厳上皇が尊氏の仲間になるというのが、非常に分かりにくい展開ですね。

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