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多様性を演出しようとすること――宮下パーク特集①

2020年8月に「グランドオープン」した、新生宮下公園「MIYASHITA PARK」を見てきた。
自分は以前の宮下公園にいったことがなく(そもそも渋谷という街はあまり好きではない)、このリニューアルに何の感慨もなかったが、その背景にある経緯からして一度自分の目で見ておかなければならないと思った。建築・デザイン・ファッション・ハイブランドなど専門的な話は何一つできないが、率直な感想を書いていく。

まず前提として、「宮下公園」の再開発はホームレスやアングラ文化に生きる人々に対する徹底的な排除の歴史である、ということを押さえておきたい。そして、新生「宮下公園」は結果的にハイブランド擁した商業施設が出来あがった。
これはいわゆる「ジェントリフィケーション」という、都市の再開発などの結果、土地が富裕化し、低所得層などの社会的弱者が立ち退きを余儀なくされてしまう現象の一環である。
宮下公園における排除の経緯については、以下の記事からある程度理解できる。
https://www.businessinsider.jp/post-217134

その日は4連休の2日目、自粛ムードにも限界が来ていたのか、施設内には人がとにかく多かった。(多すぎてあまり写真は撮れなかったほど)

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(渋谷の高架下から見上げる宮下公園の文字。街中には幻となった「TOKYO 2020」の旗が未だに掲げられている。オリンピックもまた、ジェントリフィケーションの理由付けとして最たるものの1つである。)

宮下パークは4階建ての構造になっており、1階にはバレンシアガやグッチ、ルイヴィトンなどのハイブランドが大々的に立ち並び、少し外れたところには飲み屋横丁。2階や3階は若者向けのブランドや飲食店が軒を連ねる。そして4階が運動施設と芝生とスターバックスが併存する「渋谷区立宮下公園」となっている。

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今回気になったのは宮下パークの「テーマ性」と「デザイン性」だ。
まず、どのようなコンセプトをもって完成したのか、ホームページ掲載の「コンセプト」を転載する。

卵とキャラメルが出会って、プリンが生まれた。
出会いって、愛。組み合わせって、未来かも。
公園の下に、ハイブランド。
ハイブランドの横に、飲み屋横丁。
ホテルも珈琲屋もレコードショップもギャラリーも、
混ざってくっついたらどうなるんだろう。
ごちゃっと自由に、ここは公園のASHITA。
その全部があたらしくなった、MIYASHITA PARK。
さあ開業、開園です。
ニンゲンも風も花も鳥も、どうぞいらしてください。


さて、卵とキャラメルが出会ったらプリンが生まれるっけ?という疑問から始まり、さまざまな文脈から批判されているこの広告っぽさあふれるコンセプト。
ただ、コンセプトにおいて主題となっているのは「多様性」「インクルージョン」であることが何となく察することができる。(それを小洒落た言い回しで表現しようとしてることもわかる)
排除の歴史で成立しているこの宮下パークが、「多様性」「インクルージョン」を掲げていることは大変な皮肉であると同時に、「多様性」や「インクルージョン」という概念が、どれだけ安易にインストールされているかということも実感する。言葉としての「多様性」「インクルージョン」は、言うだけならば商業目的と社会への貢献のアピールのためににいくらでも利用でき、その限界も感じさせてしまう。

しかし、宮下パークに関しては、これは単なる「コンセプト」や言葉上の問題ではないように思えた。
当パーク内におけるデザイン性にも「多様性」や「インクルージョン」の安易なインストールと、その限界がうかがえる。

例えば、この鉢に植えられた植物。隣どうし違う種類のものが植えられている。

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また中央にある花壇(?)は丁寧にセパレートされている。

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このようにコンセプトとして掲げる多様性を、デザインによって「演出しよう」という意図を強く感じる。
だが、これがとにかく居心地が悪い。多様性を演出しようとすると、見た目も美しくないし、かつ違和感が残ってしまう。ここを訪れる多くの人にとっては、このような演出よりも日本初直営店のKITHやこぎれいなスターバックスのほうが目に付くだろうし、潜在的に居心地の良い空間に一役買っているとも思えない。
そもそもあらゆるものに意味を与え方向づける、デザインという概念そのものが多様性を扱いきれるのか?本当は相性が悪いのではないか?と疑問に思えてくる。表現としてのデザインにはきっと限界点があって、その閾値を超えたデザインを試みたのがこの場所ではないか、と。


人が多すぎて写真が撮れなかったが、もうひとつ印象的だったのは公園設備のベンチ。縁に広がるベンチのほとんどが「サポートベンチ」と呼ばれる形式のものだ。
これは都会の公園にはよく見られるベンチで、安価・場所をとらないなどの理由から採用される。

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同時に「ホームレスが横になることができない」デザインでもあるし、高齢者や子供は当然座りにくいものとなっている。
若者向け施設とはいえ、まずここは「区立公園」ではないのか。パブリックな「公園」であるはずの施設が、明らかな顧客ターゲッティングを図り、それがオブジェクトのデザインにも表れているのだ。

背景としての宮下パークの排除性を切り離してもなお、デザインによって多様性を演出しきれないばかりか、むしろ排他的な方向へと意味付けを行っている。これが「公園のASHITA」なのか、と思うとなかなか厳しいものがある。

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まだツタが伸び切っていない未完成の状態であるにせよ、曇天のもと金網に囲まれ、そこかしこに赤い張り紙が張り付けられた地上4階の公園を眺めていると、まさに「まいったな2020」という気分になった。

今回の訪問を通して、デザインと多様性(ダイバーシティ)の関係性については興味深い。すべての人が利用可能なデザインを目指す概念として「ユニバーサルデザイン」があるが、この視点を絡めると疑問がいくつか浮かぶ。

①公園という場所でありながら、ユニバーサルデザインが徹底されていないのではないか
②ユニバーサルデザインは多様性を担保するためのデザインだが、それは機能としての相性の良さであり、多様性を演出することはできない。さらにこの機能としてのデザインにも限界があるのではないか。
③②から、多様性をコンセプトや視覚などで表現したところで、人々の印象は動かず、バズワードとしての役割すら果たさないのではないか。

MIYASHITA PARKはさまざまな文脈で批判を受けているが、実際行ってみてやはり居心地の良い場所ではなかった。ハイブランドは2階分の高さを誇り威厳を感じさせるし、何より公園が4階にあって地上からギリギリ見上げられる。この、目線を「見上げる」という行為に排除や格差の形態を感じてしまう。

だが、今回は人が多く、時間も限られていてこの公園内のすべてのデザインをまじまじと見ることができなかった。もう一度見学しにいって、「公園のASHITA」が実際どのような構造をしているのか、再び考えたいと思う。

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