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金太郎飴よ、なくなれ

 金太郎飴アンチではない。金太郎飴を作っている皆様には申し訳ないが、ほどよい比喩表現なので、ご容赦願いたい。世界中の金太郎飴が文化として継承されていくことを祈る。

 とはいえ、何言っているのかわからん系タイトルになった。とりあえず、いいたいことをがんばってまとめたらこうなった。個人的な超抽象的な理想の話である。

 私はよく勘違いをしてしまうことがある。私には金運がかなりないほうだと思う。繊細で怠惰な割に人と絡みたいときはとことん絡みたかったり、気まぐれでファッションに目覚めたり急にやめたり。日々生きていても、「疲れたから飲み物が欲しい、カフェに寄りたい」というタイミングが多い。浪費癖がある割には、それに見合った成果を仕事で残せていない。「優秀」という評価を受けることもあったが、長く続かなかった。頑張りすぎてしまった。その状態で果たして仕事を続けることができるのだろうか。
 そして、その状態を脱するために、もちろん見合うだけの収入をキープできるようにしたい、と思うときはあるのだが、「早く出世して、高収入を得たい」などと勘違いしてしまっていた。それは本心から望んでいることではない。手段が目的化してしまっていた。状況の改善を求める際に、思考停止的にただ欲に従ってしまうと、「カネが欲しい」に終始してしまうのである。

 個人的な感覚として、このように本当に望むものと向き合うことをやめ、純粋な欲に従った先に、色の無いたった一つの世界、結末に向かってしまうと思う。苦しみを感じず、ただ快楽だけを授受していればあとはどんな生活でも構わない、みたいな思考になりかねない。資本主義経済にしてもそうである。「利益の追求」だけを求めた結果、カネになる仕事しか発達せず、多数派に合わせた画一的な商品やサービスばかりになり、個々人には目を向けず、よりたくさんの人を相手にできる、たくさんモノやサービスを売ったもの勝ちになりかねない。生きている意味を残せればなんでもいい、有名になりたいと考え、ニュースになるような凶悪な犯罪に手を染める人も出てきてしまうのである。カネや、単なる欲望に身を任せれば、効率ばかりが求められ、強者だけが豊かな世界となってしまう。というかなっていると思う。

 個人にもっと目をむけるべきなんだろう。サービスの作り方、一人一人と深く関わりあうことの大切さ、小規模なコミュニティによる幸せの共有。こうしたことにより価値観を求めていかないといけない。サービスやものを作っていく上でも前提をグローバリズム、多数派だけの基準ではなく、個人に合わせられるものにしたほうがいいと思うし、個人が求めていくものについても同様であるように考える。
 自分が本当に求めているもの、求めるべきものは何か。五大欲求を最低限満たすことも大事だが、得れば得るほど求めたくなり、欲に溺れてしまうこともある。そこに留意しなければならない。各々の周囲の大切な人、大切なものとのかかわりを通じて、自分がやりたいことを少しずつ実現していくことが、何よりも大事である。最低限の生活が守れれば、「カネ」は重要でないはずである。
 自分に向き合ううえで、世界が広すぎることが障壁となることは大いにある。周囲のいい面ばかりが広がり、基本的に見せたいものしか見せてこないので、比較をしていくしかないのである。そこから適度にシャットアウトすることも必要である。あるいは、表面的な部分しか広がらないのも問題であろう。その場に足を運んだり、深く関わらないと見えてこないことがたくさんある。そういう意味では、世界は広がりすぎているように見えて、大事なところは広がっていないのであろう。我々が世界の中で見えていないものはまだたくさんあるはずである。

 個人で特性があり、私のように多くの人と関わることが難しい人間もたくさんいる。そうした人でも、いかに深く人と関われるかが大事になる。そうして、個人個人が身の回りの小さな世界から相手にしてくことが大事である。全員が世界の土俵に立つ必要は全くない。
 
こうして個人がそれぞれの小さな世界を構築していけば、世界中で同じものや景色ばかりが広がるようなことにはならないだろう。世界中で同じ基準を作る必要はない。世界が金太郎飴である必要はないのである。個人が世界を広げる必要はあれど、世界が同じでないからこそ、世界を広げることに意義があるし、個人が作りたい、所属したい世界を作り、育てていけることが理想だと思っている。

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