エンパス、INFP、共感性が高いからって、気遣いができるかどうかは別問題

 私は、基本的に自認であるが、エンパスであり、INFPであり、HSS型HSPであり、共感性がかなり高いほうではないかと思っている。周囲に感情(特に負の感情)を出している人がいれば、その人に様々な影響を受けやすい。逆に、喜び、楽しさなどの感情を出している場合は、それに影響されてハイになりすぎてしまうこともしばしばあるが、最近は抑うつ的な状態にいることが多いので、プラスの感情からは適度に距離が置かれるが、それでも、ある意味そのおかげで、冷静に物事を捉えられる気がする。
 ただ、基本的にデメリットを感じてしまうことのほうが多い。周囲に少しでも気分を害していたり、怒りを持っている人がいれば、たとえ他人に向けられたものだとしても、怒られているような気分になり、胃酸が少しずつ食道を登っていき、目が潤んでくるのを感じることが多い。悲しんでいる人がいれば、自分自身が心の底から共感できないとしても、その人がどれだけ心にダメージを負っているのかを感じてしまう。正確には、「感情による身体的・精神的反応やダメージを理解できる」というほうが近いかもしれない。自分にもそのような反応が起こったような錯覚が起こる。こういったことから、特にすぐに感情を表にどんどん出していくような人ほど付き合いが難しい。処理すべき刺激が過剰に多くなってしまい、体が緊張してこわばった状態のまま相手をしなければいけないからだ。そういう意味でも対人関係はスムーズにはいかない。他人と共有する時間を闇雲に増やすわけにはいかない。
 
 家に籠ってヲタク活動をやっていればいいかと言えば、あらゆる作品に対しても強い共感性を発揮する。登場人物への共感であったり、臨場感、また作品を緩衝した後でも、その余韻に浸り、自分はまだ作品の世界で生活しているのではないかと錯覚することも多い。酒を飲まずして陶酔している感じなのかもしれない。(酒が入ると余計にすごい気がする…)具体例を一つ上げれば、「僕のヒーローアカデミア」という作品がある。この作品は、マンガ、アニメ等になっており、どちらも制作者の高い技術や思い入れにより、かなり臨場感が強く、ドラマチックに描かれている。描いているものの理想の高さに憧れ、共感を抱き、マンガはかなり読み込んでいる。かといって、先ほども言ったように、いい意味で過激な描写が多く、素晴らしい作品であるがゆえに、何度も読み返すことは難しい。しかし、アニメになるとさらに話は変わってきてしまう。アニメにおいても非常に技術が高く、特に声優陣の迫真の演技には非常にハラハラさせられる。その完成度が高いゆえに、私はアニメを見るたびに体力・精神力の消費が非常に高くなってしまい、最近は見ることも難しいのである。ただ私が、音の刺激に特に敏感であるが故なのかもしれない。

 本題に入るが、上記のように私は総じて、周囲より平均的に、共感能力、特にエンパス性が高いと思われる。こうした性質についてよくよく調べると、共感性が高いので、他人に対しても気づかいをする能力が非常に高い、と言われることが多いのが雑感である。しかし、この記述はあまり的を得ていないのではないかというように感じる。

 まず、共感能力、共感性、というように書いてきたが、正確には、先述の通り「感情による身体的・精神的反応やダメージを理解できる」といったほうがしっくりくると思う。したがって、とある負の感情をもった人に対して、どういった背景からそのような負の感情や反応が出たのかについては、想像の域を出ないため、正解を言い当てることはおそらくできないし、自分自身も同じような境遇で同じくらい負の感情を持つのかどうかはまた別の話である。したがって、多くの人が描く「共感」とは似て非なると考える。共感性が高いとは胸を張って言える状態ではない。
 次に、感情を表に出さず、人知れず負の感情を抱いている人を感知できるかどうかについてだが、私の経験上は成功した事例はあまり無いように感じる。こうした能力については、個人の能力に依存しているのではないだろうか。相手の反応を見て、また些細な動きを見て、わずかに感情が漏れ出していれば、直感的に気づくことはできるかもしれないが、隠すのが得意な人もいることが多い。そうした人から本当の感情に気づけるかどうかは、訓練やメンタリストと同様に技術を習得するしかないように思う。したがって、すべての人の感情を把握できるわけではないし、その精度を上げるには訓練や知識の習得が必要であるように思う。
 最後に、気の利いた一言が言えるのかどうかであるが、こちらも先ほど同様、経験によるところが大きいように感じる。相手が今の状況を楽しんでいるかどうか、負の感情を抱いているかが分かったとして、それを切り返す一言や、相手が求めていることを実際にできるかどうかは、エンパスだからと言って簡単にわかるものではない。相手がどういう人なのかを時間をかけて知る必要があったり、出会って間もない相手であっても、世間一般的にはどういった気づかいをするべきなのかは、様々な集団に属しないと結局はわからず、こちらも経験に依ってくるのである。

 以上から、私のように共感性が高いと言われる人間が、すべからく気遣いが上手である、ということはないように感じる。ただ、まったく別ものではなく、他の人が見落としがちなちょっと漏れ出した他人の感情に気づきやすかったりはするかもしれない。気づく能力は基本的には高い。また、相手が受ける精神的・身体的ダメージがだいたいそのまま跳ね返ってくるので、相当な理由がない限り、自分からは相手の気分を害すことは言わないし、負の感情を持っている人がいれば、その場から逃げるか問題を解決しないと、自分にダメージが来てしまうので、何かせざるを得ない、動かざるを得ないことが多いのだと思う。その時に逃げるのか、問題解決に動き出すのかは、人それぞれの正義感や器量に依ってくるのだろう。

 こうして考えれば、性格や性質をタイプ分けした言葉はたくさん存在するが、似ているだけであってその人がどういった行動をとっていくのかはまた別の話である。なので、性格タイプや性質は、人それぞれの生き方のあくまで一助でしかないのだということを思い知らされる。

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