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ドラマ「フォールアウト」の真実 いかに原作ゲームを最高のドラマに昇華したか

ドラマ版『フォールアウト』が素晴らしい。ここ数年、ゲーム原作を映像化する試みはいくつかあったが、『フォールアウト』はその中でもかなり「当たり」の部類と言えるほど、優れた作品である。

では本作の一体何が優れているのか。それは原作の「ゲームならでは」の魅力を踏襲しながら、同時に「ドラマならでは」の魅力を模索し、両立させている点である。これは他の優れた映像化作品、例えば『Arcane』や『サイバーパンク・エッジランナーズ』もそうだったが、『フォールアウト』はこれらと比べても遜色ない、むしろ、それ以上に「ゲームでしか作れないドラマ」を追求していると感じた。

言い換えれば、『フォールアウト』は原作ゲームを踏まえることで、一層その魅力が理解できる作品だ。ところが、本作の「原作」は少々事情が込み入っている。具体的には「フォールアウト」と一言に言っても

・Black Isle Studioが作った『Fallout』『Fallout 2』などの、「ブラックアイル版フォールアウト」

・Bethesda Game Studioが作った『Fallout 3』『Fallout 4』『Fallout 76』などの、「ベゼスダ版フォールアウト」

・Obsidian Entertainmentが作った『Fallout: New Vegas』などの、「オブジディアン版フォールアウト」

など、MCUよろしくサーガが込み入っているうえ、何より、ドラマ版『フォールアウト』はこうしたそれぞれのサーガにちゃんと目配せをしながら、それぞれの魅力を昇華させ、その上でドラマならではの魅力を両立させているのが圧巻である。

そこで本稿では、そもそもゲーム版「Fallout」は他のポスト・アポカリプスと比べて一体何が優れているのか説明した後、それぞれのスタジオによるサーガごとの差異を検討しながら、そうしたゲーム版の魅力をドラマとしてどう昇華させたかを、実際の作品内容と照らしながら考えたい。

こうした前提を踏まえることで、ただドラマ版『フォールアウト』をより楽しめるばかりではなく、そもそも日本であまり知られていないゲーム版『Fallout』も、とりわけBlack IsleとBethesdaの対比や、ポストアポカリプスとしての映画や小説との比較を踏まえて、ドラマ・ゲームを超えた「フォールアウト」という一つのサーガそのものを包括的に批評した記事となっている。

色々と既存のメディアやSNSでは読めない内容も盛り込まれているはずなので、ぜひゲーム版「フォールアウト」のファンや、戦後アメリカ文学に興味があるという方にも読んでいただければ幸いだ。

※:ドラマ版フォールアウトの核心的なネタバレはありません



戦後アメリカにおけるポスト・アポカリプスの意義

さて、まずゲーム版/ドラマ版「フォールアウト」について検討する前に、そもそも「フォールアウト」って何がすごかったのかという話を、その祖先であるポスト・アポカリプス文学の文脈から説明したい。

まず、「フォールアウト」に共通する大まかなストーリーを説明しよう。


かつてアメリカ合衆国と呼ばれた国家は、中国(ドラマ版では誤魔化されている)との全面戦争によって一帯が焦土となり、文明もろとも大半の人口は死に絶えた。しかし、一部の選ばれたアメリカ市民は「Vault」と呼ばれる地下シェルターに避難し、生き延びることができた。そして核戦争からしばらくした後、主人公はこのVaultから脱出し、地上に出る(※)。

すると地上には、理性を失ったレイダーと呼ばれる暴徒たちや、武力によって一帯を支配する何らかの派閥、そして異形と化したアボミネーションたちが徘徊する、まさに世紀末が具現化していた。主人公は己の目的を達成するため、この危険極まりない地上へと足を踏み出すのであった──。

(※:『Fallout 2』はアロヨ、『Fallout: New Vegas』はグッドスプリングス)


「フォールアウト」はもっぱらこのようにして物語が始まる。こうした物語は、一般的に「ポスト・アポカリプス」と呼ばれる。アポカリプスは終末、ポストはその後を意味しており、主に核戦争などによって人類の文明が崩壊した後に、それでも生き抜く人々を批評的に描く作品を、主にポスト・アポカリプスと呼ぶ。

このポスト・アポカリプスだが、当然ながら「フォールアウト」が初出というわけではない。むしろ文学のテーマとしてはかなり古典的な部類にあたる。

実際歴史を振り返れば、初代『Fallout』が発売した1997年には既に『マッド・マックス 2』(1981)『北斗の拳」』(1983〜)のようなポスト・アポカリプスはポップ・カルチャーにも進出していたし、それ以前の文学レベルならハーラン・エリスン『少年と犬』(1969)、ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録3174年』(1959)、ネビル・シュート『渚にて』(1957)など1950年代にまでさかのぼれる。

そもそも、小説以前から世界中に終末を前提とした信仰、逸話は多数あり、その点では非常に普遍的なテーマだ。しかし、その中でポスト・アポカリプスの累計が一つのスタンダードとして確立され、これほど普遍化した前提には、戦後、世界が面した「核」に対する恐怖があることは、言うに及ばない。

アメリカの日本の広島・長崎に対する原子爆弾の投下により、たった1発の兵器が世界を滅ぼしうる……すなわり「アポカリプス」たりうることを目の当たりにしたことで、皮肉にもその加害者であるアメリカ内で、核、ひいては核兵器を持つ共産主義国家に対する恐怖が増幅した。

戦後、「核」は現実的な恐怖となった「E3 2008 Fallout 3 trailer」より

中でも『渚にて』『少年と犬』『黙示録3174年』は直接的にこの「核の恐怖」を背景にしたものであり、それは「フォールアウト」シリーズにも継承されている。

具体的には、「フォールアウト」シリーズの発端は「大戦争(The Great War)」と呼ばれる核戦争から始まり、さらに作中にも何らかの形で核兵器や核エネルギーが登場する。このポスト・アポカリプスの土壌から展開される反核的テーマという点も、従来作と「フォールアウト」の共通点だ。


ポスト・アポカリプス文学の興味深い点は、この「核」に象徴される外国(主にソ連)に対する恐怖のみならず、自国の「内側」へと向けられる「対内的恐怖」も寓話的に描かれる点である。

特に戦後に核兵器への恐怖が高まると、次第に核を持つ仮想敵、つまり共産主義に対する恐怖が蔓延することを恐れた。中でも有名なものが「赤狩り」「マッカーシズム」と呼ばれる、共産主義者に対する排斥運動だ。これは表面的には共産主義者がソ連や中国のスパイであるとみなし、政治家や官僚、果ては作家や俳優までも排斥した運動だが、実際には単に政府や大企業などアメリカ国内の問題を批判しただけで、即ち共産主義者として陥れる事例が跡を絶たなかった。

共産主義のスパイが自国にいる恐怖にもアメリカは支配された 画像は『Fallout 76』より

また戦後、爆発的な経済成長に伴い、未曾有の物質的な豊かさを享受する当時のアメリカは、それと引き換えに大規模な公害、環境破壊、労働問題といった問題を引き起こしていたし、その一方、アフリカ系アメリカ人を中心とする非白人、同性愛者への根強い人種差別の意識が顕在化する時代でもあった。

ポスト・アポカリプス作品は、こうした当初のアメリカにおける対外的・対内的問題を批評的な視点から扱っており、更にこの問題意識は「フォールアウト」シリーズにも継承され、現在へと至る。

例えば、ハーラン・エリスン『少年と犬』では物語中盤まで核兵器によって荒廃した地を渡り歩く中で、その核の恐怖を読者に訴えるのだが(この間にはスーパーミュータントやフェラル・グールの元ネタになったであろう「放射能鬼」なるアボミネーションも出てくる)、中盤から訪れる地下世界「ドロップシャフト」では、作中の「Vault」と同じような管理社会の負の側面が浮かび上がる。

かたや、ウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録3174年』は(初代『Fallout』開発者、ティム・ケインがリファレンスに挙げた)同様に中盤まで核兵器による破壊と恐怖を描いているのだが、その恐怖に面した人々により「単純化運動」なる焚書運動が高まり、知識人や宗教家が次々に弾圧されていく。これは明らかに先述の赤狩り・マッカーシズムを反映したものでありながら、同時に、「フォールアウト」シリーズ(特に1、2)における科学・宗教の倫理的限界を相対化することで露呈していくメインストーリーとも共通している。

筆者撮。黙示録3174年は絶版につき、注意。

このように「フォールアウト」シリーズは、特に戦後間もないアメリカにおける「核」に象徴される対外的恐怖と、「反共」に代表される反知性的な欺瞞が反映されたアメリカSF文学に立脚しながら、これを実直に継承していった作品であることは明らかであろう。

特に「フォールアウト」が頑なに、1950年代(で停滞してしまった未来)のアメリカ的な世界観にこだわり続けるのは、現・Bethesda代表のファーガス・アーカートが「我々はこれからも1950年代を追求するし、それは作中に表面化していくだろう」と語ったことにも現れている。


アンチ・ファンタジーにしてアンチ・RPGだった『Fallout』

このように、古典的なポスト・アポカリプス文学の背景にあった対内・対外的なメッセージを継承した「フォールアウト」だが、一方で、本シリーズが誕生するにあたって文学とは別のベクトルでのアンチテーゼであったことも踏まえる必要があるだろう。

まず初代『Fallout』は1997年、Interplayの傘下にあったBlack Isle Studio(以下、ブラックアイル)によって開発された。本作の開発者の1人、ティム・ケインは、本作の着想の一つとして現状のRPGに対する懐疑があったという。

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以下、有料部分には

「初代フォールアウトは”RPG”どう変革したか。同時に従来のポスト・アポカリプス文学をどう継承し、ゲームの体験へ落とし込んだか。」

「ベゼスダはフォールアウトの継承にあたり、何を奪い、何を失ったのか。ベゼスダ版フォールアウトが「RPGではない」理由とは何か。」

「ドラマ版フォールアウトがブラックアイル、ベゼスダ、オブシディアンの魅力を踏襲しながら、それを「ドラマでなければ描けない表現」にどう昇華したか。特にゲーム・ドラマ両方を批評するJini独自の論点としてネタバレ抜きで解説」

「ドラマ版フォールアウトが向ける、”ポリコレ”に端を発するウォーク・キャピタリズムへの批評性と、ハリウッドに対する意識」

「『少年と犬』がもたらしたポスト・アポカリプスの「危険性」とは何か。誰もが無意識に消費する「ポスト・アポカリプス」の真の問題とはどこにあるのか」

など、かなり盛りだくさんに展開しています。ドラマ版「フォールアウト」を楽しむだけではなく、ゲーム版「フォールアウト」のファンの必読の内容になっていると思います。あるいはポスト・アポカリプスや戦後アメリカを考える上での重要な論点も提示していますので、興味があればぜひ。
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