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Always with me.

しつこくてしつこくて、もう何度目なのよ…という
なにものかになれそうだと期待する自分もぞもぞ…

わかっている、なにものなんぞは無く
わたしはわたしでしかないのだし、
それで完璧花丸合格百点大拍手なのに
自分の中のかすかな一部分がまだそこで隙あらばとゆらゆらしていた。(隙ってなんだよ)

予兆のようなものといえば
買い物衝動、家族の機嫌、部屋の乱れ。
家のことや子育てに向き合うことが
本当はこころが落ち着くことなのだと知っている。
そこを許可していたはずだったのに、またゆらゆらとしていた。
と、そんな風に自分にダメ出しをすると同時に、生活をやっていくなかできっとまた繰り返していくことなのだろうと、天を仰ぐ。



千と千尋の神隠しのエンディングで流れる「いつも何度でも」という曲がとても好きだ。聴くといつも涙が滲む。悲しいのではない、心が震えている。
この曲に出会ったころ祖母が亡くなったということもあり、当初はこの曲に別離を重ねていたのだけれど、最近になって印象が変わってきている。
「いつも何度でも」を英訳すると「Always with me」になるそうで、これを知ってかなり衝撃だった。あぁ、そうか、いつも何度でも一緒にいることを知るということなんだ。誰と?…自分と?

なにものかになれそうだと期待する自分が出てくる時には、本当に心が落ち着く私の姿を思い出すことがセットだ。
なにものかになれそうだと期待するトリガーはいろんなところに美味しそうに転がっていて、誰かと交流したり何かを見たりしている時にいつの間にかそのぬるい沼にはまっていて、けれども「本当に心が落ち着く私の姿」は、いつも同じ場所にある。同じ場所というか、同じ自分。ここにいる(在る)私。いつも同じ場所に在る自分を何度も確認して、ゆるしていく。

海の彼方には もう探さない
輝くものは いつもここに
わたしのなかに 見つけられたから

いつも何度でも/木村 弓


そんなことを改めて巡らせて天を仰いでいたら
急にふるさとの小樽でみた空のことを思い出した。
それもまた、きっとこれから何度も思い出す風景で
その時に孤独を感じていたような自分も
確かにいたのだと、しつこく何度でもゆるしていく。

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