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2023.5月〜6月_その2

ねぇママ、どうしてもりのようちえんにいこうとおもったの?

6月の森のようちえん土曜日クラスに向かう車中で
ちょうど山道にさしかかった頃に娘から言われた言葉だ。

核心をつく質問をあまりに唐突にされ、しかも山道を運転中だったために一瞬えっ?っとなってしまった。そして確かひとまずこう答えた。

「うーんとね、自然の中でダイナミックに遊ぶと楽しいかなぁと思って!」

言いながら、私はなんて娘に合わせたようなことしか言えないんだ...と、決して間違ってはいないのだけれど...と、思いながらも自分の言葉の軽さに少々絶望した。だからもう少し付け加えよう、現時点で私が話す言葉の全部を理解できなくてもいい。このパッションがわずかでも伝わればと思い、もう一度、次はなるべく頭で考えずに出てくるままにこう言葉にした。

「あのね、森に入ることや、木とかお花とか葉っぱとか土とかを触ったり大地を踏みしめたりできることを、私たちは許されているんだって知って欲しいなぁと、ママは思ったんだよね」

娘の反応は「ふーん」というくらいだったけれど、私としては気持ちをよそいきにせず外に出すことができて、とてもしっくりきていた。
「私たちは森に許されているんだと知ってほしい」
どの目線で言っているのかもわからないけれど確実に自分から出たその言葉に高揚して、私は森までの道に瑞々しい光を見ていた。

この日の森での娘は、前回に比べて視界が広くなったようで動きも表情も上向きで前向きだった。やはり知っていると知っていないとでは全然違う。人生経験が圧倒的に少ない子供にとっては、このケースだとだいたいこうなるなと大人のように予測することは難しい。逆に言うと、そういうことを大人はわかっていなければとも思う。大人は予測ののちに的確な判断や危険回避ができてしまうのでつい子供たちにいろいろと言ってしまうが(例えば安心させようとよかれと思って)、子供は知っていないことで楽しんだり知っていないから失敗したり知っていないおかげで発見したりできている。そういった『知っていない』という機会を私たちからのひとことで必要以上に奪ってしまわないように気をつけなければ。この小さい人が見るもの感じることは、誰からのジャッジもうけることなく、すべてがもれなくWonderなのだ。

そうやって自分で見つけた『知っている』をいくつも手にして、その日はいきいきと森で過ごした。



森のようちえんに行った日の夜のこと。
寝る前に絵本を2冊ほど読むのがルーティンなのだけど、その日は絵本を読んでいると急に娘が「保育園で先生に小さい赤ちゃんがいるからぎゃーって泣かないでって言われて悲しかった」というようなことを言った。
最初、何のことかわからなかったけれど確かに登園時にギャン泣きした日があったのでもう少し詳しく聞いてみると、朝、私とバイバイするのが嫌で泣いた時に対応してくれた先生に「泣かないで」と言われたとのことだった。
ちょうどその時は夫も寝室にいて話を聞いていたのだけど私も夫もびっくりして、これはちょっと先生に話を聞いた方がいいねということになり、私はその場で連絡用のアプリに詳細を教えて欲しいということを書き込んだ。
娘には「それは悲しかったね」ということと「話してくれてありがとうね」ということを伝えて、抱っこをしてその日は寝かせた。

週明け、先生に呼び止められて「その時に対応したのは私です、申し訳ありませんでした」と言われた。どうやら大雨の朝でギャン泣きの娘を外に連れ出すこともできず園内を抱っこでお散歩していた時にちょうど赤ちゃんのクラスの教室の前に差し掛かり、そこでは寝ている赤ちゃんもいるのでちょっとぎゃーって泣くのはやめてな。と言った、という状況だったようだ。

娘の泣き声はよほど大きい声だったのかもしれない(わかります、)けれど、泣くことを我慢させるのではなく目の前の子供の気持ちに寄り添う方を選んで欲しいですということを伝えて、この件については終わらせた。
だが翌日、この春から着任された園長先生に呼び止められて改めて言葉をかけてもらった時に、私はその園長先生のことは信頼しているのでつい「入園当初から抱いていた違和感が現実化したのかなと感じてます」と伝えて、彼女の表情を曇らせてしまった。でもそれが正直な感想だった。


そういえば、大泣きした雨の日から娘は登園時に泣かなくなっていた。泣いていないという姿は悪いことではないが、一連の出来事があった後なのでそれが本人にとって無理や我慢になっていないかが心配ではある。本人なりにママが迎えにくるまでここで過ごそうと心を切り替えたり、楽しみを見つけたり、お友達が支えになってくれていたりしているといい。無理や我慢ではなく、心が強くなるという意味での少しの忍耐と信頼の内包という姿の成長でありますように。



登園時に泣かなくなってから少し経ったある日の夜、めずらしく粗相をした娘。寝る前に水分を摂りすぎたかなと思いながら寝ている娘を着替えさせてシーツを取り替えた(その間も起きないのが本当に不思議)。
翌日、登園前に熱をはかると微熱の様子だったけれど元気そうなので高くなってきた気温のせいかなと思い保育園に送った。けれども午後になって保育園から発熱があるのでということでお迎え要請があり、行くと38度になっていてぐったりしている。家に帰るころには39度を超えるほどに上がっていた。流行病ではなかったが夜中に40度にまであがって苦しそうだった。久しぶりに眠れない夜。朝になり熱はかなり下がったのでその日は自宅で安静にして、翌日から保育園に復帰した。

振り返ると、今回の発熱は新潟から奈良への引越しや新しい保育園といった環境の大変化への適応の疲れによる発熱だったように思う。解熱してからは「登園時に泣かなくなった」という感じから「自ら登園する」という感じに変わった。もちろん、疲れた時などは「今日はママに早く来て欲しかったぁ!」とぐずる日もあるが、成長という形で娘の中の何かがどこかに収まってくれたのだろう。

そういえば娘が赤ちゃんの時にThe Wonder Weeksというアプリを使っていた。これは赤ちゃんの成長とともに起こるメンタルリープ(=脳の急成長による超絶ぐずり期)を計算してくれるもので、我が家はこのアプリのおかげで何をしても泣き止んでくれない(または機嫌が悪い)時期を「いまリープだから仕方ない」「もうすぐリープだから諦めよう」といった具合で乗り越えることができたんだったと思い出した。



心と身体は繋がっている。
社会生活でのストレスで限界を超えてしまって倒れる大人がいるように、月経が近づくと苛立ってしまう私がいるように、子供だって自分の体の急成長に心(脳)がついていけなくなったり、心が強くなる時には体も強くなろうとしている。全力でもっともっと生きるという前向きで本質的なそれを、違和感をもっている環境に放り込んだままでいいのだろうか。もっと心のままに生きることを許される場所があるのではないだろうか。そんなことを日々考えている。

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