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灯りこぼれるこの窓

夕方に近くの商店で祖母が買ってきた焼き鳥を、ご飯に豪快にのせて食べるのがすごく好きだった。高校生の時の記憶。

大人だけで語り合う焚き火のワークショップがあるのでどう?とお誘いをうけた時、ふたつ返事で「行きます」と言った私は、日程だけ確認してすぐさま夫に娘をよろしくとメッセージを送った。

しばらくして、主催者からワークショップの詳細の連絡があり、私は見た瞬間「無理だわ」と自分ごとでは無くしてしまった。
そこには想定していたよりも倍くらいある開催時間が書かれていた。
終わり時間は19時。

森のようちえんに通っている娘のお迎えは13時半ごろ。そこから車で山をおりて必要な用事や買い物をゆっくりと済ませて帰宅するのはだいたい15時。炊飯器をセットしてお味噌汁の出汁をとってから、娘と遊ぶ時間をとる。17時くらいにはキッチンに立ってゆるゆると夕飯の支度。そして18時に「いただきます」。そんな毎日を過ごしている。

だから、ワークショップが19時に終了すると聞いた時には、参加を断るか、途中で帰らなくちゃ。とすぐさま思った。
途中で帰るとして、夕飯の準備があるから16時には家にいたい。そうなると15時くらいに迎えにきてもらうことになるか… と。


そんなことを考えていたらだんだん面倒になってきて(完全に自分自身の問題)、焦った気持ちで途中抜けする自分を想像してもやもやしたり、参加費もかかるのに半分くらいで抜けるってもったいないなともやもやしたり、いつものように過ごしていれば(どこかに出かけるというイレギュラーなことなどなければ)こんなもやもやも無かったのにともやもやしたり。とにかく全体的にもやもやしていた。

そうこうしていたら夫の方で用事が入ってしまって、結局今回のワークショップには参加ができなくなったので正式にお断りした。

正当な理由?でお断りした私、めちゃくちゃほっとしていた。
いろいろと考えなくてよくなったからだろうけれど、それにしてもどうしてこんなにもやもやするのだろう。
よくよく自分と対話してみたら、どうやら、夕飯の時間に家にいない自分が許せないみたいだ。なぜ?

夕方に近くの商店で祖母が買ってきた焼き鳥を、ご飯に豪快にのせて食べるのがすごく好きだった。祖母が作る料理はそんなに好きじゃなかったから。

私が8歳の時に両親が離婚したので、我が家は私と母と母方の祖母との3人暮らしだった。母は会社員として仕事をしていたので日々の夕飯は祖母が作っていた。そしてそれをだいたい2人で食べた。母の帰宅を待ちながら。
なんとなくのテレビがついたまま、それを見ながら会話もなく食べる。
また、祖母の食も細くなっていたのでほとんどひとりで食べているような日も多くあった。

そんな夕飯の記憶は、あらためて思い出してみるとかなり暗いものだった。
リビングの照明は明るくついているし、テレビだってうるさいくらいの明るさだったはずなのだけど。記憶の中のその光景は暗い。

夕飯の時間に家にいない自分が許せないのは、この、実家での体験がもとになっているようだった。夜に外出することへの自分で自分にむけての無言のブロック。自分のような思いを子供にさせたくない、させてはいけない、夜に外出してはいけない、夕飯は子供と一緒に食べるのだ…。

私の料理嫌い(と自分では思っている)はこれも影響しているかもな、と。
食事をすることに思い入れもないし、あたたかな記憶もきっとない(と思い込んでいる)んだろう。そんなのが嫌だったし、暗い記憶だったのだ。

しばらくの自己対話と寄り添いのあとで、ではどうしていきたいか?という問いに向き合う。暗い記憶を持っている私は確実にいた。認識した。ではそこからどうするか? 今、私のいる場所はどんなところ?

今ここ にいる私はあの頃の自分ではないし(成長して変化しているという意味で)、目の前にいる娘は当然ながら私ではない。
夕飯を一緒に食べるということを大切にしたいというのは、いいと思う。ぜひそうしていこうではないか。私はそうしたいのだから。

ただし、自分のトラウマ化した記憶や不安や悲しみや後悔を、娘や夫に投影するのは違う。自分が経験してきたことは財産であるし、これから生きていくうえで危険回避のために役立つことや、もっと幸せやよろこびを感じることへのヒントになると思う。けれども他人(特に娘)を巻き込んでの先回りは本当に気をつけたい。私と娘は違う人間なのだ。目の前の娘や夫を正しく見ること。もしかしたらたまに母がいない夕飯を、ふたりは楽しむかもしれない。私だって夫が不在の夕飯を、外食やいつも食べないような献立を試して楽しむことだってできるのだから。


目の前の世界を、悔しさをバネに作り上げたいわけじゃない。
私の希望のもとに、幸せのもとに。
表裏一体であるこの視点も、すべて自分次第で書き換えていける。

家々の窓からこぼれる灯りをみあげて、
あたたかさと安心を感じられるようになった自分に喜びを。

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