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ステイホームの影響だったんだと

数年前のことですね。もうね。
引きこもり状態に居心地の良さを感じまくっていたコロナ禍にあって、インターネットサービスは盛り上がっていた。
盛り上がっていたと言うか、行き場を失った欲が煮詰まっていただけかもしれない。

従来通りの遊びができないから、インターネットの代替物を試していたのであって、インターネットにあるそのことが目的ではなかった人が、大多数を占めていたんだと、今になってわかる。

スポーツ↔︎ゲーム
観劇↔︎配信サービス
演劇↔︎声劇

ある意味、残り続ける人は、たぶん、その前から関わっていた人で、今、姿を見ない人は、本来の居場所や趣味へ帰って行ったんだと。
ステイホームの影響で、インターネット上の広場へ来ていたのだけれど、もう、帰ることができるから帰って行ったんだなぁと思う。
まるで、ホームステイの学生のように。

本来は交わることのなかったジャンルの人たちが、渦の中で関わりを持っていたのかもしれないと思うと、濃密な時間だっただなぁと、懐かしく思う。

その一方で、インターネット過疎地のような現象が、現れているような気がする。サービス終了という現実もあるから、観測は難しいだろうけれど、ピーク時に100だったアクセスが、2〜3になっているようなことはあると思う。

その、2〜3のアクセスのために、その世界が維持されているのは、放置か有志か、低コストの恩恵だろう。
それはまるで、過疎地のそれかもしれない。

過疎地は、政治の放置と、他の地域の住民からの再配分による負担の分散だ。ダムがあるから存続する自治体とか大企業があるから単独で「町」を形成している自治体なんかは、有志が集まって維持している状態に似ているかもしれない。

あの盛り上がりを取り戻すためには、住民を増やすしかないし、関係人口を増やす取り組みが必要なのかもしれない。
が、あの盛り上がりが、コロナ禍の呪いであれば、もう二度とあの状態にはならないとも言える。
だから、変にバブル期の再来を願うあの頃の大人たちの二の舞にはならない方が身のためだし、二度と来ない幻をKPIに落とし込んで落胆し続けるのもやめたほうがいいのだと思う。

過疎地には過疎地の存在意義を改めて見出すことが、必要かもしれない。

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