見出し画像

胆振東部地震で被災した社畜オタクがアイマスに救われた話

2018年9月6日3時7分

北海道胆振地方で観測史上6例目となる最大震度7の地震が観測された。

記録は風化しないが記憶は風化するな…と毎年この時期になると感じていた。

一人のオタクの身の上話にはなるが本当にアイマスに救われたのでそんな話をしたいと思う。毒にも薬にもならないとは思うが震災の話とハラスメント的な話するので(オブラートには包むが)苦手な方はブラバか目次を使って「いざ前橋」まで飛んでください。


プロローグのような自分語り

当時自分はまだアイマスのライブに行ったことがなかった。
ちょうどシンデレラの5thSSAアンコールライブに、たまたま東京におり、知り合いに誘われて会場限定のCDを買ったりしていた。
(名盤と名高いDance to Dance)

そんな折、なんとなしに応募したゲーム先行でSS3A公演のチケットが当たってしまったのだ。デレ台湾ライブのビューイングに行ったり前述の通りちょうどアイマスライブに興味があった頃だったのでウキウキで飛行機を予約しホテルを取り有給も割と自由に取れてきて色々と楽しい時期だった。

震災と社畜とパワハラと

地震前日の夜にこんなこと言ってて少し怖くなった。

9月6日3時7分 胆振地方中東部を震源に震度7を計測
   3時9分頃まで北海道電力苫東厚真2,4号機が脱落
       程なくして道東エリアで全域停電
   3時19分頃まで道東で一時復電
   3時20分頃苫東厚真1号機出力低下
   3時25分苫東厚真1号機停止
   周波数低下により連鎖的に道内各電源が停止
   同時刻 ブラックアウトが発生

電力の詳報は下記にまとまっています。

https://www.occto.or.jp/iinkai/hokkaido_kensho/files/181219_hokkaido_saishu_honbun.pdf


地震直後に風呂に水をためガスの元栓を締め停電を確認したのでエレベーターのあるマンションだったので非常階段の鍵を開放して扉を固定。

このときはまだSNSを見ていたと思う。道内全域で停電という噂で家の周辺と札幌中心部まで(職場もあったので)自転車で状況を確認していた。

当時信号機も全て止まっておりとても現実の景色とは思えなかったことを覚えている。また前日夜の雨が上がりとてもよく晴れていた。

道路の隆起や陥没がところどころに見られ、コンビニ等も電気が全滅していることを確認して家に帰った。


本当にモバイルバッテリーで救われるとは当時思っていなかった。

少し前に触れた通り会社は歩いても行ける距離で当時新卒のペーペーであった自分が上司からの連絡を断れるわけもなく出社。震災時の仕事がある職場なので臨時要因としては仕方ない部分もあったがひとり暮らしの部屋は荒れており、現時点ではこれからどうなるか全くわかっていなかった。

この時点で地震発生まで数時間しか寝れず未明で状況も分からず、兎にも角にも仕事に行かされ、非常に心身ともに疲れたことを記憶している。

職場の人達が家族と今後の確認などをしているとき自分は、自分以外は”長”がつく人たちと地震の状況確認、週明けから本格的に行う点検や応援要員の受け入れ準備、資料などをまとめとにかく準備をしていた。

この頃になると、みんなこの地震の影響がヤバいことに気づき始め、6日未明に自分が確認したとき停電して閉鎖していたコンビニに人が殺到し電源もない中で店員に手計算で商品を無理矢理でも買い、食品や備品を購入していた。セコマの対応は素晴らしいと思うが、一方でこのときに接客業にトラウマを植え付けられた人もいたと思う。そんな話を聞いたのは地震から数ヶ月たった後だった。

9月6日夜、暗い中家に帰りほぼ月明かりの中荒れた部屋で呆然とした。職場から家に帰る途中の店という店は完全に閉まりきり(商品という商品がなくとても丁寧な強盗にでも入られた後のようだった)冷蔵庫にはこのときほとんどの食材がなかった。また、この頃は基本的に3食自炊をしており、火がないと食えないものしか家にはなく、インスタント食品などはない状態だった。

9月7日、前述の通りほぼ水だけで過ごしているため仕事をするため、また職場の水だけで食べられるようになるおかゆのようなものを食べるため仕事をしに出社した。このおかゆのようなものがまた最悪なことにまずく、腹が減っているのに食うのを躊躇するレベルであった。このとき(幼女戦記をこんな実体験に沿って読めることになるとは)なんてことを頭によぎった。

そんな状況でただでさえ家が近いというだけで自分だって被災しているのに頑張って仕事をしていたら帰る頃になり上司連中が当然のように

「土日も来れるよね?」

なんてほざくのである。これの前に気力だけで仕事をしていたので話す余裕すらなかったがこのオッサン共は家族総出で買い出しに行っており、家には食べるものも自家用車での発電もして電気も困ってないようである。
庭付きの一軒家の奴はキャンプ気分だなwwなんて呑気にほざくのだ。

震災時に陰気になりすぎるのは良くないと思ってはいるが、片や食うモノもまともに寝れるところの確保すら一生懸命だった自分はここでプッツンと何かが切れた。

もう長連中になんて言ったかも覚えていなかった。飛行機の運行が再開していることを確認して東京に飛ぶことに決めた。帰ってきた後、まるで腫れ物のように自分が扱われるなら即刻こんな会社辞めてやると思っていたのだけは確かだった。

そんなこんなでろくな食料すら手に入らない現代の餓死寸前の社畜と精神的に参ったオタクが2つの意味で救われるため東京に飛び群馬へと行った。ちなみに物流が再開したのは8日頃で土日も働いていれば自分がまともな食料にありつけるのはもう数日あとになるところであった。
(しばらくはスーパーの開店前やコンビニのトラック搬入の前に人が並ぶような状況だった。)
俺がまともな社交性を持ちコミュ強であれば上司の家にお邪魔し馳走に預かることも出来ただろうと振り返れば思えるがとてもではないがそんなことを言える状況でもなかった当時だった。

辛気臭い話はここで終わり。ここからは本当の意味で救われたオタクの話です。

いざ前橋

食料を買い込むためデカいリュックと空に近いキャリーバッグを転がし羽田空港へ飛び群馬へ鈍行で揺られていった。

都内の景色は当たり前だが日常で、たった2日間だが異常な世界に身をおいていたことを振り返りなんだか変な気持ちになったことを覚えている。

デレステにARが直近で登場し何人か撮影しているのも見かけたと思う。
Twitterに記録していないので何を食べたかもあまり覚えていないが1日目はチケットがなかったので前橋のイオンでライブビューイングに参加した。当然前売りを買う余裕はなかったが当日最後の数枚だったと思うが買うことが出来て本当に良かった(当時は配信がなかった)。本当にすごくいいライブで、自分が今までアイマスにハマり続けたのは間違いなくこのライブ体験があったからだった。

9月9日

ホテルで本当に最悪だが何度も夜中に飛び起きてしまった。

この日は前日8日と違い朝から前橋を散策した。
参加した方は覚えていると思うがなんとちょうど前橋駅前でお祭りが行われていて、沿道の飲食店などが出店をだし、和気あいあいとした雰囲気だった。

ここでのやり取りは本当に心に残っている。
屋台の人、歩いている人たちはみんな本当に笑顔で、今でいうと思ったよりオタクは少なく地元の人のほうが多いくらいだった。

串焼きとカレーを買って食べたがこれよりうまい飯はもしかしたら死ぬまでないかもしれない。当たり前だが状況が状況だったからだが。
カレーを買ったおばちゃんと何気なく交わした他愛ない雑談をして泣きそうになってしまい、結局カレーを食いながら泣いていた。
かなり変なオタクだったろうからそれだけは反省しきりである。ほんまに。

今でこそ「でらます」という形で地域と密着したコラボなどが行われているがこのときはコラボ要素はこういった”もじり”や丸めたソーセージをネタにしたりといった程度ではあったがこれだけでも当時はかなり感動ものだった

ちなみにこれが原因で行ける年は毎年4月14日か10月31日に前橋に通うオタクが爆誕した。昔の人が山に入り神社に熱心にお参りしてたのもこんな感じだったんだろうか。


かき氷はとても美味しかったしちゃんと頭がキーンとした。

そしてライブへ

本当にすごかった。さっつんに完膚なきまでに落とされた。
本当にすごい∀NSWERだった。

Flip flopのRemixは特別涙腺に来る曲ではないと思うがまともじゃない精神状態で浴びたのでほとんど反射で未だに泣いてしまう。

イリュージョニスタも泣く。

そんな数々の爪痕を俺に残していったライブだった。

クレイジークレイジーもここで浴びておかしくなったのが、東京でクラブに通う遠因のような気もする。

このタオルはまだちゃんと保管しています。ライブで鼻血出すなんて思いもしなかった。直前の不規則な生活とストレスだとは思うが。

このライブで本当に心身ともに救われた、楽しい、って感じることがメンタル的にどれだけ大事かここで心の底から思い知らされたように思います。

ライブが終わった後本当に熟睡した、夜中に揺れを感じて起きることも名前を呼ばれた(ような気がして)飛び起きることもなかった。本当に前橋に来ていなかったら今の自分があったとは到底思えなかった。

帰りにドンキホーテで缶詰とかインスタント食品を買えるだけ買いました。

北海道に帰った後、特段自分が悪く言われるようなこともなく(そもそも初動対応していたのは社員は自分だけではあるが)ほんとうの意味でリフレッシュして仕事に復帰することが出来た。

ちなみにこの地震で1ヶ月で10kgほど痩せました。買い込んだとはいえなかなかつらい期間だった。(すぐリバウンド?したが)

エピローグのような思い出語り

地震のあった厚真町はふるさと納税でジンギスカンなどがあったりします。
味は道産子の自分が保証します。実際に次の年にふるさと納税で食べました。こういった使い方ができるのもふるさと納税のいいところだと思う。

毎年毎年、震災の日になるとちらっとでもニュースがあると思う。
悪いこととは言わないが気疲れするのも正直なところだと思う。

当時実際に被災した人々が当時に思いを馳せる―――
だけではやはり防災意識が風化してしまうのもまたわかる。

なのでつらい記憶にはセットでなにか、明るい、希望を感じるようなエピソードも紐づけたいと思う。その点で言えば自分は幸福だったのかもしれない。

でもこんな機会なので防災グッズなんかを確認してみるのもいいのかもしれない。これからも健康にオタ活をするために。

取りとめない文章でしたが最後まで読んでくださった方へ感謝を。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?