飴って立派な生薬なんです

漢方生薬の1つに膠飴(こうい)があります。米や小麦から作られる飴です。膠飴が入る小建中湯も大建中湯も消化器疾患に使う処方です。中薬学の本を見ると、その効能は補気権胃、潤肺止咳と書いてあります。潤肺止咳のほうは、まあ日常的な経験によるものでしょう。のど飴は一般に広く使われているわけで、飴をなめると咳が治まるというのは、対症療法ですが広く知られていることです。



しかし膠飴の本質はまさに補気だと思います。気を補う。ここでは非常に単純な意味です。吸収しやすいエネルギー補給になるという事です。



先日糖尿病の話でも書いたように、糖は人間にとって基本的なエネルギーです。しかし自然界で糖が直接手に入るというのはなかなかありません。サトウキビなどが取れるところは別ですが。基本的には穀類を中心とした炭水化物を消化分解吸収して糖にするわけです。しかし小建中湯や大建中湯を使わなければならない時というのは、胃腸、特に腸に問題があってこの消化吸収機能が非常に落ちた状態です。炭水化物を消化吸収出来ないという事は、基本エネルギーである糖が不足することですから、それをどうにか出来なければ死に繋がります。今は別に数日食べられなくたっていくらでも栄養補給の方法はありますから死にはしませんが、でも神経性拒食症などは死にますよ、今でも。



これらの処方は張仲景(ちょうちゅうけい、チャンチョンジン)が作ったことになっています。張仲景は今となっては半ば伝説的な人物ですが、その伝説では後漢末期に長沙太守であったと言うのです。これが作り話であることは後漢書に張仲景という太守が記録されていないので明らかなのですが、後漢末というと2世紀頃です。この頃は、炭水化物が食べられないという事は、まさに死に直結していたことでしょう。



そこで編み出されたのが「飴を湯に溶かせば誰でも飲める」という事だったと思います。実に効率的なエネルギー補給です。炭水化物が消化吸収出来なくても、そもそも糖が主成分である飴を湯に溶かしてしまえばエネルギー補給になる。膠飴の意味はそういうことだったと思います。



ところで膠飴は小麦から作る場合も米から作る場合もあります。それは膠飴の本質的な意味からすれば、どちらでもよいわけです。中国では昔から北方黄河流域は小麦文化圏、南の長江流域は米文化圏です。それぞれ手に入りやすい素材で飴を作ったのでしょう。溶けやすい飴なら何でもよいわけです。



ところで張仲景が長沙太守であったというのは嘘だと書きましたが、伝説の中で彼の名が長沙に紐付けられているのは面白いと思います。中国伝統医学の歴史に於いては、張仲景が書いたとされる「傷寒論・金匱要略」に於いて突然生薬と生薬から作られる方剤の数がどっと増えます。傷寒論には張仲景の文章としてこの本は黄帝内経や難経を参考にしたと書いていますが、これらの古典には生薬や湯液(つまり漢方処方)はほとんど出てきません。これらの古典では、治療手段は主に鍼灸です。胎盤薬録という婦人科の本を参考にしたとありますが、それがどういうものであったか今は分かりません。もちろん最近の研究では、今に残る傷寒論・金匱要略の内容は、大方後漢の頃のものではなく、ずっと後世に書かれたものだというのが通説ですが、それにしてもこれら二冊に於いて格段に生薬学が発展している。その本の伝説的な著者が長沙に紐付けられている。これは多分、意味があるのだろうと思います。



黄帝内経や難経は、明らかに黄河文化圏の知見を纏めています。中国伝統医学の理論的基礎はこれらの本でほぼ形作られています。確かに傷寒論はその理論的部分は主にこれらの古典を踏襲しています。しかし登場する治療法である湯液、つまり生薬を組み合わせた処方というのは、こうした黄河文化圏の医学古典には出てきません。



そもそも傷寒論や金匱要略でふんだんに用いられる生薬は。北方原産と南方原産が混じり合っています。小建中湯は芍薬、桂皮、大棗、甘草、生姜に膠飴を加えて作られますが、このうち北方原産というのは芍薬と甘草だけです。桂皮と生姜は明らかに南方が原産。大棗、つまり棗は一説に南ヨーロッパが原産と言われますが、昔の中国でどうして手に入れていたのかはよく分かりません。つまり傷寒論の処方は南北の生薬が合わさって初めて作れるのです。



実は長沙というのは、昔からこの中国南北、つまり黄河文化圏と長江文化圏の結節点でした。南北の生薬を自由自在に組み合わせる傷寒論や金匱要略の揺籃の地として、ふさわしいのです。くり返しますが今の傷寒論、金匱要略の内容が後漢の末に書かれたと本気で信じている人は、ほとんど居ません。もっと後世に、南北の文化が自由に往来出来るようになってから作られたはずです。そうでなければこのように南北それぞれの生薬を自由に組み合わせるという事は不可能です。そして、南北双方の産物が入り交じる地、それが交易の中心地、長沙だったのです。おそらくこれらの処方群は、長沙付近で作られ始めたのかも知れません。北の医学である黄帝内経や難経を理論的基礎とし、豊富な南北の生薬を自由自在に組み合わせる医学、それが南北両文化の結節点で生まれたと考えるのは、考古学的資料に基づくわけではありませんが、自然な考えだと思います。これらの著作の伝説的作者が長沙の人とされたというのは、まったく意味の無いことでは無いのでしょう。



飴の話から少し話が飛びすぎました。今回はこの辺で。


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