我が半生:如何にして東北大に漢方が根付いたか。

1993年に坂総合病院での初期研修を終えた私は、漢方で学位(医学博士)をとりたいと思った。しかし当時漢方などと言うのは怪しい呪(まじな)いであって、それで学位が取れるなどとは到底思えなかった。困って坂病院に出入りしていたツムラのMRさんに相談すると、「佐々木先生ならもしかしたら」という。東北大に出来たばかりの老年内科の佐々木教授である。そこでさっそく老年内科に佐々木先生を訪ね、「漢方で学位を取りたいのです」と言ったら一言「いいんでねべが」と言ってくれた。秋田弁の抜けない人だった。


ともかくそれで東北大老年科の門を叩いた。しかし「いいんでねべが」と言ってくれたのは佐々木先生ただ一人で、医局員は誰も本気にしなかった。助教授以下先輩達は、「まず西洋医学をきちんと学んで学位を取りなさい。その後なら漢方でも何でも好きなことをやって良いから」というのである。しかし入局の目的が「漢方で学位を取ること」だった私は、頑として志を曲げなかった。次第に誰も私を相手にしなくなった。私の学位研究は、テーマも決まらないうちに三年が過ぎた。


そんなとき留学してきたのが、ブラジル人のアルトゥール君である。彼はマウスの肺に細菌や人の胃液を注入し、肺でキサンチンオキシダーゼを測り、誤嚥性肺炎モデルマウスを作ろうとしていた。誰も指導してくれない私を見かねて、佐々木教授が熊本大の赤池助教授の下に2週間私をやって、私もキサンチンオキシダーゼの測定法を学んだ。アルトゥール君と一緒に研究し、彼はモデルマウスを作り、私はそれに清肺湯と補中益気湯を飲ませて、肺の炎症や死亡率を調べた。マウスの殺し方も、彼から教わった。ホルマリンの瓶の中に落とすだけなのだが、そんなことも誰も教えてくれなかったのである。


ともかくそれで、漸く駆け込みで論文が出来た。正確に言うと、基礎論文になる英論文は投稿中だったのだが、今は知らず、当時は投稿中でも基礎論文として認めてもらえた。結果は、清肺湯を餌に混ぜた群では肺炎が減り、死亡も減る。補中益気湯群は普通の餌と変わらないというものだった。
Iwasaki K, Wang Q, Satoh N, Yoshida S, Akaike T, Sekizawa K, Maeda H,
Sasaki H. Effects of qing fei tang (TJ-90) on aspiration pneumonia in mice.
Phytomedicine. 1999 May;6(2):95-101.

これで学位論文を書いたら、予備審査は割と順当に通った。何はともあれ、手法は西洋医学の方法を使っているのだから、大きな文句は付けられなかった。しかし本審査の日、いきなり私の番になったら、主審査委員の貫和教授が開口一番、「私は何故この論文が東北大の学位審査に掛けられているのか理解出来ないのだが」と言い放った。と、その時、後ろで「おほん!」と大きな咳をした人がいた。振り返ると佐々木先生その人である。それで貫和教授も黙ってしまって、どうにか学位が取れた。


学位が取れても、しばらく私は大学に籍を置いた。それは当時の習慣で、医員というバイト扱いで医局のコマに使われるのだ。当時佐々木先生の医局では、医局を挙げて誤嚥性肺炎をテーマにしていた。それで佐々木教授から、「漢方で誤嚥性肺炎を防ぐものは無いべか」といわれ、考えついたのが半夏厚朴湯だった。半夏厚朴湯は金匱要略の処方で、「炙った肉が喉につかえるような感じがする時に用いる」とある。従来これは一種の神経症の症状だと考えられてきた。精神科でヒステリー球、耳鼻科で咽喉頭異常感症という。時折目にする症状らしい。


しかし私は、「もし炙った肉、つまり食べ物が本当に喉につかえたらこの薬は効くのだろうか」と考えたのだ。そこである老人病院に行って、肺炎の既往がある人をざっくり二群に分け、片方に半夏厚朴湯を4週間飲ませ、もう片方は飲ませないで前後の嚥下反射を測った。そうしたら半夏厚朴湯群のみで見事に嚥下反射が改善していた。この研究は今見るとお恥ずかしい限りで、必要なnの計算もしていなければ、ランダム化もただサイコロを転がして偶数か奇数かで分けただけである。測定者は盲検化したことになっているが、本当はそんな測定者は誰もおらず、私が知人と手分けして測定したのだ。ただ測定する時「この人は飲んでいた、この人は飲んでいない」などと覚えていなかったので結果的に盲検化されたのと同じ事にはなったが。
Iwasaki K, Wang Q, Nakagawa T, Suzuki T, Sasaki H.
The traditional Chinese medicine banxia houpo tang improves swallowing reflex. Phytomedicine. 1999 May;6(2):103-6.

その他には医員時代私はこれと言ってろくな研究をしなかった。ある時佐々木先生に「将来東北大に漢方をやる部門が出来るでしょうか」と聞いたら、佐々木先生は黙って上を向いてしまった。そこでこれ以上東北大にいても無駄だと思い、東大の丁先生に電話した。すると丁先生は、「私も君には前から目を付けていたんだよ。丁度助手の席が1つ空くんだ。東大の助手と言えば君、地方の教授だよ」と言うでは無いか。それで私はせっかく買ったばかりのマンションを手放し(まだ新しかったのでいくらか儲けが出た)、相方と二人で東京に出たのだ。


そういうわけで、私は仙台のマンションを売り払い、東京へ行った。東大の本郷キャンパスでまず困ったのは、医局の場所が分からない。丁先生の講座は「生体防御機能学講座」というのである。ツムラの寄付講座の草分けだ。「生体防御機能学講座は何処ですか」と聞いても、誰も分からない。門衛すら分からない。散々探し回って、戦前の建物とおぼしき傾きかけた古い鉄筋の建物の隅にやっと見つけた。丁先生に、「なんでこんな訳の分からない名前にしたんですか」と聞いたら丁先生が顔をしかめて「最初は漢方とか東洋医学という名前にしようとしたんだが、偉い教授が待ったを掛けてね。仮にもこの東大で、漢方なんかを研究していると世間に知られると困ると言うんだ。それで、漢方をやっていると一切分からない名前にしろと言われたんだよ」というのである。ツムラの寄付金は欲しい、しかし漢方なんてものを東大の講座にされては東大の名が汚れるというわけだ。


それにも呆れたが、私の目が点になったのは、私が着任するはずの助手の席にちゃんと人が座っていたことだった。Iという。思わず丁先生を振り返ると、丁先生が医局の外に私を連れ出して、あのIにはこまっていてね、というのだ。寄付講座である生体防御機能学講座には、2つの親講座があった。老年内科と物療内科だ。1つの寄付講座に2つの親講座があること自体、厄介極まりないのだが、老年内科の大内教授は丁先生を北里から連れてきて、ちゃんと漢方の研究と臨床をやらせた。しかし物療内科は漢方など全く信じておらず、単に自分のジッツとしてしか見ていなかった。それで、物療内科にいても絶対ポストを得られない人を二人、生体防御機能学講座に送り込んだのだ。そのうちの一人は助教授で、これは全く医局には顔を出さなかった。要するに籍だけここに置いて、自分は物療内科に留まったままだったのだ。そしてもう一人がIである。Iはなんと、学位を持っていなかった。当然、英論文など一枚も書いたことがなかった。そう言う人間でも、伏魔殿と言われる東大内部を泳ぎ回るのだけは上手くて物療内科に巣くっていたのだが、ツムラの寄付講座ができるを幸い、物療内科がIを助手として送り込んできたのだ。


学位がない東大の助手!まさに魑魅魍魎だ。そんなものが存在するほど、東大は恐ろしいところなのだ。丁先生はIを追い出すべくあの手この手を使ったが、物療内科を後ろ盾にするIは一向に出て行く気配はなかった。そこで当て馬にされたのが私であった。私の実績(と言っても英論文がまだ2本なのだが)、を元にIに引導を渡そうとしたのである。


しかし、丁先生の戦法は如何にも正攻法過ぎた。しかも愚かにも丁先生はあるスキャンダルに巻き込まれてしまった。Iはそれを嗅ぎつけ、逆に秘書を抱き込んだ。どうやって抱き込んだのか、文字通り抱いたのか(あんな男に抱かれたい女がいるとすればだが)、私は知らない。それでIと秘書が丁先生の醜聞を新聞に売り込んだ。このままでは東大助教授のスキャンダルがでかでかと新聞に載ることになる。そこで大学当局は丁先生を罷免する代わりに、その醜聞をもみ消したのだ。


こうなると、もう医局の中は疑心暗鬼、誰が誰を追い落とそうとしているか分からない。私はなるべく東大には近寄らないで、バイトばかりしていた。主なバイト先は九十九里浜にほど近い蓮沼村というところで老人病院をやっていた秋葉先生だった。秋葉先生は本当によく私に眼を掛けてくれ、週一回の当直と翌日の病棟管理でどうにか私の生計が立つようにしてくれた。この秋葉病院でやったのが、八味地黄丸の認知症に対する効果を見たdouble blind randomized control trial(DB-RCT)だ。これはウチダ和漢薬がplaceboを作ってくれ、曲がりなりにも本物のDB-RCTになった。丁先生の身が危ない中、彼の後ろ盾で医局に入った私はどんな難癖を付けるかヒヤヒヤしていたが、幸いにも私はターゲットにならなかった。しかしこの研究が終わって以来、私は「今は動くな」という人のすすめもあり、東大では何もしなかった。だが秋葉先生、新宿つるかめ診療所の西本先生など、多くの人が私を応援して下さった。
Iwasaki K, Kobayashi S, Chimura Y, Taguchi M, Inoue K, Cho S, Akiba T, Arai H, Cyong JC, Sasaki H. A randomized, double-blind, placebo-controlled clinical trial of the Chinese herbal medicine "ba wei di huang wan" in the treatment of dementia.
J Am Geriatr Soc. 2004 Sep;52(9):1518-21.


東大での身が危なくなった私は、時々古巣の東北大老年科を訪れた。ある時昼休み、ラーメンを食べていた佐々木先生に、「先生、そろそろ東北大でもどうですか、ツムラの寄付講座とか」と持ちかけたら、佐々木先生は「んだな。やるべ」と即答し、それからしばらくして東北大に「先進漢方治療医学講座」が出来た。この講座の名前には私と佐々木先生の思い入れがある。まず東大のように何をやっているのか訳の分からない名前にはしない。ちゃんと漢方の講座だとはっきりさせることにした。そして古くさいカビが生えたようなことをするのではなく、研究第一主義の東北大にふさわしい先進的な研究をすることにした。そして基礎も大事だが治療、臨床をメインにするのだという思いを込めた。かくして東北大に漢方の講座が誕生し、それにともなって附属病院にも漢方内科が設立された。まだ若く、業績も足りない私にさすがに教授は無理だという事で、アルツハイマー研究の大家荒井先生が教授となり、実際に講座を動かす責任者は私が助教授で医局長という事になった。その下に関隆志講師、この人は医者ながら鍼灸に卓越しているという希有な人だった、そして助手には薬学部の生薬学科から新進気鋭の研究者藤原先生が着任し、基礎研究を一手に引き受けてくれることになった。かくして本格的に東北大で漢方の研究、教育、診療が始まったのだ。


東北大着任早々、私は新しい研究に手を付けた。八味地黄丸の研究は私にとっては画期的だったが、さっぱり世に広まらなかった。何故か考える内に、「中等度に進んだ認知症患者やその周辺にとって、もはや認知機能が少し上がろうと下がろうとそんなことは問題ではない」という事に気がついたのだ。そこで私は「認知症の譫妄をテーマにする」と言ったら荒井先生も佐々木先生も賛成してくれた。そこでさっそく看護師用の譫妄のハウツー本を買ったら、「譫妄とは基礎疾患が無いものである」と書いてある。と言うことは認知症という基礎疾患を元に生じる様々な精神症状は譫妄ではないのだと初めて知った。じゃあああいうのをなんというのだと色々調べ、「認知症の心理行動学的症状、英語の略称BPSD」だと初めて分かった。全てこんな状態からの手探りだった。


患者は幾らでもいた。大学病院にはたいしていなかったが、バイト先の山形厚生病院という老人病院にそう言う患者が山ほどいた。ナースセンターに行って、看護師に「あなたたちが手に余る患者を集めてくれ」と言ったらすぐ52例が集まった。それをサイコロでえいやっと二群に分け、片方に抑肝散を、もう片方は従来通りの治療をと言うことで4週間観察した。この4週間というのが後になってみると絶妙で、2週間ではまだ薬の効果がはっきりしない。8週間となるとBPSD自体自然の波があって効果が分からない。直感だったが4週間は正解だった。


抑肝散を選んだのは、自分でもそう言う患者に時々使っていたのと、非常に優れたcase seriesがあったからだ。その研究を読んで、これなら行けると確信した。結果は知っての通り大成功で、抑肝散はBPSDを抑制すると同時にADLも改善した。これは他の抗精神病薬にはない特徴だった。抗精神病薬は、BPSDは確かに下げるが、でれんとしてしまうのでADLなど上がりようがなかったからだ。これは臨床精神のトップジャーナルJ Clin Psychiatryに載って有名になった。
Iwasaki K, Satoh-Nakagawa T, Maruyama M, Monma Y, Nemoto M, Tomita N, Tanji H, Fujiwara H, Seki T, Fujii M, Arai H, Sasaki H. A randomized, observer-blind, controlled trial of the traditional Chinese medicine Yi-Gan San for improvement of behavioral and psychological symptoms and activities of daily living in dementia patients. J Clin Psychiatry. 2005 Feb;66(2):248-52.


この論文以来私の名前は方々に知れ渡った。中には「今をときめく助教授様」などと嫌みを言う助手の先輩もいないではなかったが、私はそんなものは意に介しなかった。しかしこの成果を始めて日本東洋医学会で発表した時のことは覚えている。なんと座長が「この発表には意味が無い」と言い放ったのだ。この座長は石川友章という人で、後に東洋医学会会長になった。次第に西洋医学で認められ始めた私は、後ろ盾であるはずの東洋医学会で煙たがられ始めたのだ。「あんなのは漢方じゃない」という非難も聞こえてきた。


しかし私は一向に意に介しなかった。立て続けにLewy小体病の幻視が抑肝散で改善されるという研究や、加味温胆湯をドネペジルと合わせることで脳が活性化されるという研究を発表した。
Iwasaki K, Maruyama M, Tomita N, Nemoto M, Fujiwara H, Seki T, Fujii M, Kodama M, Arai H Effects of the Traditional Chinese Herbal Medicine for Cholinesterase inhibitor-Resistant Visual Hallucinations and Neuropsychiatric Symptoms in patients with Dementia with Lewy Bodies. J of Clin Psychiatry 66:12, Dec 2005. 1612-13


Maruyama M, Tomita N, Iwasaki K, Ootsuki M, Matsui T, Nemoto M, Okamura N, Higuchi M, Tsutsui M, Suzuki T, Seki T, Kaneta T, Furukawa K, Arai H. Benefits of combining donepezil plus traditional Japanese herbal medicine on cognition and brain perfusion in Alzheimer’s disease: A 12-week observer-blind, donepezil monotherapy-controlled trial. J Am Geriatr Soc. 2006 May;54(5):869-71.


基礎では藤原先生が頑張ってくれて、釣藤鉤がアミロイドβの凝集を抑制するというデータを出した。

Fujiwara H, Iwasaki K, Furukawa K, Seki T, He M, Maruyama M, Tomita N, Kudo Y, Higuchi M, Saido T, Maeda S, Takashima A, Hara M, Ohizumi Y, Arai H. Uncaria rhynchophylla, a Chinese medicinal herb, has potent anti-aggregation effects on Alzheimer's beta-amyloidproteins. J Neurosci Res. 84:427-244, 2006


また2007年にはついに半夏厚朴湯が誤嚥性肺炎を実際に減らすことを、1年間のランダム化比較試験で確認した。
Iwasaki K, Kato S, Monma Y,, Niu K,, Ohrui T, Okitsu R, Higuchi S, Ozaki S , Kaneko N, Seki T, Nakayama K, Furukawa K, Fujii M, Arai H. A Pilot Study of Banxia Houpu Tang, a Traditional Chinese Medicine, for Reducing Pneumonia Risk in Older Adults with Dementia J Am Geriatr Soc. 2007 Dec;55(12):2035-40


私の知名度は上がるばかりだったが、東京の漢方界には私の論文を苦々しく眺めている人々がいた。従来「漢方は西洋医学と違う個の医学だから、西洋医学の手法では解明出来ない」と主張していた日本東洋医学会のお歴々だ。しかし「東北大の漢方の准教授」を放っておく訳にもいかず、私は代議員になり、ついで東北支部の事務局長にもなった。


だがこの頃から私の男遊びはちょっと度を超してきていた。今はもう関係が無いが、一時Mという男性看護師と恋に落ちて、毎週末Mと遊ぶようになった。このMは看護師でありながら医学博士を目指していて、短大卒だからまず別の大学で修士をとり、東北大の博士課程に入学した。しかし彼が入学した講座の教授はタチが悪く、厚労省の天下り官僚だった。自分が英論文を書いた経験が無いのだから、院生に論文指導が出来るはずがない。毎年厚労省から多額の厚労科研費が下りて、それに対して報告書を書くだけだ。幾ら報告書を書いても学位論文にはならない。だからその教室には、何年も院生のままという人がたくさんいた。Mもまんまとその罠にはまってしまい、学位論文が出せなかった。泣きつかれた私はMを引き取ることにした。引き取ると言っても、無理矢理抜け出させたのである。ある晩Mは教室に忍び込み、自分の纏めたデータをそっくり持って私の元にやってきた。こうして彼の身柄を確保した後、大学の委員会を通じてMの所属をその講座から私の講座に移すと通告したのだ。当然担当教授は怒ったが、そこは大学の委員会の決定で、くだんの教授はいかんともしがたかった。彼には食養の研究をやって貰い、一年で学位論文を纏めて博士にした。


Dietary patterns associated with fall related fracture in elderly Japanese: a population based prospective study. Monma Y, Niu K, Iwasaki K, Tomita N, Nakaya N, Hozawa A, Kuriyama S, Seki T, Takeda T, Yaegashi N, Ebihara S, Arai H, Nagatomi R and Tsuji I. BMC Geriatrics 2010 Jun 1;10:31. doi: 10.1186/1471-2318-10-31.


そうしたら、それを見ていたもう一人の万年院生も大学に訴え、その人まで引き取らなければならなくなり、私は一挙に二人問題児の院生を抱えることになった。話はそれで済まなくて、今度は別の覚醒剤の研究をしていた講座で教授と院生が衝突し、私はその院生の学位まで取らせることになった。だから私は未だに覚醒剤については詳しい。


ちなみにMはその後しばらく医療界、看護業界に籍を置き、某大学の講師にまでなったが何を思ったかこの世界から身を引き、今では実家の家業を継いで時計屋の主人に収まっている。医学博士を持つ時計屋の主人は、多分世界中で彼一人だろう。


一方大学ではゴタゴタが持ち上がっていた。佐々木教授が定年退官し、これまで漢方内科の教授だった荒井先生が老年科の教授になった。それは良かったのだが、それを機に大学が老年科を医学部本体から切り離し、加齢医学研究所に移すと言い出した。医学部と加齢研との間は車二台がすれ違えるだけの細い小道で隔てられているだけだが、この小道の間は限りなく遠かった。加齢研に行くという事は、講座そのものが島流しに遭うという事だった。理由は簡単で、老年科は金にならないからである。


先進漢方治療医学講座は老年科を親講座にしていたから、当然老年科について加齢研に行くものと思われていた。荒井教授からは「漢方内科も移ってきたらお前も教授にしてやる」と言われていた。しかしそれに猛然と反対したのが二人の大学院生だった。加齢研に行くぐらいなら、私たちは辞めますとはっきり言われた。自分が部下のいない教授になるか、大学院生を残して医学部で再起を図るか、私は一年悩み続けた。そして結局、医学部に残る道を選んだのである。それは同時に、自分が教授にならないことを選択したに等しかった。しかし医学部に残らなければ、東北大漢方内科の未来はないと決心した。その決心は後になって正しかったことが分かる。今老年科は加齢医学研究所臨床加齢医学研究分野が管轄する附属病院加齢・老年病科にその名を留めるのみで、往事を知るものにとっては寂しい限りである。一方漢方内科は当時の院生の一人、高山君が漢方内科を継いで、立派に特命教授として東北大漢方の流れを残し、大きく育ててくれている。彼らの決断も正しかったし、私の決心も正しかった。ただ私はついに教授にはなれなかった。高山先生と一緒に「辞めます」と言った沖津先生は気滞スコアの研究を纏め、郷里の青森に帰った。今どうしているか、私は知らない。

Development of a questionnaire for the diagnosis of Qi stagnation.
Okitsu R, Iwasaki K, Monma Y, Takayama S, Kaneko S, Shen G, Watanabe M, Kamiya T, Matsuda A, Kikuchi A, Takahashi S, Seki T, Nagase S, Takeda T, Moon SK, Jung WS, Park SU, Cho K, Yaegashi N, Choi SH. Complement Ther Med. 2012 Aug;20(4):207-17. doi: 10.1016/j.ctim.2011.12.005. Epub 2012 Feb 24.


老年科と袂を分かってから先進漢方治療医学講座の親講座になったのは産婦人科だった。産婦人科の八重樫主任教授は、産婦人科では鬼の八重樫とか言われていたが、漢方内科の運営は基本的に私に一任してくれた。と言ってほったらかすわけでもなく、週一回の医局会には必ず顔を出した。八重樫教授もスタッフを漢方内科に入れたが、その人、武田卓先生は熱心に漢方を勉強し、私が指導医となって東洋医学会の専門医をとり、今は近畿医科大学の東洋医学研究所教授をしている。つまり八重樫教授ご自身は漢方を理解したわけではなかったが、漢方内科の立場は尊重してくれた。高山先生も次々鍼灸の論文を書き、東北大漢方内科は日本一英論文を出す漢方臨床の教室になった。


だが私には悩みがあった。寄付講座が第三期を迎えたのだ。寄付講座は一期三年、他大学の例を見ても次の更新は無いと思わざるを得なかった。八重樫教授からは、正規講座としての漢方講座を置くのは無理だと明言されていた。悩みの元は、大学病院の漢方内科の設置基準にあった。東北大学附属病院に漢方内科を置く。ただし当診療科は寄付講座が続く限りとする、と明記されていたのである。寄付講座がなくなれば、大学病院の漢方内科もなくなってしまう。これでは元も子もない。


悩み抜いた末、私は関講師と共に八重樫教授のところに赴いた。そうしてこの問題を取り上げ、「我々が辞めたら東北大から漢方が消えて無くなってしまうのでは死んでも死にきれません」と訴えた。八重樫教授は即座に「そう妥協してくれるなら考えがある。高山君に後を継がせよう」と言ってくれた。これこそ私の描いていた構図であった。私や関先生は所詮八重樫教授の教え子ではない。元は老年科の出身だ。しかし高山先生は八重樫体制になってから八重樫教授の下で学位を取ったのである。いわば八重樫直系だ。仕事も出来る。彼なら講座を継げる。私は元々そう思って八重樫教授に談判に行ったら、教授と見事に意見が一致したのである。


しかし難題があった。高山先生はもう学位を取っていた。そろそろ彼にポストを与えなければ、彼も大学を離れてしまう。しかし寄付講座にこれ以上ポストはなかった。正直を言うと、私は関先生を少々持て余していて、彼に大学を去って欲しかったのだが、彼自身は一向その気は無いようだった。となれば、高山先生のポストを空ける道は一つしか無い。私が辞めることだ。高山先生のドイツ留学からの帰任を待って、私が辞職することに内々で話が纏まった。私は国立西多賀病院の部長職に就き、大学からは臨床教授の花道をもらえることになった。


ところがその日を指折り数える内に、とんでもないことが起きた。東日本大震災だ。高山先生は無我夢中でどうにかして飛行機を手配して仙台に戻ってきた。沿岸の被災地にはまず私が第一陣で状況を視察すると共にたくさんの漢方薬を持っていき、風邪の人、下痢の人、低体温症の人などに配って歩き、漢方が災害医療に使えるという確信を抱いて戻ってきた。その後を沖津先生、そして高山先生が戻ってからは高山先生が中心となり、災害医療における漢方の可能性が開けた。

[The role of integrative medicine and Kampo treatment in an aging society: experience with Kampo treatment during a natural disaster].
Takayama S, Numata T, Iwasaki K, Kuroda H, Kagaya Y, Ishii T, Yaegashi N.Nihon Ronen Igakkai Zasshi. 2014;51(2):128-31. doi: 10.3143/geriatrics.51.128.


西多賀病院に移ってからは震災のPTSDの患者がたくさん来た。と言うより、私と相方がPTSDに掛かってしまった。ちょっとでも余震があると、飛び起きて冷や汗、動悸がする。柴胡桂枝乾姜湯と酸棗仁湯を合わせて飲んだら二人とも気持ちが落ち着いた。そこで高山先生らと協力してPTSDに対する柴胡桂枝乾姜湯の効果をRCTで証明した。酸棗仁湯を合わせなかったのは、英論文はSimple is the bestだからだ。


Treatment of posttraumatic stress disorder using the traditional Japanese herbal medicine saikokeishikankyoto: a randomized, observer-blinded, controlled trial in survivors of the great East Japan earthquake and tsunami.
Numata T, Gunfan S, Takayama S, Takahashi S, Monma Y, Kaneko S, Kuroda H, Tanaka J, Kanemura S, Nara M, Kagaya Y, Ishii T, Yaegashi N, Kohzuki M, Iwasaki K. Evid Based Complement Alternat Med. 2014;2014:683293. doi: 10.1155/2014/683293. Epub 2014

そうこうしているうちに、日本老年医学会から大変な仕事が降ってきた。老年医学会の薬物治療ガイドラインの大改定だ。これは10年前に出したガイドラインを「さすがに古い」というので改訂し、2015年に改訂版を出すことになったものだ。作業は2013年から始まった。古い第一版の漢方の章も私が書いたので、改訂版も私が書けという事になった。一人じゃ無理だというので高山先生に加勢を頼んだが、いやいやこっちも手一杯です、先生頑張ってくださいと言われてしまった。


第一版の時は佐々木先生の命令で私が書いたのだ。佐々木先生に「何を書けば良いんですか」と訊いたら「なに、先生が思った通り書けば良いんだ」という答えであった。2005年当時のガイドラインなどはそんなものだった。しかしこの改訂に当たっては、GRADEという「ガイドラインを作るガイドライン」に基づいて、エビデンスのシステマティック・レビューを元にガイドラインを作らなければならないことになった。時代は大きく変わっていたのだ。そこで、まず世界中の中医学や漢方、韓医学に関するエビデンスを収集した。すると驚くべき事が起きた。中国の中医学に関する英論文が7万本、対する日本漢方の英論文はたった千数百本だったのだ。これには唖然とした。私は愚かにも、中国から留学生が来る位だから、日本漢方の研究レベルは中国より上なのだろうと勝手に思い込んでいたのだ。ところがあに図らんや、中国はもうとても日本漢方の手が届かないところに行ってしまっていたのだ。


大変だ大変だ!と私は大騒ぎをした。このままではいけない!日本はどうにかしなければならん!とあちこちで言って廻った。そうしたらそれが東洋医学会のお偉方の癪に障った。私は学会発表もさせてもらえなくなり、指導医は取り上げられ、このままでは専門医剥奪も目前と思われた。そこで私は考えた末、「東洋医学会に未来はない」と見極め、東洋医学会を退会した。丁度あの抑肝散の発表に「意味は無い」と言い放った座長の石川友章が日本東洋医学会の会長だった頃である。


まあ色々裏ではあったが、ともかく途中から高山先生も手伝ってくれ、ガイドラインは完成した。我々の思い描いたものとは異なったが、ともかく形になったので、それを英論文に纏めた。

Systematic review of traditional Chinese medicine for geriatrics.
Takayama S, Iwasaki K.Geriatr Gerontol Int. 2017 May;17(5):679-688. doi: 10.1111/ggi.12803. Epub 2016 Jun 7.


私はまだ生きているわけだが、この「私の半生」はひとまずこの辺で筆を置く。話が現代に近づいてくるほど、まだ書けない話が増えてくるからだ。私はあと二年で還暦を迎える。昔ならとうに引退してもいい頃だ。しかし私はまだ現役の医者をやっている。長寿高齢化も善し悪しというものだ。

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