患者の値踏みをした話

先日FBで私が「私は外科ではないが生涯に3回メスを振るった経験がある」と書いたらある方が「自分の夫は消化器内科医だが、当直中に雄賛もしたし切れた指を縫ったこともある」とコメントされて、私は腰を抜かした。内科領域しか経験が無い私は、お産はとてもとてもやれない。万が一そういう場に直面しても、何をどうしてよいか、全く見当も付かない。その消化器内科の先生も、想像するに、当直中にもう自分がやるほかどうしようもない状況に追い込まれて、何が何だか分からないままやったらどうにか何とかなったのだろう。その時生まれた子供とその母親は、一生その先生を手を合わせて拝むべきだと思う。



だが「取れた指を付けてくれ」と当直中に頼まれたことは、私もある。今から30年も前、まだ私が塩竃の坂総合病院で初期研修医をしていた時、当直中に呼ばれていったら如何にもその筋とおぼしき男性が「ふすまに挟んで小指が取れた。氷水に入れてきたので付けてくれ」という。これも明らかにその筋と思われる男性が二人付き添ってきた。



氷水に入れられたその小指の断片を覧ると、末端関節で見事にスパッと切れている。まず第一に、ふすまに挟んだって指は切れない。どんなに強くふすまを閉めたところで、せいぜい打撲して内出血するだけだ。それに、その左手の小指は見事に第一関節できれいにスパッと切れている。ふすまに挟んでこんなに見事にきれいに切れることはあり得ない。



これは挟んで切れたのではない。指を詰めたのだ。



その筋の人が、何かの経緯で、その道の仁義として指を詰めたわけだ。それを夜中の救急外来に持ち込んで、縫い付けてくれと言う。内心苦笑いというか、あきれはてるというか、まあなんとも言いようが無く、私はしばらくその切れた小指をしげしげと眺めていた。



スパッと切れた小指を付けるというのは、可能性としてなくはない。熟練の形成外科医が顕微鏡下の手術をして、血管もきれいに繋げれば、可能性としてはあり得るだろう。もちろん当時初期研修医だった私には到底不可能な技だったが。



当時宮城県下に形成外科医(美容整形ではない)は数名しか居なかった。だが幸か不幸か、その宮城県に数名しか居ない形成外科の内の一人は、その坂総合病院にいた。足立先生と言った。その当時50前後だったと思う。



このヤクザのお兄さんのために、真夜中に家で寝ている足立先生を電話でたたき起こすべきか。



足立先生は非常に救急マインドが強く、切断された指を再縫合するのは足立先生以外に出来ないことだったから、もし私が夜中に電話して呼んだら駆けつけてきたかもしれない。だが足立先生は正直50近いそれなりに年配の先生だ。にもかかわらず、毎日手術にいそしんでいる。もしこの人のために足立先生が今夜駆けつけて、それで明日足立先生がダウンしたら、明日足立先生の治療を受けるべき患者はどうなるのだろう。



初期研修医の私は、僭越にも「命の計算」をした。まあ小指は命に関わらないからそれは大袈裟で、えげつなく言えば「患者の値踏みをした」のだ。



30年数年後、58になった今の私が当時の私の行為を見れば「ヒポクラテスの誓いを破った」という事になる。



ヒポクラテスは伝説的なギリシャの名医で、「ヒポクラテスの誓い」は有名だ。その一つに「医者は患者を覧るな。ただ病のみを覧よ」とある。



ちょっと待て、「医者は病気だけ診るな、病人を診ろ」では無いのか?と言う人がいるだろう。ヒポクラテスは逆のことを言った。その患者が何処のどういう人かなど考えるな。医者は何処の誰でも、病を抱えてきた人についてはその病を治すことだけを考えろ」というのだ。患者の値踏みをするなと言うわけだ。



これは今私が経営する「あゆみ野クリニック」の標語の冒頭にも書かれている。



「私の前に現れる人は、皆患者である」



これが医者のあるべき姿である。この人はヤクザだ、カタギだ、金持ちだ、貧乏だと考えるな。全て「治療を求めてきた病人だから、ひたすら治療に専念しろ」という事だ。



当時の私はその誓いを破った。それは認めざるを得ない。だがそれでもかけがえのない足立先生が過労で倒れたら、足立先生を頼りにするほかの患者はどうなる?と考えた当時の私まで、今の私は非難出来ない。それはそれで、究極の選択であり、どちらと判断したとしても、私を責められる人はいなかったのではないかと思う。



まあ医者も長くやっていると、何回か「人生で忘れられない経験」をするものだ。


https://www.ayumino-clinic.com

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