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アインシュタインのメモが15億円で買い取られる

アルベルト・アインシュタイン「二十世紀最大の天才の失敗」とは何か?

20世紀最大の天才と言われるアインシュタインに苦手なことはあったのだろうか?

アルベルト・アインシュタインは、ドイツ生まれの理論物理学者であり、相対性理論を証明し、ノーベル物理学賞を受賞した科学者です。彼は、光電効果の法則の発見や、一般相対性理論、特殊相対性理論、ブラウン運動、質量とエネルギーの等価性(E=mc²)などの業績で知られています。

しかしその一方で、アインシュタインは、

・5歳になるまでまともに会話が出来なかった。
・暗記が異常に苦手で、物理学者でありながら光速度の数値が言えなかった。
・日常の身の回りのことがまったく自分でできなかった。
・偏屈な性格で、2度の結婚を経験し、2度とも円満な生活を送ることが出来なかった。

世の中で普通とされることが、まったくできないという反面も彼は持っていたのです。

そのアインシュタインの直筆の計算メモがオークションにかけられ、二十世紀最大の天才の失敗として、日本円でおよそ15億円(13,383,000ユーロ)で落札されたことがあるそうです。

今回は、天才と呼ばれたアルベルト・アインシュタインのもうひとつの側面について迫っていきます。


アインシュタインの紹介


アインシュタインは幼い頃あまり言葉を発することがなく、大人になってからも人付き合いが苦手だったようです。しかし、数学に関しては類まれな才能を発揮して、日本でいう小学生の終わり頃には微分積分もマスターするほどだったと言われています。

アインシュタインは1879年3月14日、ヘルマン・アインシュタインを父、パウリーネ・コッホを母とし、その長男としてドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市にて生まれました。

アインシュタインは、5歳のときに父親からもらった方位磁針が、自然界の仕組みへ興味をもつきっかけとなったと言われています。また、同じ頃、ヴァイオリンを習い始めていて、すぐにモーツァルトの曲が好きになり、ヴァイオリンは彼の生涯の友となりました。

一家はその家系からしてアシュケナージ系ユダヤ人ではあったものの、信心深いユダヤ教徒というわけではなかったため、アインシュタインは5歳から3年間、ミュンヘンにあるカトリック系の公立学校へ通いました。

幼少のころは、言葉を理解したり話したりするという面では問題がなかったが、言葉を出すのには時間を要しました。一方で数学に関しては傑出した才能を示し、9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、そして自力で定理を証明しました。

12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習。微分学と積分学も、この当時に独学で習得したと言われています。同じころ、医学生だったマックス・タルメイから天文学の存在を知らされ、同時に物理学に関心を示すようになりました。

1894年、父と叔父の会社が行きづまり、一家はイタリアのミラノに引っ越すことになりました。同じ年の12月末、アインシュタインは医師に書かせた診断書を口実に、学校を退校し、家族を追って、イタリアのパヴィアへと移ります。

1895年、スイスの名門、チューリッヒ連邦工科大学を受験するも総合点が合格基準に足らずに失敗。しかし同校の校長は、アインシュタインの数学と物理の点数が最高ランクだったため、条件を与え、翌年度の入学資格を与えました。

ある日、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていると眠り込んでしまい、不可思議な夢を見たと言われています。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢で、彼は目が覚めるとすぐに思考実験をはじめました。これがのちの相対性理論を生み出すきっかけになったと言われています。


2つの相対性理論


1905年、アルベルト・アインシュタインにより一つの論文(アインシュタインの原論文の一つ)が発表されました。

相対性理論あるいは 相対論は、時間や空間(時空間)と慣性力に基づく考察から、時空間の観測や重力を体系的に論じた物理理論です。

簡単に説明すると、時間や空間に関する考え方で、1905年に発表された「特殊相対性理論」と、1916年に発表された「一般相対性理論」の2種類を総称して「相対性理論」と呼んでいます。

「一般相対性理論」と「特殊相対性理論」の違いは、「重力の影響がない状態」を前提にするかどうかで、「特殊な条件を前提とした法則」のことを「特殊相対性理論」としています。
ただし、地球上では全てのものが重力の影響を受けるため、現実には特殊相対性理論のような現象は起こりません。

そこで、アインシュタインは、特殊相対性理論に重力の影響を加味した法則を研究し、「一般相対性理論」として完成させます。

その後「光電効果の法則の発見」などが評価され、ノーベル物理学賞を受賞しています。受賞の翌年には日本にも招かれ、各地で講演を行いました。

家族との別居、離婚、再婚


1913年、プロイセン科学アカデミーの会員となります。アインシュタインは家族とベルリンに移住します。その数か月後、妻のミレヴァにアインシュタインが再従姉のエルザに対して恋愛感情を抱いていることを知られ、妻ミレヴァは長男・次男とともにチューリッヒへと引っ越す事態となり、別居状態となります。

別居生活が5年ほど続き、1919年に正式に離婚の手続きを完了。アインシュタインは当時、金銭的な余裕はなかったため、「ノーベル賞を取ってその賞金をミレヴァに譲る」と条件を提示することで、離婚が成立しました。

ノーベル物理学賞の受賞


当時、アインシュタインの業績から考えるに、ノーベル賞を受賞することはほぼ確定的とみなされていたため、元妻にとっての好条件として受け入れられました。離婚が成立した数ヵ月後の1919年の6月、アルベルトはエルザと再婚をすることになります。そして離婚成立の2年後、招待された日本へ渡航中にノーベル賞受賞の決定が通知されることになります。

アインシュタインは、電磁波の動きはニュートン力学では説明できないと考え、「相対性理論」を発展させ、1921年にノーべル物理学賞を受賞しています。ブラックホールと重力波の存在を数学的に導き出し、現代物理学の礎を築きました。

二十世紀最大の天才の失敗


アインシュタインがノーベル物理学賞を受賞したおよそ100年後、アインシュタインの計算メモが15億円の価格で落札されました。

パリのオークションハウス「クリスティーズ」で行われた競売には、1913~1914年にアインシュタインと同僚のミケーレ・ベッソが書き残した54ページのメモ書きが出品されました。ベッソが保管していたもので、相対性理論の確立に至るまでのさまざまな試行錯誤が黒いペンで記されています。


出典:REUTERS/BBC

その時に競り落とされた計算メモには、実は計算ミスが含まれていたと言われています。太陽の質量を誤って記入した箇所があり、そこから派生した誤差がほかの計算にも影響を及ぼしていたそうです。アインシュタインが残したこのメモ用紙は、天才の残したミスの記録ともなり、完璧ではないからこそのプライスレスな価値を証明しているとも言えます。

アインシュタインが苦手だったこと


アインシュタインは、空間認識能力が非常に高く、そのために相対性理論を証明できたのだと言われています。

また、物を覚えることが嫌いで、記憶力が求められる科目の成績は悪かったという記録もあり、数学に関しても、記号を覚えることは嫌いだったと想像されます。

アインシュタインは簡単な計算ミスをすることが多かったとも言われますが、実は、彼以外の数学者でも計算を重視しない人は多くいるそうです。単純な計算ミスをする数学者は少なくないし、計算は計算機やコンピューターで行えばよいと主張する数学者もいます。

これはアインシュタインだけの特例ではなく、「天才」と呼ばれる人たち、あるいは何かに異常な才能を発揮する人たちにもほぼこうした例が当てはまるとも言われています。


アインシュタインの脳はどこにある?


1955年。アインシュタインは76歳で亡くなります。アインシュタインの死体解剖は、アメリカのブリンストン病院の病理学者のトーマス・ハーベイ医学博士が行い、脳をとり出すと「1230グラム」あったと記載されています。脳を保管するには、ホルマリン漬けにする必要があり、アインシュタインの脳はホルマリン固定されて保存されました。

その後、1978年になってハーベイ博士の所持品の中に、アインシュタインの脳があることがわかりました。

アインシュタインは、個人崇拝されることを嫌い、自分の脳も体も、研究に使われることを希望していなかったが、ハーベイ博士は、本人や遺族の同意なしに脳を持ち去り「数日後に事実が明るみに出ると、すべては科学の発展のためというもっともらしい説明をつけて、乗り気でなかったアインシュタインの息子を説得し、後付けで同意を取り付けた」と証言しました。

間もなくプリンストン病院での職を失ったハーベイ博士は、アインシュタインの脳をフィラデルフィアへ運び、そこで240個に切り分け、「セロイジン包埋」という方法で保存しました。そして、それらを2つの瓶に詰め、自宅の地下室に保管することにしたのです。


出典:National Geographic

2010年からは、アインシュタインの脳は国立保健医学博物館(メリーランド州シルバースプリンぐ)に移され、一般の人も観察できるようになっています。

天才からのメッセージ


最後に、アインシュタインが日本を訪れた時に日本に託したメッセージを紹介します。

近代日本の発達ほど世界を驚かしたものはない。その驚異的発展には他の国と違ったなにものかがなくてはならない。果たせるかなこの国の歴史がそれである。

(中略)

私はいつもこの広い世界のどこかに、一ヶ所ぐらいはこのように尊い国がなくてはならないと考えてきた。なぜならば、世界は進むだけ進んでその間幾度も戦争を繰り返してきたが、
最後には闘争に疲れる時が来るだろう。

このとき人類は必ず真の平和を求めて世界の盟主を挙げなければならない時が来るに違いない。その世界の盟主こそは武力や金の力ではなく、あらゆる国の歴史を超越した、世界で最も古くかつ尊い家柄でなくてはならない。

世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならない。

我々は神に感謝する。神が我々人類に日本という国を作って置いてくれたことである。

20世紀を代表する頭脳と感性の持ち主が、これほどの讃美を送った1922年の日本とはいったいどんな国だったのか、興味が湧いてくるのではないでしょうか。

最後までご覧いただき、ありがとうございました。

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